旦那さんが学園に来ちゃったんだが!
来訪者。訪れるもの次第ですが、新たな予感を感じさせる良い言葉ですよね。
恒星が連なる山脈に触れ始め、西日が少しずつ陰り始めたのだろう。眩さは次第に皇国を彩る毛筆へと変化してゆく。自身に絵心があるならば、思わずこの絶景を真っ白なキャンバスに描き殴っていただろう。
「――えっ! アリスってあのドルマスの娘なの!?」
ステラとエステルに連れられて使われていない空き教室に来た俺は、突如衝撃的な事実を耳にすることになった。
なんとこの国の事実上のトップとも呼べるドルマスの娘がこの学園にいて、しかもアリスだというのである。
「まっ!? お声が大きいですわアイヴィスさん。もし誰かにこのようなことを聞かれてしまっては、私達の立つ瀬が無くなってしまいます!」
「本当ですわ。気を付けて下さいまし、アイヴィスさん」
「うっ。ごめん、ちょっとびっくりしちゃってさ……」
俺の不用意な発言に反応し、慌ててステラがその両手で口を塞ぐように優しく覆う。コクリと頷くとすぐに放してくれたが、エステルに釘を刺されてしまう。
どこかで聞いたような羅列に意図せずなってしまった気がするが、そんなことを気にしている場合ではない。
「それに、実の娘ではなく養女ですわ」というステラの言葉と、「私達も同様です」というエステルの言葉も気になる。
そういえば以前、彼は未婚だとイサギさんが言っていたな。彼女達の話によるとそういった娘達を何人か見繕い、皇帝であるエルクドに婚約者として薦めているって事情らしい。
アリスや彼女らもそういった娘の中の一人だったというわけか。確かに公にすると彼女達が奇異の目に晒されかねないな。驚いて声に出てしまったが、反省しないといけないね。
しかし気にくわないな。この世界では娘や養女が政略結婚の対象になることは決して珍しい事例じゃないそうだが、それでも友人がそのような立場に晒されているとなると思うところはある。……差し当たって何が出来るわけでもないんだけどね。
「それについてはご安心して下さい。ご心配なさっていることは理解出来るつもりです。アリス様は良くも悪くも候補外。あのクソ野――もとい王子様のお眼鏡には適わなかったようですの」
「私達二人も同様で、あのボンク――もとい皇帝様の趣味ではなかったようなのです」
「どうやら出るところがしっかり出ていて、色々と頑丈な女性がお好みらしいですわ」
まるで吐き捨てるように言い放つ二人。口調こそ丁寧なものの、どうやらこれが本来の彼女達なのであろうことだけは分かる。
個人的には普段のしゃっちこばった態度より余程好感が持てる。普段からこのようにしていれば話しやすいのにとは思ったが、心の中で考えるだけに留めておこう。
口は禍の元。余計な一言ほど無意味なものなど無いんだよね。ただでさえそれで色々失敗してきているからな、うん。
「あー、なるほど。そういう事情だったのか」
「……何をご納得されたのか、少々お伺いしたいのですが」
「貴女も大概だという事実もお忘れなきよう……」
目が怖いっ!? どうやら早速やらかしてしまったようだな? ……よし、分からん! とりあえず褒めておこう!
「ふむ。しかし皇帝様とやらも見る目がないね。アリスなんてまるで神話上の女神だし、ステラさんのちっぱいなんて至高の一言だし、エステルさんのスラっとした長い脚にはモデルさんも顔負けだよ」
「……ちっぱい?」
「モデルとは誰のことでしょう……?」
どうやら伝わらなかったようだ。アリスに関しての美意識はどうやら違和感が無いみたいだし、単純に意味が分からないといったところかな。……さて、どうしようか。
《通告。最低です。マスターは本当にどうしようもありませんね。少なくともちっぱいが至高と言われて、喜ぶ女性は存在しないと思いますよ》
――うわっ!? なんだびっくりさせないでくれよイヴ。……いや、でも確かにそうか。女性の胸は男の髪と同義だって誰かが言っていた気もするし、その散らかり具合が可愛いですね。とか言われたら思わず手が出そうだもんな。うん、気を付けよう。
うーむ。しかし、どうしたものか。女性の褒め方なんて学校で教わってないぞ? 頼むマーリン女史。俺にその講義、早速今夜にでも手取り足取り教えては下さいませんか!?
《通告。大事なことなので二回言いますが、マスターは最低です。一度痛い目を見て分からせた方が良いのではないかと、最近本気で思い始めました》
ま、ままま、待ってくれイヴさん。俺が悪かったって! 本当にごめん! その上でお願いします! どうしようもないこの私めに何か妙案を授けては頂けないでしょうか!?
《……嘆息。本当に仕方のないマスターですね。褒めるとはそもそも好感を相手に分かりやすく伝えることです。それを踏まえて発言なさってはいかがでしょうか?》
好感、ね。なるほど、確かに回りくどい言い方より率直な感想の方が伝わるかもしれないな。……よし、分かった! それならば大丈夫、簡単さ!
「少なくとも、私は好きだよ? ってこと。とても魅力的に映るといった方が、分かりやすいかな?」
ちょっとした恥ずかしさも相まって自身の頬を指先で触ってしまったが、これ以外あるまい。
《…………》
……あれ? なんでイヴさんちょっと呆れてるの? え。嘘、俺もしかして、また間違えました!?
「――ま”っ!? 何を言っているのかお分かりですの貴女! そ、そんなことおっしゃっても、私は騙されませんからね!?」
「ほ、ほほほ、本当ですわっ! さてはアリス様にもそうやって近づいたのですね!? さ、最低です!」
「うぇっ!? な、何? やっぱり私、最低なの?」
沸騰したやかんの様に興奮を露わにする二人。真っ赤に染まった顔のまま物凄い勢いで俺に迫ってくる。意図したわけではないのだろうが、いつの間にやら教室の角に追い詰められていて逃げ出そうにもどうにもならない。
何よりイヴ以外の人にも最低と言われ、少し凹んでしまった。軽はずみに捉えられていそうだが、本音であることは間違いない。ああ言わないと恥ずかしくて言葉に出来ないから背負うがなかったのだ。
しかしこの状況、デジャヴを感じる。何だろう、まるでアリスとシャルルに囲まれたとルーアが勘違いしたときのような……? ――はっ! この気配は!?
「……貴女達、アイヴィス様に何をしようとしているのですか? それ以上近付くことは許しません。――斬りますよ?」
「ステラさん? エステルさん? あれぇ? お二人は一体全体アイちゃんに何しようとしてるのかなぁ? んー?」
「お、お二人とも落ち着いてくださいっ! あぁ、ラヴィニスさん腰の長物に手を沿えないで。あぁぁ、アリスさんも魔力が駄々洩れになってしまっていますよ!?」
……うぼぁ。なんて恐ろしい殺気なんだ。イヴが呆れたように、やっぱり俺って駄目な子なのかもしれない。
己が口から出た言の葉は、どうやら二体の夜叉という災いを呼び起こしてしまったようだ。昔の偉い人、ことわざって存外真実を捕らえているものなのですね。
半ば投げやりになりながら、俺はそんな今はどうでもよいであろう歴史の偉人に畏敬の念を捧げてみる。
「ま、まぁアリス様! こっこれは誓って一切思われているような私闘などではなく――」
「ほ、本当ですわアリス様! 少々困った状況になってしまったので、最近アリス様が仲睦ましくされてるご友人であるアイヴィスさんのその御手を借りられないかと思った次第でありまして――」
慌てふためく二人。エステルに関しては、今まででこんなにしゃべったことがあるのだろうかと思うほどの長文を口早に言い切っている。
二人の余りの剣幕にきょとんとしていると、ステラとエステルに睨まれた。一瞬何で見てるのか分からなかったが、おそらくは同意を求めているのだろう。ここはそれとなくフォローを入れておくのが吉である。
「う、うん? ……そう! そうなんだよラヴちゃん! 私、困ってる友人を助けたいんだった! だ、だから落ち着いて、ね?」
ちょっとどもってしまったが問題あるまい。たとえラヴィニスとアリスが無表情になっていようとも、全然ビビッてなんかいないから。本当に。
そもそも別に彼女達は俺を責めているわけではないのだが、間近で不意に激情を受けるとどうしても委縮してしまう。それほど心配してもらえるのはありがたいとは思うのだけどね。
それにこの二人、最近似て来ている気がする。時折まるで古くから付き合いのある友人の如く、息がぴったりと合うことがあるのだ。
「ほらっ! アイちゃん様もこうおっしゃっている訳ですし、少し冷静になって下さい!」
「…………」
「…………は~い」
まるで母親に叱られた仲の良い姉妹のようだ。不貞腐れたように目を逸らす姉ラヴィニスと、少し頬を膨らませて不満そうに返事をする妹アリス。ふむ。我ながら、言い得て妙なのではないだろうか。
「全くもう、しょうがないんだから。普段はあんなにしっかりしているのに」と母親のように愚痴をこぼすシャルルがまた、その例えにリアリティを与える一つのアクセントになっている。
ん? それはそれとして、エステルが妙なことを口走っていたな。困った状況だとか、手を借りたいだとか。力になれるかは正直分からんが、ちょっと気にはなる。
何よりシャルルのおかげで場の雰囲気が一応の落ち着きを取り戻している。今話題を変えることでさっきまでのカオスな状況をリセット出来るのではなかろうか。
「そういえばエステルさん何か困ってるの? 役に立てるかは分からないけど、相談くらいなら乗れるよ?」
何の気なしにあっけからんと努めて聞いてみる。前後の脈絡的には少々強引だが、このタイミングなら何とでもなるだろう。
「「「「…………」」」」
「…………?」
そう思って聞いてみたのだが、ラヴィニスを除く四人がビシリと固まってしまった。きょとんとするラヴちゃんが何とも可愛らしい。
って、それどころじゃない。……え? 何、この空気。嫌な予感しかしないんですけど。
伺いみるように互いの顔を覗き込む四人。とりあえず可愛いからラヴちゃんは頭を撫でるとして、さて。どうしようか?
当然頭上に手を置かれ、ビクリと反応するラヴィニス。次第に心地が良くなってきたのか目を細め、されるがままとなっている。このまま顎を撫でればゴロニャーンとでも言いそうなほど弛緩しているその表情は何とも愛くるしく、また情欲的である。
「ちょっとアイちゃんっ! どうしてこのタイミングでイチャイチャ出来るのぉ!?」
「アイちゃん様……。流石に私もこの雰囲気で仲良くされると思うところがありますよ……?」
怒られた。そうだよね、ごめんなさい。でも無理、耐えられなかったの。……俺の嫁が、可愛すぎるのがいけないんだ。
なんて口に出したらそれこそ激怒されそうだ。意図して話の腰を折ろうとした訳ではないので、これ以上ヘイトを稼ぐ行動は控えた方がよさそうだ。
とは言っても実際どうしたものだろう。話したくないことを無理に話させるのもなんだし、何より少々厄介事の予感がする。
「ごめんなさい。話辛いこと聞いちゃったみたいだね。あまり首を突っ込むのも迷惑になっちゃうだろうから、聞かなかったことにして?」
ふむ。これなら角も立つまい。ついでに面倒も避けられそうな一石二鳥トークよ。ふふ、二十五年の歳月をなめてもらっては困る。
後は華麗なターンを決め、ラヴィニスとともにこの部屋を後にするだけだ。何も問題はあるまい。
「お待ち下さいアイヴィスさんっ!」
「お願いです。待って下さいアイヴィスさんっ!」
後もう少しで部屋から出れそうだというときに、ステラとエステルが俺を呼び止める。その切羽詰まったような声を聞き、振り返らないことなど出来なかった。
アリスが二人を制しようと前に出るが、それを振り切って俺の目の前まで小走りで駆け寄って来る。
何やら覚悟を決めたのか、その瞳には決意の意思が宿っている。何を切り出すつもりなのかは分からないが、真剣に聞く必要がありそうだということぐらいは俺にも理解出来る。……友人の友人を蔑ろにするわけにもいかないし、ね。
「「アリス様をお嫁に貰ってあげて下さいっ!」」
「――ちょっ!?」
今日一大きな声量で、今日一息の合ったテンポで言い放つステラとエステル。いつの間にか夕暮れが近づいている空き教室に、その言葉に驚いたアリスの素っ頓狂な言葉が響き渡る。
正直何を言われたのか、聞こえてはいたが理解が及ばない。え? 嫁に? アリスを? 俺が?
「はいっ? な、何? え? ど、どういうこと? アリスを、嫁に? え? うええええっ!?」
混乱した思考そのままに思わず発言してしまう。言葉の通り意味が分からない。分かることと言えば、ラヴィニスがかなり不機嫌になっているという事実だけだ。
こ、これは後で大変だぞ。今夜は寝れないかもしれん。当然そこに色気などはなく、待つのは「全くアイヴィス様は――」から始まる正嫁のいつものお小言だ。
ていうかそもそも今の俺は女の子な訳だし、嫁に貰ってくれは一般的におかしいだろ? え、もしかしてアヴィスフィアってジェンダーフリーなの?
「まぁ、その反応は当然ですわね。しかし、四の五の言っていられる状況では無くなってしまったのです。……事は、一刻を争うのですわ!」
「本気も本気ですわ。アリス様には幸せになる義務がございます。相手が女性でありさらに貴方というのが少々不安ですが、この際その点は目を瞑りましょう!」
「う、うぇっ!? ステラさん!? エステルさん!? 貴方達は何を訳の分からないことを口走って、一体何をしているのですかぁ!?!?」
俺の右手をガッと掴み、アリスの左手の甲へ重ねるステラ。エステルの手によりもう一方の手もやや優しく捕らわれ、同様の処置を施される。されるがままに互いの胸のあたりで手のひら通しをギュッと押し付けられる俺とアリス。お祈りをする手を包み込むような状態といった方が分かりやすいだろうか。
マイペースを崩すことなく貫いてきたアリスが今までで一番の混乱を見せている。具体的に言うならば、良いように振り回され目をグルグルと回し、赤くないところを探す方が難しいほど顔を朱に染めているのだ。緊張もしているのだろう。滲む汗が直接触れ合っている部分を通し、俺に伝ってくるのが分かる。
「まぁまぁアリス様。何を恥ずかしがる必要がございましょうか。毎日毎日アイヴィス様のことばかりお話になられて、今更何を胡麻化そうとしてもそれは問屋が卸さないということになりましょう」
「本当ですわ、アリス様。アイちゃん、今なにしてるかなぁ? またあの娘といるのかなぁ? とか、ちょっとベタベタしすぎたかなぁ。ねぇエステルさん、どうしたらアイちゃんに振り向いてもらえると思うー? とか。あのヒトにまるで関心のなかったアリス様が、うぅっ。立派に成長なされて――」
「う、うわああああっ!? ちょっと待って本当にぃ! アイちゃんっ! これはその、違うのよぉ? 転校したてで不安だろうと思って私も中途だから気になって、えぇっとつまりそういうことなのっ!」
普段は飄々としている彼女だが、イレギュラーな展開にはとんと弱いらしい。なまじっか人の機微に聡いため、こういう展開には慣れていないのだろう。
あまり強くは握っていないため、逃れることは困難ではないだろう。未だ振りほどかないということはそれほど嫌ではないか、それどころではないかのどちらかになる。
ああでもないこうでもないと激しい論争を繰り広げる三人娘。シャルルは既に諦めたのか、その様子を傍観している。どこを見ているのか分からないが、随分と遠い目をしている。何か彼女自身も思い悩むことがあるのだろうか。
「ああもう、くどいですわ! めんどくさいから早く告白して下さいませっ!」
「えぇえぇ、全くその通り! ただでさえ最近そのせいでお料理が進んで困っているのですわっ!」
「めんどくさいっ!? ちょっと待ってステラさんそれは少々酷過ぎるのでは――」
すでに魔法は解けている。三人の関係からみてアリスは一つ上の立場に置かれているのだが、その垣根は恋バナの前では何の意味もなさない木偶と化すようだ。
それにエステルさんに至っては前から――。と言おうとしたのをガッと口元を抑えられもがくアリスが何とも愛らしい。
彼女らの真意は分からない。それほど長い付き合いではないからという理由ではなく、そもそも人の心の中などそう簡単に暴けるものではないからだ。
しかし、ここははっきりさせなればならないだろう。例え彼女らが真剣であれふざけ半分であれ、俺にも譲れぬものがあるのである。
「……ごめんなさい。アリスをお嫁さんに貰うことは、私には出来ませんっ!」
「「「――――ッ!?」」」
断られるとは思っていなかったのだろう。目の前に三人の驚いた顔が並んでいる。両側の二人の顔色はだんだんと紅潮していき、真ん中の一人は反比例するようにだんだんと青ざめていくのが分かる。
自身の発言により、このような現象を引き起こしてしまった事実。代償は心にまるで魚の小骨の如くチクリと刺さる鈍い痛みと、アリスのこの世に絶望したような悲哀溢れる表情だ。
譲れないことだとはいえ、この結果を招いてしまったことに対し、激しい感情の波がこれで良かったのかと揺さぶりをかけてくる。
だが、俺に後悔はない。全てを丸く収めるなどという傲慢が机上の空論であるということを、歳月を重ねたなりには理解していると自負しているからだ。
確かにアリスは可愛いし、魅力である。出会うのが後少しだけ早ければ、おそらく惹かれていたのは俺の方だったであろう。悔しいが年甲斐もなく、そう思えるほどには意識してしまっていたのは認めざるを得まい。
「待って下さいアイヴィスさん! アリス様の何が気に入らないと言うのですか! こんなに優しく、器量の言い方など。貴方の今後の人生でも会うことなど出来はしませんわよ!」
「本当に馬鹿な方ですわ貴方はっ! 貴方が女性が好きなのも、ラヴィニスさんと特別な仲なのも知ったうえで告白しているのです! このような健気な方を、貴方は無情にも切り捨てるというのですのっ!?」
「――う、うぅ。……っ私じゃ、駄目なのぉ。ねぇ、アイちゃぁん」
もしかして伴侶とする人数を気にされてますの!? とステラが詰めると、歴史を紐解いても名を遺す者は皆、最低でも数人の伴侶を侍らせるという記述を文献で見たことがありますわ。とエステルが口早に追従する。
いや、そういう意味で言った訳ではなくてですね? それには誓約と書いて呪いというか、制約と書いて呪いというかの違いの束縛が影響してましてですね?
……何よりラヴちゃんを独占したいし、またオンリーワンでありたいんだよね。まだ話は早すぎるだろうけど、子供にすら取られるのが嫌だと思うくらいには屈折しているんです。
だから、涙を貯めた上目遣いで俺を覗きこまないでくれアリスよ。愚かな俺故に感情に流され、思わず抱きしめたくなってしまうだろうが……。
いつもの様子は何処へやら、別人のようにか細く縋ってくるアリス。自分でも気持ちの整理が追い付かないのだろう。まるで初めて都会で迷い、にっちもさっちも行かなくなった幼子の様である。
こんな時は頼れる保護者に頼るしかない。ねぇシャルル――。
「あ、あああ、アイちゃん様ぁ。……そ、そんな殺生な。アリスさんですら駄目なのでは私など、一体どうしたら良いのでしょう……」
――あ、あれ? なんか駄目そうだ。普段はあんなに自信満々な彼女も、どうやら色恋になると勝手が違うらしい。
いや本当我ながら罪作りな女ですわ。以前では考えられん。やはり顔が良いだけでもこんなに違ってくるものなのだな。何故か男ではなく女にモテている事実を除いて、だが。
ふむ。しかしこの状況、どうしたものか。こんなときは特に俺が男の身体であればとも思ったりするが、言っても始まらない。
それにたとえそうであったとしても困った状況なのは変わりないし、そもそも前提として相手にすらされていないだろうから、ね。
《…………》
あの、イヴさん。俺、困ってるんです。なのでそんなどうしようもない人を憐れむような雰囲気を、醸し出さないで欲しいのですがっ!
《嘆息。無自覚な発言で相手を翻弄するのは、以前も同様でしたよ。と言ったところで無意味なのは理解しています》
…………え? 俺って誰かを翻弄してたっけ? その、振り回されてる記憶しか無いのだが。
《……嘆息。それはそれとして。状況の打破ですが、やはりここも情報開示が手っ取り早いと愚行します。選択するのはマスターですが、相手を信頼するのであれば自身の置かれた状況を説明するのが良いのではないでしょうか?》
めっちゃ呆れられてる!? 俺にはイヴしか頼れる人いないんだから。見捨てるなんてダメ、絶対っ!!
そして的確なアドバイスをありがとう! どの選択が一番効果的か、少し真剣に考えてみるよ。
《……ふぅ。まったく……そういうところですよ?》
ん? あれイヴさん、何か言いました?
《通告。気のせいです》
そう。なら別に、いいんだけどさ。
……よし、決めた。転性した事実はややこしくなるから省くとして、俺が置かれている状況だけは彼女達に説明することにしよう!
この状況なら基本俺は即決即断。何が起こるかは経過次第だが、今はそれが安全且つ確実な方法なのではないだろうか。何かあったらあったらで、その時その瞬間に考えれば良いだけだしね。
《通告。マスターのそういった前向きな姿勢は好感を得ます。意外とお調子者の内面も、私は嫌いではないですよ》
で、デレたっ!? あの俺に厳しいことで有名なイヴさんが、デレた……だと?
《通告。自身を客観的に見ても、私はどちらかといえばマスターに甘い方に位置すると思いますが……》
ほう? つまり普段のイヴさんの辛辣なお言葉は優しさ――もとい愛情の裏返しということなのですね!? この照れ屋さんめぇ、このこのぉ~。
《……嫌気。マスターのそういった面は、正直気持ち悪いなって思います》
気持ち悪いは酷いっ! キモいって言われるより傷ついた……泣きそう。
《ふふっ。さて、私にばかりかまけていると彼女達が嫉妬に駆られてしまいますよ? ほら、ラヴィニスなどは既に気が付いて臨戦態勢に入っていますし、他の御二方も――》
うわぁ!? ラヴちゃんが夜叉になってる!? アリスもシャルルもそんなに不審そうに睨まないで!?!?
ていうかやっぱりほら俺、振り回されてる方じゃないか! だ、騙されたっ!
結局ラヴィニスをどうどうと落ち着かせたり、アリスとシャルルに渾身の言い訳を作り上げ釈明するのに時間を取られ、いつの間にかとっぷりと夜が更けてしまっている。
これ以上長居すると夜警の方の巡回が始まってしまう。ただでさえ最近悪目立ちしている自身としては、その展開はあまり好ましくない。
かといって、このまま何も話さぬままでは納得も得られないだろう。
アヴィスフィアという異世界で得た、変わってはいるが可愛らしい俺の友人達にすべてを隠したままというのもフェアではないだろう。
暴露することでイサギさんに迷惑をかけてしまうことにはなるかも知れないが、きっとあの人のことだ。「アイ、君は本当にしょうがない人だね」とか言って、最後には力になってくれる筈だ。
えぇい、ままよ! 言ってしまえ! きっと何とかなるだろう!
「あの私、言ってなかったんだけど。……だ、旦那がいるの。正式ではないんだけども、ね。それにラヴィニスという嫁も――」
「「「「ええええっ!? 結婚、してたのおおおお!?!?」」」」
あ、失敗したかも、コレ。今までで一番驚かれてしまったな。言うと決め、それを選択したのだ。仕方があるまい。
ここまで来たらもはや隠すこともあるまい。俺の本音も混ぜて、この場で吐いてしまおうじゃあないか。
「実は、そうなの。それもあって、私だけでは答えられない。そしてその関係上この身は既に誓約で結ばれていて、新たにお嫁さんを貰うことが出来ないんだよ」
「――だからその、ごめんっ! 後出しで言うのもなんだけど、アリスの事もシャルルの事も私は好き、だよ?」
でも、ごめんなさい。そう俺が答えると、辺りはしんと静まり返ってしまった。
どのような方法で点灯しているのか分からないランプのような明かりが学園内を彩り始める中、まるで一生を過ごしているのではと錯覚するほど長い沈黙だ。
実際には数分も経ってはいないのだろう。しかし俺にはそう感じるほど静けさがのしかかってきていたのだ。
「ま、まぁ既に結婚なされていて、それが男性だとするならば、女性を新たに娶るのは心情的にも難しいですわね」
「放蕩者です、アイヴィスさんは。それならば最初からアリス様に近づかないで頂きたかったですわ」
「う、うぅ。私にも事情があるの。その結果こんなことになっちゃったのは本当、悪いと思ってる」
ステラが場の空気を打開しようと俺にフォローを入れる。すぐさまエステルが俺を矢面に立たせ、断罪する。
当然俺に対する不満をぶつけたいと言う気持ちもあるのだろうが、この場で吊るし上げることによって二人に感情の整理をさせる腹積もりなのだろう。
二人の印象は最初のころに比べ随分変わった。意外にもさばさばしていて、思ったよりも強引で、何より誰よりアリスのことを心配し、また愛している。
てっきり誰かの陰に隠れてネチネチと悪口をいう、陰湿な女子の典型的なパターンだと勝手に認識していた。”人は見た目によらない”ではないが、第一印象のみでその人を語るのは早計で、本性にはたどり着けないということだろう。
前提として関わることがない(つもりがない)人ならば、その限りではないのだろうが。
「……アイちゃんは、その男の人の事……愛してるの?」
「アリスさん……いえ、私も気になります。その辺り、どうなのでしょうアイちゃん様」
ずっと黙り俯いていたアリスがぼそりと口を開いた。そんな彼女に寄り添い、しかししっかりと顔をあげ向き直すシャルルの真剣な眼差しが俺に刺さる。
もはやふざけることは許されまい。心情を吐露するという行動を選ぶ以外に選択肢がない。
「愛。この気持ちがそうなのかは分からない。尊敬はしているし、慕ってもいる。会いたいとも思うし、会えないとまた寂しい。でもラヴちゃんほど毎日会わなくても良いかなって思ったりもするし、もしそうなったとしても別れることはないのだろうなって漠然と実感出来る人。それが私の……旦那さん像かな」
旦那さんと表現することに強烈な違和感はある。しかし、心情的にはこれが一番素直に思っていることだ。
お茶目で、頼りになる。少し行き過ぎてしまうことも多々あるけれど、こんな俺を全肯定してくれる器の大きい彼女。
実際に彼女がいなければ既に俺はこの世のどこにも存在していないだろうし、ラヴィニスもルーアだってきっとそうなのだ。
正直言って能力的に天地ほどの差を実感しているが、それでもずっと寄り添えそうだと思える安心感もまた魅力の一つである。
好きなところも嫌いなところも上げればキリがないだろう。この点はお互い様な部分が多々あるだろうけども。
今感じる俺の心情は、こんなところだろう。瞬間瞬間の心の所作は一定ではないだろうが、芯はしっかりと通っていると実感している。
「ふふ……。アイちゃんはその人の事、本当に好きなんだね」
「アイちゃん様がそのような柔らかい表情をされながら語る、その男性が羨ましいですわ」
涙の跡が生々しいアリスがそれでも顔をあげ、にこやかな柔らかい笑顔を見せてくれた。
その表情は夜闇を背景に幻想的に生え、女神がいるのであれば彼女のようなヒトに違いないだろうと思えるほど神々しい。
諦めたように、しかしさっぱりとした声色で話すシャルルもまた魅力的だ。何より息をついた時の振動で躍動する魔乳の誘惑に目が離せない。もしや、あれが魔力の根源なのではあるまいな?
っていうか恥ずかしい! 純粋に! そんな生暖かい視線で見守らないでよ! 珍しくラヴちゃんも不満そうにしてないし、なんなの? もう。
「ちょ、ちょっとそんな目で見ないでよ! は、恥ずかしいよぉ」
まっ。アイヴィスさんが照れてますわ。とステラが言うと、本当ですわ。……その表情と台詞はあざとすぎますわね。とエステルが続ける。
うぅ、可愛い。なんで私のものじゃないのぉ……。とアリスが語れば、ラヴィニスがそれを聞きドヤァと表情を変えている。
く、このぉ。とアリスがラヴィニスに飛び掛かると、彼女も負けずにその両の手の平を同じく両手で受け止めた。恋人繋ぎのように指と指をしっかり絡ませているのが地味に印象的だ。
「眼福、眼福……。――ハッ!? 何でもありません!」
「え、えぇと……。――そうっ! そ、そんな素敵な男性ならば、是非一度拝見させて頂きたいですわ」
そんな中、シャルルが一言革新的な発言をする。何やら鼻から赤い液体を垂らしていたようにも見えたが、きっと気のせいだろう。
俺のせいで性格崩壊が止まらない彼女を見て見ぬ振りしつつ、その言葉を吟味してみる。
イサギさんに会わせる? …………良い予感が全くしない。ていうか、絶対面倒事に発展する! 間違いない!
せっかくこのままの流れで話が纏まりそうだというのに、これは不味い。今こそ彼女のネガティブキャンペーンをしなければなるまい。俺と、なによりアリスとシャルルをあの変態ストーカー女から守るためにも!
「ま、待ってよシャルル! それは困る。二人を危険にさらすわけには――」
「危険? 何が危ないのぉ? やだなぁ、別に腹いせで奪ったりしないから安心してよぉ、ね。シャルルー?」
いや、違うそういう意味で心配している訳じゃないから! っていうか調子が戻ってるなアリス。
いつもの小悪魔的な笑みを浮かべる彼女。どうやらラヴィニスとの取っ組み合いは精神を安定させる作用があったらしい。
「いや、そうじゃなくて。そ、その私の旦那? 悪い人ではないけど、ちょっと変わり者で……」
オブラートに包もうと、必死になって思考を巡らせる。悪いところをアピールしようとしていたせいか、めっきりと良い部分が思い出せない。
浮かぶのは悪い笑顔で俺の情報を鑑賞する(最近開き直ったのか、俺の目の届く範囲でも平気で行っている)姿や、俺にあげるための事前準備だ。と言い、ドレイレブンの面々に際どい服装をさせて何やら訓練していたりしている(真っ赤になってそれでも頑張るクジャクには相当萌えた)姿などである。
流石にこれをそのまま伝えると刺激が強すぎて、逆に心配されてしまいそうだな。いやはや、どうしたものかね。
「アイちゃん様……? もしや、何かお困りになられているのでは……?」
「いやぁ、その。そういうわけじゃないんだけど、うぅん。何て言ったらいいんだろう。二人、いや皆に紹介するには少々尖がった性格な人だから……」
あぁ、駄目だ。上手く躱せない。あれ? イサギさんに良いとこなんて、あったっけ? うーん。
「――アイ。流石にそれは失礼だと思うよ」
すっかりと夜が更けた教室にハスキーな声が響く。自身を含む六人以外の人物は既に下校しているはずなので、声の主は夜警さんか教師、もしくは不審者だけだろう。
それより良いところって探すと意外に見つからないな。印象に残るのってどうしても衝撃的なものか、恥ずかしいものが先についてしまうものなぁ。
全くの違和感を感じさせずに、来訪者は現れた。彼女がなぜこの場に来たのかはさて置いて、状況が混迷を極めるであろうことは自明の理である。
「とはいっても浮かぶのが悪い印象ばかりで、ね。多分一時的にフラッシュバックしてるんじゃないかな?」
「ふむ。君に意図せずとも思い出させてしまうとは、私も罪作りな男だな」
「……はいはい。分かったからちょっと黙ってて下さいね。今私は大切な友人を魔の手から退けなければならないんだか、ら? ――ぅえっ!? イサギさん!? 何でここにいるの? ていうか、何で私のいる場所分かったの!?」
はっはっは。そんなもの、愛に決まっているだろう? 愛があれば互いがいる場所なんて、思うだけでもわかるものさ。と快活に笑う来訪者。
いやいや、そんなわけがないでしょう? 一体何をしたんですか? というより現在進行形で何かしているでしょう? 吐きなさい、今すぐまるっと吐き出しなさい。と続けるアイヴィス。
突然現れた奇妙な仮面を被った人物にジト目を向けるラヴィニスと、狼狽するアリス以下三人。
数奇な巡り会わせに新たな予感を感じさせ、物語は新たな局面を迎えようとしてるようだ。彼らが紡ぐ道のりに、少しの刺激と大いなる安寧がありますようにと願いを込めて、今宵は幕を引くとしようではないか。