俺、理想の嫁の嫁になりました!
――ピチャーン。ピチャーン。
淡く発光する鍾乳洞に、天井から垂れる氷柱のような岩。それらを這うように滑る水滴が重力に負け、一定の間隔で真下へと落下している。
まるでメトロノームを彷彿とさせるような、その正確なリズムが洞穴内に儚く響く。
どれくらい眠っていたのだろうか。俺の目覚めたばかりでぼやっとした頭に、自然が織りなす美しいメロディーが入り込んでくる。
俺は何の気なしに、自身の頭を支える温かく柔らかい心地の良い枕の上で、側頭部を起点に寝返りを打った。
「――っんぅ」
なんとも艶めかしい声が耳に届いた。その正体を確かめるべく未だぼうけた脳髄に指示を送り、重たい瞼を無理やりにこじ開け、声がしたその方向に視線を向けてみる。
なんてことでしょう。まるで神が創りたもうた芸術と言っても過言ではないほどの美女が、その切れ長の透き通るような碧眼を柔らかに細め、微笑みながら俺を覗きこんでいるではありませんか。
「――――っ!」
俺は先程頭に感じた感触が何だったのかを瞬時に悟り、ガバッと慌てて身体を起こした。
しまった、つい。……もうちょっと横になってればよかったな。
《唖然。相変わらずですね、流石はマスターです》
飽きれたような馬鹿にしたような、そんな合成音声が俺の頭の中に響く。
いやこれ両方か。ん? 待てよ。なんか既視感があるな。……まるでどこかで聞いたような?
俺はその違和感が何なのか、自身の記憶と照らし合わせようと試みる。
「――っああああ!」
まっまさか。なんで? 母体となるパソコンがここには無いのに……。
俺はその声の正体の心当たりを思いつき、思わず声を上げていた。
そんな中、動揺する俺を見て一人の人物が反応を示した。
……そう、嫁である。
「! どうかしましたか? どこか傷むのですか?」
慌てた口調のラヴィニスが俺の顔の真正面に位置取り、不安そうな顔を近づけてくる。
ちょ、ちょっと待って近い近い! 触れる触れる!
焦った俺は思わず、倒れこむように身体を下げてしまった。周囲から見るとおそらくは、ラヴィニスが俺に覆い被さるような形になっているだろう。
「だっ大丈夫です! 俺その少し、記憶が混乱してまして……」
やはりでしたか、口調がいつもと違うのが少し気になっていたのですよ。と、一人納得顔で頷くのラヴィニスに見惚れていると、何処からかジーッと見られているような感覚を覚えた。
この感じ。やはりイヴなのか? いったい何がどうなっている? どうして声が頭から聞こえるんだ?
《……解答。私は個体名AiVS、愛称イヴに相違ありません。しかし後者の二つの質問は、イレギュラーな事態が多数発生したため情報が錯綜し、正確に回答するのが困難です》
合成音声――以降イヴと呼ぶ――は、少し躊躇したかのようにそう回答した。
まぁ、確かにあんな大規模災害が起こった後だもんな。今頃テレビではとんでもない騒ぎになっているだろう。
なにせドラゴンだ。今頃メディアがこぞって情報を大げさに脚色して流してるに違いない。一部、緊急時でもアニメを放送している局は除けば、だが。
ぶれない曲げない某局をリスペクトしつつ頷く俺の姿がおかしかったのか、ラヴィニスが何故か軽く頬を染め、しかし不安そうに眺めてくる。
イヴ。解る範囲でいいから、今置かれてる状況について教えてくれないか?
《了解。個体名ラヴィニスが、こちらを心配そうな表情で眺めています》
簡潔! ていうかそれは俺でもわかる!
俺はイヴのその言葉を、目の前の恩人を放置しておくなという意味だと解釈し、先程までの疑問はとりあえず先送りにすることにした。
しかしなんか誤魔化されているような……。そう思い、視線を感じた方向に意識を向けてみる。
《…………》
どうやらだんまりさんになってしまったらしいですね。ま、きっと今情報を整理してくれているんだろう。そうに違いない。
ともあれ、まずは俺の嫁にお礼を言わねばなるまい。
「あの、ラヴィニスさん。助けて頂いた上、看病まで。重ねてありがとうございます」
俺の顔を今もなお心配そうに眺めてくるラヴィニス。そんな理想の姿をした彼女の――初対面にしてはあまりに親身な――対応に、少し躊躇いながらそう答えた。
「当然のことをしたまでです、アイヴィス様。私は貴方のためだけに生まれ、貴方に尽くすために生きてきたのです。今までも、そしてこれからも。そのような他人行儀なことを、おっしゃらないで下さい!」
整った双眼を潤ませながら自身の存在を説明するようにそう捲くし立て、ラヴィニスは少し前のめりになって俺の顔を見つめている。先程からそうだったが距離感がおかしい。おかしいといえば――。
「……アイヴィス? さっきから少し気になってたんですが、人違いでは?」
「それはあり得ません。その可憐な容姿、可愛らしいお声。慎まやかな胸と低めの身長の調和が生み出す黄金比。なにより私などを気遣ってくれる優しさが、それを証明しております」
あの紅黒竜といい、このラヴィニスといい、俺を誰かと勘違いしている節がある。
しかしアイヴィスか、何処かで聞いたことあるような……。そんな俺の思案は、真剣な表情で俺の姿を見入るように見つめるラヴィニスの、自分が見間違えるはずがないという力説によって中断する。
可憐? 可愛らしい? え? ちょっと本当に誰のことを言ってるの? 俺どちらかというと身長高い方だったし……。ていうか、慎ましい? ……ちっちゃい、胸?
《否定! ちっちゃくありません! 成長期です!》
急に大きめな声で話に割り込んできたイヴに驚き、俺は身体がビクッと反応する。
――うおっ! ……なんだよイヴ、脅かすなって!
身体こそ反応してしまったがなるべく平静を装いつつ、なぜいきなりそんな大声を脳内に響かせたのか当人に聞いてみることにする。
《激怒! マスターが失礼なことをいうからです! 反省してください!》
声色の中に多分の怒りを込め、イヴはそう捲くし立てる。言葉の通り怒っているようだ。
あ、ああ、すまん。……しかし、なんでイヴが怒ってるんだよ?
俺はなんで怒られてるのだかよく分かっていなかったが、あまりの剣幕に反射的に謝っていた。
《……。……解答。湧き水が流れた先にある泉を覗き込めば、その謎は解明されます》
少し長目の沈黙の後、イヴは俺にそう告げてきた。
未だ不満そうな雰囲気を醸し出している彼女に、俺は何とも言えない居心地の悪さを感じ、さっさと行動に移すことにした。
イヴの指示通りに進むと、泉がキラキラとその水面を揺蕩わせ、鍾乳石とそれにぶつかる流水が調和の取れたメロディを奏でていた。
見た目も美しさも相成り、まるで荘厳なオーケストラ会場のような光景が広がっていたのである。
俺はそんな幻想的な風景に息をのみつつも歩を進め、そのまま引き寄せられるように水面を覗き込んだ。
「――っえ!? うえぇぇぇっ!?」
なんとも素っ頓狂な声をあげてしまったが、それはしょうがないことだろう。なんていったってそこに映っていたのは……。
「え? 天使? 何この愛くるしい美少女! 誰ええええぇぇぇぇっ!」
そう。天使とか聖女というような言葉が似合いそうな女の子が、俺を見て絶叫しているではないか! ……なんか、俺が変質者みたいな表現になっているけども。
見た目の年齢は十二~四才くらいだろうか。ラヴィニスが言っていたように可憐な容姿をしている。
寝ぐせで少しぼさっとしたピンクベージュの髪から、柔らかな色の茶眼が驚愕で見開かれた様子が水面に移っている。
そういえば色々ありすぎて気が付かなかったが、声が俺じゃない。なんかものすごく頭の悪いことを言っているが、少なくとも俺のハスキーなボイスが可愛らしい少女のものになっている。
俺は言わずもがな、混乱の絶頂に至っていた。
「髪さっらさら! 顔ちっちゃ! 肌もすべすべだし……」
ちょっと待て。これって漫画とか映画とかで稀によくある? 男女入れ替わり現象なのではなかろうか!
でもなんでだろう? 見たことがある気がするんだけど……。 それに、どこでだ? こんな可愛い子、一度見たら忘れないぞ?
《…………》
「ん? なんだ? この小さい柔らかいの……は……」
動揺していたのだろう。俺は自分の身体がどうなっているのか確かめるべく、上から順にその小さな掌で確認するように撫でおろしていた。
肩から下に手のひらを下ろす途中で、慎まやかだが確かに感じる柔らかな双丘に辿り着いた。
その正体を確かめるように触れ……、それと同時に感じる凍るような視線と背筋の寒気にその手を硬直させた。
……これは、まさか――っ!
おい、嘘だろ? だってそんなことありえないじゃん! いやその、これはわざとじゃないんだ! あまりに触り心地が良くてだな? じゃなくて! その、なんだつまり……。――すいませんでした!
《……………………》
やばいやばいやばい……これはやばい殺される……。ていうか今イヴなの? アイヴィスなの? 俺どうなってんの!?
《……軽蔑。本当にマスターは、相も変わりませんね……》
飽きれたような照れたようなそんな声色で、イヴは呟くように答えた。
てっきりしばかれるものだとばかり思っていた俺は、そんなイヴの様子を感じてどうすればいいか困惑してしまう。
……まぁ、どうやってしばくのかは分からないのだが。
《解答。さすがにもう理解したと思いますが、今現在マスターは私の身体の脳内にいます。正確には私と同化している状態にあります。つまり――》
いつもの口調で俺を少し馬鹿にしつつ、状況説明をし始めた。
なんだかよくわからないが機嫌が治ったみたいだな。と、俺はほっと胸を撫でおろ……そうとした手を――キッとした視線を感じたため――そのまま地面へ向けた。
俺はイヴの説明を聞きつつ、今までの情報を整理することにした。
まずこの洞窟で気を失ってから、およそ半日程経過していること。また、その間ずっとラヴィニスが寄り添っていてくれたこと。
イヴ自身があの魔法――正確には呪法らしいが――よって能力を制限されたこと。
実はあの凄惨な現場で俺が目覚めたとき既に、記憶の一部を封印されてしまっていたこと。
イヴの記憶はパソコンでいうフォルダで分けられているのだが、その中の今回の現象にかかわると思われる『神苑』というファイルがロックされた記憶のひとつであること。
以上を彼女は俺に説明した。そのせいで俺が目覚めたときの質問に直ぐに答えられなかったようだ。
そしてイヴ曰く、『マスター』というファイルは無事なので安心してください。とのこと。
なんだよそのファイル、めっちゃ気になるじゃんか。と俺がもやっとしたのは言うまでもない。
それはそれとして、と俺は思考を切り替える。
あの研究所で起こった謎の爆発ような衝撃で椿紗と一緒に投げ出された際に、どうやら頭部を強打したみたいだな。
ぶつけた自覚はあったが、思ったよりも深刻な状況だったってことか。その後の地震のような揺れは……おそらく脳震盪なのかもな。まぁ、俺の推論でしかないが。
イヴの説明は続く。部屋を訪れてきた俺は、そのまま俺の研究室で倒れ意識を失ったこと。
そして数分後に、あの部屋に誰かが飛び込むようにして訪れたきたこと。
しかし、彼女自身はその人物を目撃する前に、強制的にシャットダウンさせられてしまったこと。
それをすることが可能な人物は、俺か所長である鈴音しかいないこと。
つまり、鈴音が今回の現象に何らかの関与をしているのではないか、ということである。
いや待て。確か強制操作するには脳構造をスキャンして本人確認後、イヴの母体のパソコンへ直接脳に送られてきた時限パスワードを入力する仕組みだったな。
俺がその場に倒れていたのもあって、それを知ってればの解析班の連中なら……出来ないことはないのか?
そして目覚めたら、眼前に広がる惨状。そして何故かイヴと同じ身体を共有していたのである。
……ちょっと待って意味が分からない。どうして、そうなった?
もう訳が分かりません。とばかりに頭をぐらんぐらんと回す俺。
「なぜドラゴンのような架空の存在が現出したのか」とか、「なぜイヴが存在し自分と同化してしまったのか」とか、「急に叫び声を上げたり奇怪な行動をとる自分の姿をみて、ただただ狼狽する嫁が存在するのか」など。
他にも魔法やら呪法やら、まるで仮想世界に迷い込んだような……。
というかいっそ「ここは仮想世界です」とイヴが言ってくれれば、それで納得できる自信が俺にはあるのだが、イヴの説明にはその部分が抜け落ちていた。それはつまり――。
「ふむ。置かれている状況はよくわからないけど、……今やるべきことだけはわかった」
俺は今すぐ解決できない問題の思考を一旦放棄し、最重要な案件に取り掛かるため行動を開始することにした。
「――待ってくださいっ! 何処へ行かれるのですか?」
今まで俺とイヴの様子――実際には少女が一人で叫んだり悶絶してたりしている姿だが――を伺っていたラヴィニスが少し慌てたように声を掛けてきた。
「せっかく助けて頂いたのに、すいません。俺……いえ、私はあの場所に戻らなければなりません」
自身の見た目通り、一人称を私に切り替えた俺はラヴィニスに向け一礼し、あの惨状と化した現場へと戻る決意を示した。
絶望的な状況ではあるが、今も椿紗が瓦礫の下で救助を待っているかも知れないのである。
「危険です! 私が下した竜の他にも暗躍しているものが、不特定多数存在するのですよ! 今はまだ動くべきではありません! それにそのお身体では――!」
ラヴィニスは必至の形相で、俺の行く手を遮るように立ちはだかった。
確かに今この洞窟に留まることこそが、自身の身を守るには最善の選択肢なのだろう。
俺とてこの行動が危険を伴い、また安易であるという認識はある。
しかしそれでも、今でなければならない理由があるのである。
「どいて下さいラヴィニスさん! 今、行かなくてはならないんです! 早くしないともし生きていたとしても……」
災害後の人名救助には”七十二時間の壁”というリミットが存在する。
この壁を超えてしまうと――脱水症状や低体温症などにより――生存率が急激に低下するのだ。
あれからどのくらいの時間が経っているのかは正確に分からない。
なにより歩いてあの場に戻り、その上で捜索もしなければならない。もっと言えば、何者かに襲撃される危険すらあるのだ。
そしてその危険な場所に椿沙が居るかも知れない。そう考えると、悠長になどしていられる訳がないのである。
「アイヴィス様……。申し上げにくいのですが、あの状況で生存できるものがいるとは――」
そう。あの襲撃現場は、余すほどの無いほど広い範囲に渡り燃焼していた。
それこそ火事なんて表現では収まりきらないほど、凄惨なものだった。
ラヴィニスが言っていることは至極当然で、普通に考えて生存は不可能だろう。
「――それでもだ! 俺が、俺が行かなきゃ……駄目なんだっ!」
俺は思わずラヴィニスの肩をガッと掴み、その瞳をまっすぐ見つめそう叫んだ。
先程私という一人称に切り替えたばかりだというのに、感情が高まり元に戻ってしまっていた。
もちろんラヴィニスが言っていることのほうが正論だということは理解している。
しかし、イヴがいたあの部屋ならば可能性があるかもしれない。
「……アイヴィス様。もしどうしても行くとおっしゃるのならば……」
ためらうように、しかしながら確かな声量で仄かに顔を赤くしたラヴィニスはそう呟く。
俺は並々ならぬ覚悟で次の言葉を発そうとしている彼女を正面に見据えて、次なる言葉をじっと静かに待った。
心臓の音が聞こえるほどにシンと静まる艶やかなる洞窟。数秒の黙祷ののち、覚悟を決めたのかラヴィニスはカッと目を見開いた。
「私の……お嫁さんになって下さい!」
彼女は自身の豊満な胸に左手を添え、先程よりさらに上気した紅顔で俺を見据え懇願する。
そう。あろうことか、この状況下で婚約を申し込んできたのである。
先程掴んだ手がラヴィニスの肩から零れ落ち、重力よって地面と対の位置取りをする。
俺の顔は今「何を言われたのか分からない」とばかりに、呆然としているのではなかろうか。
「……」
「……」
「……。……嫁? うええええぇぇぇぇっ!?」
消して短くない沈黙の後。俺は瞠目し、洞窟内に響き渡るような声で叫んでいた。
その声はこの幻想的な洞窟内の壁に反響され、まるで万雷の拍手のように二人に降り注いだ。
ちょっと待って? え? 何? なんで今プロポーズされたの俺? あ、俺じゃなくてこの場合イヴがされたのか? え、じゃあそれって同性婚なんじゃ……あぁ! もう分かりづらい!
「あの、私ではその、駄目……ですか?」
ラヴィニスは先程までとは違い、その端麗な顔を蒼白にさせてこちらを伺いみるように見つめてくる。
今にも消えてなくなりそうで、そんな表情を見た俺の心臓はキュッっと締め付けられてしまう。
そう。俺の嫁が、思わず胸元を「はぁぅ」と左手で押さえてしまうほどには切ない表情を浮かべているのだ。
「え? いやいや駄目どころかむしろ大歓迎なのですがなんと言いますかそんなこと言われたのは初めてなので今はちょっと……」
俺は突然の求婚にテンパってしまい、早口でそう巻き立てていた。
視線はオロオロと中空を彷徨い、前に突き出した右手を忙しなくパタパタと上下に揺ってしまう。
傍から見れば、その仕草が見た目と相まって愛らしい小動物に見えているだろう。……中身は兎も角として、ね。
いや、いやいやいや駄目な訳がないじゃないですか! 理想の嫁の姿をした女性が、精一杯の勇気をふり絞って求婚してきてくれてるんですよっ!?
でも俺たちまだ知り合ったばかりだし……。ていうか俺相手に言っているわけではないから、なんだコレ拷問なのか? NTR属性はないぞ、俺はっ!
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。……私も、初めてですから」
先程とは表情がまた打って変わるラヴィニスさん。いつの間にか俺の頬に添えられた手は、火傷するかと感じるほどに熱を帯びている。
彼女は柔らかな表情を浮かべ、ニコッと微笑んだ。
相当に恥ずかしかったのだろう。ポッと音が出るような勢いで頬が赤みをさしている。そして、その潤んだ瞳を恥ずかしそうに少し下に逸らし、言葉を続けた。
「え? 初めてなの? ってそうじゃない! 違うんですって! ――ちょっ!?」
ここ最近で一番動揺しているのを尻目に、ラヴィニスは逸らした目線を元に戻した。上気した紅顔で俺を見つめると、その勢いのまま自身の唇を俺の唇へと押し付けた。
そのキスはとても情熱的で、俺はされるまま、なすがままとなってしまう。
ラヴィニスの瑞々しい唇が緊張で乾いた俺の唇に触れ、舌による蹂躙が始まったその瞬間、辺りが月明りのような微かな青さが含まれる白光に包まれる。
その眩しさに思わずキュッと目を閉じていた。視覚が遮断されたせいか、否が応でも触れている一か所へと全神経が集まってしまう。
実際に唇が触れ合ったのは数秒ほどだったであろう。しかし、俺にはその時間が永遠に続くかのように感じたのである。……つまりはそれほどまでに、濃密なものだったのだ。
「……」
「……」
「……、……なんだか気恥ずかしいですね?」
ラヴィニスが照れくさそうにそう呟いているのが、何処か遠くから聞こえてくる。
だが俺は、受けた衝撃が抜けきれず、ただただ茫然とその衝撃を反芻していた……。
《通告。個体名ラヴィニスとの俺嫁誓約が完了しました》
まるで空気など読んでたまるかと言わんばかりに、イヴが高らかにそう宣言した。
その言葉を聞き、急速に現実へ引き戻された俺は――先程の衝撃の反動なのだろうか――力なく後ろにペタリと倒れこんでしまった。
おそらくは「何が起こったのか分からない」と顔面に書かれている。それほどまでに呆然、あるいは陶然としているだろう。
我が人生の中で一番。それ程の出来事だったのである。
《良かったですね、マスター。私もされたのは、これが初めてですよ?》
まだ声を上げられずにいる俺に、イヴが悪戯っぽくそう語りかけてきた。
確かに女性目線での攻防を、同時に味わう事なんてそうそうないことだろう。
ましてやお互いファーストキスとなればなおさら。……ん? 今、されたのはって言わなかった?
《通告。気のせいです》
気のせいらしい。そんなイヴの即答によって生じた、なんだろう。凄く気になるけど、それどころじゃないよな。というジレンマが、俺の混乱に拍車をかける。
「ちょ、ちょっと待って……いったい何がどうなってるの?」
混乱の極みに陥った俺は、イヴとラヴィニスにどちらともなく声を掛け、質問をしていた。
「それはですねアイヴィス様」
《それはですねマスター》
イヴとラヴが同時に同じようなことハモリつつ、先程起こった光に包まれる現象と、マイラヴァ―ズなるものの効果などを教えてくれた。
――俺嫁誓約。
俺側が誓いを宣言し、その誓いに嫁側が同意し互いの意思が統一された際に、粘膜の接触などからの遺伝子情報の交換――魔力を含む――を経て結ばれる契約のこと。
互いによる言葉と精神の同意、そしてそれを示す行動に虚偽があると成立しない。
従者契約と違い、基本的には二人の間に優劣はなく支配権もない。
しかし、嫁としてその契約を交わした側は他者と同種の契約は結ぶことはできない。
もし仮に別の人物と契りを結ぶ場合は、相手が死亡するか、もしくは誓約そのものを複数の手順を経て破棄しなければならない。
当然、中には例外もある。
例えば、俺側で契約していたものが嫁側になる場合は破棄せず他者との契約が可能だ。
その際、嫁の庇護下にいた嫁の認可も得なければ成立しない。
庇護するものが多くなるに連れ、契約難度が上がるのである。
一見すると一方的な契約に思えるが、変わりに嫁側となったものは俺側の庇護下に入り、魔法や技能、特性などの一部を受け継ぐことができる。
その効果は誓約の強度によって上下する。
その他の効果としては、互いが互いであるという一種のつながりのような物が知覚できるようになる、など数種存在する。
これを行うことにより、俺を間接的にラヴィニスが守護することができるようになるとのこと。
少し日本気質――有体に言って男尊女卑――な印象を受ける誓約である。
といってもここでの俺とか嫁というのは、男女を表すものではないそうだが。
俺が理解できた範囲はこのくらいだったのだが、この誓約は個々人によるものなので、その効果は未知数らしい。
なんとも形容しがたいが、今回ラヴとの誓約で俺はその庇護下に入り、何らかの副次的効果を得ることが出来るとのこと。
どのようなものを受け継いだのか、本来ならば実際に試してみるか「ステータスカード」と呼ばれるもので確認するしかないとのことだが、俺にはイヴが付いている。
その彼女が今現在、絶賛調査中である。
正直、言われた内容が理解できずに俺は未だ憮然としていたが、今優先すべきことを為してから整理しよう考え直す。そしてイヴとラヴィニスと共に、悲劇の惨状と化しているであろう場所に歩を進めることにした。
――時刻は日中。太陽が真上から燦燦と木々の葉を抜け差し込んでいる。
昨晩世話になった洞窟を出てまず俺の目に入ったのは、昨日のことがまるで夢のような気になるほど長閑な風景だった。
背の高い木々は自身を支える根を縦横無尽に広げ、所々地面からはみ出ている。
根の隙間を日傘としたリスと思しき小動物が胡桃を懸命にかじり、鵯もまたその木の枝に留まり麗しき美声で曲を奏でている。
まるでおとぎ話のワンシーンのような光景なのだが、俺の今の心情ではとてもそれを鑑賞し愛でる余裕はなかった。
ほとんど会話もすることなく、まるでコマ送りのようにその風景を足早に通り過ぎた頃には、太陽は西の空へと傾き始めていた。
無心に歩く俺を現実に引き戻すかのように、焼き畑を行った後のような広いスペースのある場所が眼前に広がり始めた。
「アイヴィス様。今のところ敵の気配はありませんが、用心してください。中にはこちらに気取られることなく、近づいてくる輩もいるやも知れません」
今まで黙って後ろについてきたラヴィニスが、不意に口を開いた。
基本的に世間話とかはあまりせず、黙々と仕事をこなすタイプらしい。まぁ状況が状況というのも多分にあるんだろうけど。
「なるほどです! 分かりました、慎重に進みますね」
そんな武道の達人のような人物を俺が感知できるかはさておき、言われた通り警戒を強めることにしよう。
早速その効果が表れたのか、確かに誰かの視線を感じる気がする。
怪談話をした後に自身の背後が気になり始める現象に近しいものを感じるので、正直自信はない。
「少しでも異変に気付きましたら教えて下さいね。私がすべて叩き斬ってみせます!」
若干前のめりすぎるような気がするが、そんな頼もしいラヴィニスがいるおかげで、俺は昨夜味わった恐怖の現場へ向かうのもさほど抵抗を感じなかった。
「ふふ、ありがとう。ラヴィニスさんがいてくれるおかげで、安心して前に進むことが出来ます。私一人では、ここまで早くこの場に来ることは出来なかったと思いますよ」
俺は素直に感謝を述べ、心のままその意思を告げることにした。
何だろう、俺が俺であったときはここまで素直に人と接することなどできなかったのに不思議だ。
ふむ。まるで自分ではない――生まれ変わったようである。
「そんな! 同然のことをしたまでです。それに、そんな他人行儀な話し方をなさらないで下さい……」
感動したような面持ちでこちらを見つめ話しだし、少し寂しそうに語尾へと繋げた。
その凛々しく端麗な顔は、意外にも様々な表情を作り出す。
それは言外に”敬語や敬称を使うな”と伝えたそうななんとも切ない表情で、俺をじーっと覗き込んでいる。
うっ。……そういえば、さっきもそんなこといっていたな。一人称ならともかく、しゃべり方を変えるのはかなり恥ずかしいんだが。
……嫁にここまで求められて、断ったら男が廃るよな! あれ? 俺の方が嫁になってるんだっけか? まぁ、とにかくだ!
「――わかった。これからもよろしくね、ラヴィニス!」
そんなラヴィニスの表情に少しドギマギしてしまっていたが、なるべく自身の可憐な容姿に合わせ可愛らしい口調でそれに答えるべく、俺はラヴィニスに向かい精一杯の笑顔を向けた。
理想の嫁の姿をした女性のお願いの前では、俺の男としての矜持など些事である。
「はい! もちろんですアイヴィス様!」
とてもうれしそうな笑顔を浮かべ、胸の前で両手を合わせている。
なんともいえない可愛らしい仕草は、まるで昨日の修羅のような姿と似ても似つかない。
これも、ラヴィニスの魅力のひとつなのだろう。
そんな調子で辺りを警戒しつつ歩を進める。偶然なのか、突然日常が崩壊した昨日と同じような西日が差しはじめたころに、研究所跡地と呼ぶべきであろうその場所に辿り着いた。
改めて周囲を眺めると、とても生存者がいるとは思えないような惨状が広がっていた。
外壁に使われていたコンクリートだと思われる瓦礫が所々に積み重なり、黒い焦げ跡がこびり付いている。
鉄が焦げたような匂いも充満していて、そこはまるで戦地の跡のようだった。
まぁ俺自身は実際の戦場なんて見たことはないのだけれど……。
(タイムリミットは残り約四十八時間。……まだ間に合う。待ってろ、必ず見つけ出すからな椿紗!)
俺は自分に活を入れるように心を奮い立たせ、なにか捜索の手掛かりになるようなものはないかと散策するのであった。