人工知能が自我を持った!
句読点や擬音等を、数か所訂正しました。
――終わりと始まりは唐突に訪れた。
その日、俺は秋晴れの午後の西日が差し込む研究室内にいた。自身の研究成果である人物と呼んで遜色ない叡智と、パソコンの画面を通し会話をしていたのである。
そもそもなぜ研究室にいるのか、だが。
何を隠そう、そこが我が自室であり己が全てであるからだ。
まぁそういってピンと来るはずもないだろうが、簡潔に述べるならそうなのである。
《嘲笑。マスター、相も変わらず暇そうにしていますね》
言葉とは裏腹に全く感情のこもっていない女性の合成音声が、俺の耳に響き渡る。
彼女はまず、ヒトの表情や言葉を内蔵されたカメラから見聞し、その状態の解析鑑定する。
そしてこの時に得た結果に対し、適切な言葉を選択し自らの意思で発声を行うのだ。
ここ最近はどこで何を学習したのやら、まるでヒトと話しているのではないかと錯覚するほどである。
ちなみに彼女は俺が研究開発、また調整した自律AIであり、その名はAiVSだ。
命名の由来は”AIと「対」する”というものだ。お互いに同等の存在として向き合い、高めあうという意図も込めている。
まぁ、その結果がこの始末なんだけどね……。
彼女を開発――ベースは既に大衆化されていた海外の研究施設の成果の一つを流用したもの――したのは俺自身なのだが、その母体となる機器の準備やその後の調整、メンテナンスなどは所長が行っている。
どうしてこうなったのか。今現在の俺の担当は、このAiVSと「会話」をすることにある。
”生みの親だから”という理由だけでこの役割が与えられたという訳ではなく、AiVS直々の指名である。
曰く《働かざる者食うべからず。甲斐性の無いマスターに、仕事を用意したのです》とか何とか。
端的に言えば”気に入られた”のである。この口が少々――いやかなり悪い人口生命体に。
「うるさいぞイヴ。俺は今ヒトがヒトたる真理のひとつを解明すべく、瞑想しているのだよ!」
AiVS――以後イヴと呼ぶ――に、さも当然のように声を荒げてそう答える。そして、それはあながち間違っているわけではない。
《解答。VR内でのお嫁さんのことでも考えていたのでしょう? 本当、どうしようもないマスターですね……》
飽きれたように、しかしながら抑揚のない声色で俺の心情をズバッと言い当てるイヴ。
最近の自立AIの学習能力は、実に目を見張るものがあるようだ。
「――ズバリその通りなのだよイヴくん! 孤独を克服するには、やはりVR嫁一択だ!」
「俺を心の……いや、魂の底から愛し! 決して俺を裏切らず尊重し、時に優しく、時に厳しく。いつ如何なる時でも支え合い寄り添ってくれる……そんな夢のような存在なのだ」
「俺も男なので、ハーレムとかも夢見たりしないでもないが、いわゆる正妻は大事! ちょっとくらい余所見しても許してくれそうならもう、最高だ……!」
そんなイヴに対して、息つく間も恥ずかしげもなく自身の理想――という名の妄言を垂れ流す俺。我ながら、聞いている方が痛々しく感じてしまうほどである。
一方、俺の誇大で高慢な妄想を聞かされたイヴはというと……。
《理解。流石マスター。気持ちいいくらい自分勝手で一方的な見解を、まるで恥ずかしげもなく言い切りましたね》
「ふふふ。そんなに褒めるなよイヴ。――求めるなら最高を! そして最愛を! そこに一切の妥協はない! 当然ながら俺もそこに迸る情熱と、無限大の愛を捧げようじゃあないか!」
《……拍手。888888888888888》
「おいこら、イヴこら。マスターの扱いが適当すぎるだろ! 反省してっ!」
俺をフラットな声で褒め称えるイヴ。
そんな彼女の白けたような態度を受け、我ながら最低の妄想だと少し反省していると、コンコンと俺の自室兼研究室のドアがノックされた。
「先輩、お茶が入りましたよ。少し休まれてはいかがですか?」
どうやら同じ研究室仲間がお茶を淹れてくれたらしい。ここは、乗っかるのが吉と見た。
なんともいえないイヴのジト目――目はついてないはずなのだが――に居心地の悪さを感じた俺はそそくさとその場を後にし、心優しき後輩のいる部屋へと避難することにした。
後輩の名は天条椿沙。確か今年で十七才になったはずだ。
彼女は世間一般では女子高生と呼ぶべき年齢なのだが、とある事情によりこの研究室の一員として日々共に研鑽している。
普段はその瑞々しい黒髪をロングストレートのまま流しているのだが、この日は珍しく二つの白いシュシュで纏めて緩めのツインテールとしている。
可愛いらしい少女という印象通り体型は実年齢の平均より全体的に小柄であり、また出るとこも控えめである。
ちなみにこのシュシュは、少し前の誕生日に椿沙が俺にねだったので渋々買ってあげたものでもある。
この研究室がある研究所では、VR空間内にヒトの精神をアップロードし、その空間内で日常生活を送ることを最終目標とした研究が日々行われている。
だが俺も全容を把握しているわけではないので、細部までは詳しく理解していない。
端的に言えば、ヒトの脳の記憶と精神がある部分の電気信号を解析し、それを抜き出してVR空間内に用意した疑似脳に移植――つまりアップロードすることで、最終的にヒトは肉体という縛りから逃れ、不死と化すという理論のもと研究しているのである。
どう考えても兵器として運用される未来しか見えないのだが、それでも解明することに余念がないらしい。研究者というのは実に業が深い生き物なのだ。
確かにそれを懸念してもなお”不老不死”という人類の大きな夢の手段の一つでもあるため、是非成功してほしいと感じてしまうのもまた、ヒトの悲しき性なのか。
ここで行われているのは、そんな夢物語を本気で実現しようというなんともまあ大胆な研究である。
ただし、内容が内容なだけに世間には公表されていない秘匿研究にあたる。情報規制をし諸々の安全を確認した上で、虚実を交え少しづつ明らかにする手筈になっているとのことである。
そして俺は、その研究所の一室の室長を任されていた。とは言っても名実ともに若輩者なので、室長といっても肩書以上の意味はない。
メンバーは皆一癖あるものの、人材としては有能だ。俺は運が良かったのか悪かったのか、研究所の所長直々にこの場所を与えられただけの凡人、という立ち位置である。
ここでは、仮想空間内でのナビゲーションを目的とした人工知能の開発、及び仮想空間の構成素案などの研究を行っている。
ちなみにその一方で、他で開発された機器の保管する場所としても扱われてもいるのだが。
それが理由の一つとなり、この研究室のことは同研究所内では侮蔑的に〝倉庫″やら〝保管庫″などと呼ばれてる。俺に対する嫉妬も多分に含んでいるので、なんと呼ばれようと全く以て問題はない。
……そう、大丈夫。俺は、気にしてなどいない。……本当だぞ。
偽りのない本心である。たぶん。
この地位を与えられた以上は仕事――主にイヴとコミュニケーションをとること――以外の研究も日々研鑽してはいるのだが、周りと意見を交わすたびに何というか打ちひしがれている。
先輩は発想は独創的なんですけど、具体性が欠けていますね。などと、椿紗に突っ込まれることは今やこの部屋の日常となっていた。
「ありがとね、椿紗ちゃん。……ふぅ、たまには紅茶もいいもんだな」
普段は無糖か微糖のコーヒーしか飲まないのだが、せっかく淹れてくれたお茶なので頂くことにした。
いざ飲んでみたらこれが意外と美味しく、椿沙の意外な才能を見つけてしまった。
「なんでもこの研究所で開発中の新作茶葉らしいですよ。まぁ先輩の鈍感舌では違いなんて分からないでしょうけどね」
おそらくはそんな感情が顔に出ていたのだろう。彼女はお茶菓子と共に毒を添えることもしっかりと行い、向かいの席に腰をちょこんと下ろした。
ちなみに彼女の今日の装いは、薄いグレーのワイシャツに長め紺のリボンのようなネクタイを締め、短めの黒のプリーツスカートを身に着けている。……所長の白衣を羽織っているのはご愛嬌だろう。
そのため俺から見るとなんとも扇情的なラインが見え隠れするので、少々目のやり場に困ってしまう。
「なんだウチの研究所は、そんなことにまで取り組んでいるのか……」
不自然にならないレベルでチラ見――これが中々に難しい――をしながら、「なんでもありだなぁおい」という感想を述べた。
なんでも、VR空間で五感を正確に再現するためのものに用意されたのだとか。
彼女との会話はこの紅茶の茶葉の効能やら他との味の微妙な違いなどから始まり、新作のゲームの話や他愛のない世間話などで盛り上がった。
「――それで、最終調整は済んだのですか? 随分熱心に語っていたみたいですが」
話したいことも一段落ついたところで、椿紗が話を本題へと切り替えた。
いつの間にか髪を束ねていたシュシュを解き、いつものロングストレートになっている。
ふむ。どうやら俺の熱弁は、彼女のいる部屋にまで届いていたようだ。
「ん、大丈夫。細かなとこはまだ少し残ってるけど、明日の試験までには余裕で間に合うよ。一応所長にも目を通してもらおうと思って連絡したんだけど、中々抜けられないみたいでねー」
俺としては、イヴに妄想について茶化されていたとは言えない。
最終調整とはいっても、研究室の皆が完璧な状態で提出してくれたおかげでほとんどやることがなかったのだ。だからこそイヴにからかわれたのだが。
ホント、持つべきものは優秀な部下だよな。まぁ若造がなにを偉そうにとか言われそうだけどね。
「なるほど。だから先輩は邪なことを考える暇があったってわけですね」
椿沙が俺をジロリと下から覗き込みながら、そんな事を言ってきた。
その瞳には悪戯が成功した子供のような光が、微かに見える。
「――っ!? ……やっ、やだなぁ。俺は自分に正直に生きてるだけで邪なことなんてなんもないって。な? 加藤!」
完全に不意をつかれた俺は一瞬逡巡してしまったが、しどろもどろにならないように何とか言い切ることが出来た。
間違いなくギリギリアウトだが、この流れのままに窓際に置かれた背の高い観葉植物へと目線を逸らすことにしよう。
ちなみに俺の目線の先に移ったその植物は”コーヒーノキ(学名)”だ。
その名の通りコーヒーの原料となる種子を実らせる。この個体はアラビカ種の変異体の一種であるカトゥーラで、愛称はスバリ加藤(カトゥ)だ。
以前、この研究所内を散策してる際にその名と姿に一目惚れをし、どうしてもと一株譲り受けたものだ。
そして今ではこの部屋にいなくてはならない存在になっている。……主に愚痴相手として。
思えばこの樹木も先程の茶葉のような目的で栽培されていたのだろう。
この研究室には彼? の他にも多種多様な仲間がいる。
その中でも一際目立つのは、プラチナアロアナのロアちゃんだ。
この子の世話も室長の大事な仕事である。嫌いなものは一切口に入れない中々のグルメさんなので、食事は毎回俺が手作りをしている。
なんでもこのロアちゃん。市場に出るとするならば高級外車並みの値段になるらしい。
それを聞いたときは流石の俺も一瞬世話をするのをためらった。しかし友達になりたそうにこちらを見ているとでもいうような彼女の訴えを幻視し、結果やむなく了承したという訳だ。
父親が以前趣味で熱帯魚を飼っていたのでその飼育方法を伝授してもらい、そのまま面倒を見ることになったのである。
彼女も今では俺や椿沙の良き話し相手の一人となっている。……主に愚痴、時々妄言ではあるが。
「ふーん。じゃあ先輩が先程、私のスカートの中身を覗こうとしていたのも邪じゃないんですね?」
これで止めとばかりに猛攻を続ける椿沙。ジトーッとした視線が刺さり、冷汗が止まらない。
冗談じゃない冤罪だ! パンツを見る気などさらさらない。この見えるか見えないかのこのギリギリの境界がちょっと気になるだけだ! と俺は何とも見苦しい理論を心の中で行っていた。
「違うって。その服があんまりよく似合っているものだから見惚れてただけだよ」
しかし、そうした葛藤の中でも年上としての矜持を忘れてはいけない。そう考えた俺は、まごうことなき真実を冷静に述べる。
キリッっという擬音が聞こえそうな、しかしなんとも胡散臭い雰囲気を意識しながら、ね。
――いやだって間違ってないし? ずるいとかそんなの知りません。
「――っ! きゅっ、急に何を言ってるんですか! 変なこと言わないでくださいっ!」
俺の内心に気づいた様子もなく椿沙はかーっと頬を赤く染め、その場で勢い良く立ち上がり反論している。
そんな彼女を「いやー。本当こういうとこは年相応で可愛いよな。……普段はキツいけど」と内心ニヤニヤしつつも、表情だけは真剣に取り繕うことにした。
「ホントおかしな人ですよね、先輩って。ね? カトゥ?」
先程俺が話を逸らすために使った手段とほぼ同様の手口を使い、椿沙は身体を乗り出した勢いそのままに窓際へと方向転換した。
なんというか、意外に似た者同士なのかもな。
「そっ、そういえばすず姉……いえ。所長は今日来れないかもしれないみたいです!」
「そっか所長、今日は来れないのか。ちょっと観てもらいたいものがあったのに、残念だな」
照れる椿沙を眺めつつ、俺は今日報告しようと思っていた相手と会えないことを知る。
普段の所長を見る限りではとてもそうは見えないのだが、実はかなり多忙な方なのだ。忙しいのに忙しそうに見えないのも、努力の結果の一つなのかもしれない。
「さっき言ってたような事を、そのまま所長に報告するなんてこと……ありませんよね?」
「……え? あ、うん。大丈夫!」
「…………何故か少し間があったのが気になりますが、今更気にしてもしょうがないので良いということにしておきます」
「ん、ありがとう。愛してるよ」
「――っ!? 軽々しくそんなこと言わないで下さいっ!」
「友愛というやつなんだが……。まぁいいか」
図星をつかれ、椿沙から目線を逸らす。細かなところまで追求しないその性格は好ましい。せっかくなので、その好意を伝えることにしよう。
しかし何を間違えたのか、椿沙にお叱りを受けてしまった。 ……おかしいな、なにがいけなかったんだろ。
”むきーっ”となった椿沙を”どうどう”と治めるのは少々骨が折れることになりそうだ。
そして宥めながらも「明日の試験前に俺の個人研究――理想の嫁実現計画(仮)――について少し相談したいことがあったのだけどな。来れないのなら、まぁしょうがないかー」と、内心どうしようもないことを考えていたのだから末期である。
「はぁ、少し暑いですね。空気を入れ替えればリフレッシュ出来ますし、少し喚起しましょうか」
椿沙は軽く上気した頬を手でパタパタと仰ぎながらそう呟き、窓を解放した。
外は快晴とはいえ、すっかり木々が紅葉しているこの季節が特別暑いことはないと思うのだが……。
そう感じたものの、俺としても特に反対する必要もないので「良いんじゃないか」と適当に返し、椿紗のその所作を視界の片隅に置き茶菓子の封を切った。
部屋の中に涼しい秋風が流れ込んでくる。この季節の風は格別で、世間一般では”神渡し”と呼ばれているらしい。
また、窓から見える樹木などの景色も色とりどりで目の保養にもなるという豪華なおまけ付きだ。
目の保養といえば、その長い黒髪をかきあげ気持ちの良さそうな顔で外を眺めている女の子だ。
秋風に揺られるその艶のある髪からたまに覗かせる首筋が、年不相応な色気を醸し出していた。
しかし俺の視線は、ゆらゆら揺れるプリーツスカートからチラチラ覗かせている一部領域に固定されている。
……ふむ、白か。あざといな。
そんな俺に気が付いた様子もなく「ここからだとすず姉がいる試験場が見えませんね」とか、「秋風はいかがですか? カトゥ」とか、「先輩もこちらに来てはいかがですか? 風が健やかでとても心地良いですよ。ほらまるで、どこまでも飛んでいけそうな……」などと、ニッコリ微笑みながら話しかけてくる椿沙。
彼女のそんな先程までの絵になるような女性像から一変したその無邪気な笑顔(目は笑っていない)に、思わず頬が緩んでしまう。
若干頬が引き攣っている気がするが、気のせいである。
まったくこの娘は普段は大人びているのに、たまにに子供っぽい面が顔出すんだよな。妹がいたらこんな感じなんだろうか。とそのはしゃいでる? 姿を眺めながら、俺はそんな物思いに耽っていた。
椿沙の後ろに何かいるように幻視したが、気のせいったら気のせいなのである。
「きゃああああっ!」
「――うおぉぉっ!」
――しかしそんな穏やかな日常は、全くと言っていいほどなんの前触れもなく崩壊した。
まるでフラッシュバンのような閃光が辺りを包み込み、大地を揺るがすほど大きな衝撃が俺達に襲い掛かったのだ。
窓際にいた椿紗などは爆発のような衝撃で、俺の座っているソファーまで吹き飛ばされてきた。
偶然にも受け止めることが出来たのだが、その余波と推力で諸共に後ろへと倒れこんでしまった。
「ぐ……っうぅ……」
一体全体、何が起きたんだろう。倒れた時に頭を打ったのか、真白でぼやけた視界の中で思案する。
「――痛っ!」
直後。ズキンとした鈍い痛みが脳裏に響く。そしてそのおかげなのか、徐々に視界がくっきり、はっきりと移ろい変わっていく。
そう。視界一杯に広がった生暖かい月白が何だったのかを、今この瞬間に理解したのだ。
他にも何やら下腹部に、慎まやかだが確かに存在する二つの柔らかい膨らみを感じる。
俺は背筋に冷汗をぶわっと染み出るのを感じながら、スパコンも真っ青な速度で状況を理解した。
やばいやばいなんなのこの状況! ……事案だ。明日、新聞の一面に載ってしまうのではっ!?
――っていうかちょっと待て。今はそれよりも……っ!
「おい、椿紗! 大丈夫か!? ……おいっ!」
自身の上でぐったりと伸び、また呼びかけても返事のない椿紗を抱え、横倒しになったソファーにそっと寝かせることにした。
その過程で肩口を軽く揺すって見たものの、意識がないのかやはり反応を示さない。
もしやと思いその口元に手を当てると、微かだが呼気を感じることが出来た。とりあえず呼吸はあるし脈も安定してるので、今すぐに大事に至ることはないだろう。
正直そのまま急いで医務室に連れて行かねばとも考えたが、先程の衝撃でどこか打っている可能性も否めない。素人考えでむやみやたらに動かすのは、あまり良くないかも知れないのだ。
しかし、ガラスの破片などの散らばる場所でこのまま寝かせておくのは実に危険だ。少しの思案のあと俺は、近場で比較的被害が少ないであろうイヴのいる部屋へと移動することにした。
その部屋は重要な機材や研究資料、生態などを保管する場所なので、他に比べて幾分か頑丈な作りになっているのである。
案の定、多少物が散乱しているもののほぼ無傷であった。
良かった。ここからだと彼女の姿は見えないけど、どうやらロアちゃんの水槽も無事みたいだな。
俺は、その部屋の一画にある自身の寝具と化しているソファに椿沙を寝かしつけた。
当然頭が他よりも高い位置に来るように枕で調整したり、冷えないようにと腹部にタオルケットを掛けたりすることも忘れない。
これで良し。そう思った俺は、医務室に連絡するために部屋に設置されているインターフォンへと歩みを進めた
しかし結果として、それを実行することは出来なかった。
なぜか今度は、自分の足元がグラグラと不安定に揺れ始めたのである。
「くそっ! 次から次に一体なんだって……ん……」
最後まで言い切る前に、俺は床へバタリと倒れてしまった。どうにも力が入らないようだ。
頭もなんだかくらくらするし、視界もあ、れ……? なんか今度は赤みがかってきたな。ったく今夜は勝負なんですね?
なんてな。アホなこと考えてないで、今すぐ医務室に連絡しないと……あぁ、しかし眠いな。まだ揺れてるみたいだし、収まるまで待とうか……、な……。
いつの間に眠ってしまっていたのだろう。俺は重い瞼を開け、ぼやっとする視界を何の気なしに眺めていた。
そして、その眼前に広がる惨状に目を見開き、思わず息を呑み込んでしまうこととなる。
そう。そこに映ったのは絶望だった。元々は家だったのであろう黒く焼け焦げた瓦礫と、無数の人の形をした漆黒のオブジェのような物体が累々と、辺り一面を埋め尽くしていたのである。
直後。その非現実は、さらに不可思議な非現実に塗り替えられることとなる。
なんと不条理な光景なのだろう。空を縦横無尽に飛翔する竜に酷似した巨体が大口を開け、今もなお眼下に向けて漆黒の炎を巻き散らしている。
その上でその竜が、まるで何かを察知したかように俺のいる方向に振り向いて、瞳孔の開ききった紅眼で睨んできているではないか。
なんということでしょう。どうやら彼? の狙いは、もしかしなくても俺じゃあありませんか。かなりの距離が離れているので視認できるとは思えないけど、俺にも見えてるからあの竜にも見えてるのだろう。
俺は逃げた。ファンタジーゲームに出てくる怪物に本能的な恐怖を覚え、脱兎のごとく逃げ出したのだ。
確かに絶望的な状況だが、椿紗がまだ何処かで生きているかもしれないというのに、だ。
そして現在。俺は赤黒き竜の鉤爪で八つ裂きにされそうなったその瞬間に、自身の理想の嫁の姿に酷似した女騎士に救われたのである。
「――ご無事ですかっ!? アイヴィス様!」
その整った顔を不安そうに歪ませながら、先程よりずっと近い距離で問いかけてくる。
俺はその距離感に驚き、自分に向け放たれたその言葉を咀嚼する機会を失った。
そして何よりその後ろでは、手傷を負った赤黒き竜がその大口を開け、今にも食らわんとしているのである。
この体格差だ。まともに捕食されてしまえば一巻の終わり、まず助かることは無いだろう。
「――っ危ない!」
気が付けば叫んでいた。せめて彼女だけでも付き飛ばそうと、必死の思いで身体に力を入れようと試みたのだが、泣き方を忘れた赤子の如く上手くいかない。
くっ、動かねぇ! ちくしょう、俺のことは良いから逃げてくれ! 早くっ!
俺の願い空しく、女騎士は微動だに動かない。あまりの迫力に足が竦んでしまったのだろう。
――不味い、間に合わない。
思わず目を瞑る俺の頭上で、キーン! と鍔迫り合いのような音が辺りに響いた。
……金属音? まさか受け止めたのか? あの、巨体を?
そう。俺の不安とは裏腹に、竜の猛威は女騎士に届かなったのだ。
まるで彼女と竜との間に見えざる透明な壁があり、不思議とそれが竜の歯牙が一定以上の領域に侵入するのを防いでいるかように見える。
「本当に貴方様はお優しいですね。御身が危険に晒されているというのに、私のことなど気にかけて下さるだなんて……」
なにより当の本人は、なにも気にせず――自身の後方がそんな恐ろしい状況になっているのにも関わらず――話しかけてくるのだ。
彼女は陶然したような面持ちで俺を正面に捕らえ、ただひたすらに熱の籠った瞳で見つめてくる。
竜の猛威など戯れに過ぎんとも言わんどころか、まるで今この場所には”自分達二人しかいないのではないか”と錯覚するほど華麗なスル―っぷりである。
……そんなことはない。つい先程、椿紗の生死を確認する前に逃げ出してしまっている。
俺は内心の後悔に歯噛みし、俯く。気が動転していたとはいえ、何とも情けない。
「貴様ぁ……我に手傷を負わせただけでなく、愚弄するというのか! その矮小な小娘など捨て置き、我と戦え!」
そんな様子に激昂した竜が、その女性を威圧するように咆哮する。
……え、小娘? 矮小なのは兎も角として、竜には俺が女の子に見えるのか?
まぁ確かに俺も目の前の竜が雄なのか雌なのか分からないから、お互い様と言えばその通りなんだけどね。
「――貴様っ! 言うに事を欠いて、アイヴィス様が”矮小”だと……? その減らず口、喉元から掻っ切ってくれよう!」
すると突然女騎士が、先程までとはまた別の感情でその整った顔を変化させた。怒りを隠すことのないその荒らしい口調も合わさり、まるで全くの別人のようである。
少し待っていてくださいね。と俺に声をかけてスッと立ち上がり、俺と竜との間に立ちはだかる女騎士。
俺はその勇ましい姿を、ただただ茫然と目で追いかけていた。度重なる不可解な現象に、遂には付いていけなくなってしまったのかも知れない。
「フハ、フハハハハ……! そのような足手まといを抱えつつ、我に手向かうか! 馬鹿にするのも程ほどにするがよいっ!」
ブジュルルゥと奇妙な音を立て、女騎士に斬られた右腕が再生した。以前の腕よりも一回り大きく見えるのは気のせいではないだろう。
その言葉を発した直後、竜は彼女に向かって飛び立つように襲い掛かった。例えるなら、戦艦が個人に突貫してくるようなものだ。
普通に考えて到底ヒトで及ぶ存在ではないが、俺を護る様に立つその女騎士は、実際に先程その巨体の一部を両断している。
怪獣映画の様相が、またも目の前で繰り広げられるのかと危惧したが、その勝負は一瞬で決することとなる。
「……手向かうだと? 蜥蜴風情が、何を思い上がっている?」
――いや、これは勝負と言って良いのだろうか?
いつの間にか抜いていた細身の直剣を斜め下に振り降ろし、白銀の女騎士が赤黒き竜にその嫌悪を露わにしてそう嘯いた。
先程見た再現のような光景が俺の眼前に広がる。肥大化した竜の右腕が、またしても肩口当たりから切り落とされたのだ。
「ぐあぁぁぁっ! ――学習能力がないのか貴様ぁ! 無駄だというのがなぜ分からん!」
以前と同様か、肥大化した分それ以上の痛みがあるだろうに、竜はまるで怯むことなくそう叫ぶ。
同じ手が通じると思っているのかという怒りを込めたその怒声は、静寂な深夜の森を振るい上がらせる程には殺気が籠っている。
そうか再生するんだったな。言われてみれば、どうして同じところを攻撃したのだろう?
俺はそのことを疑問に思い女騎士を注視すると、どのような絡繰りなのかバチバチと白き雷のような閃光が、左手に携えた直剣の周囲を走るように瞬いていた。
「む? ――なっ!」
紅黒竜が再生しようと試みたのであろう。しかしながらそれが上手くいかず、目線を自身の右腕へと落としていた。
俺もつられてその視線の先を追ってみると、先程と同色の閃光が斬り口辺りで纏わりつくようにビリビリと発光していた。
原理はよくわからないが、あれが竜の自己再生を阻んでいるのだろうか……?
《解答。その認識で問題ありません。自己再生は脳からの電気信号による命令で、備蓄された魔力などのエネルギーを元に欠損した部位を修復する特性です。ラヴィニスが竜の右腕を斬撃した際に行使した『纏雷白夜』による雷撃で、その命令が阻害されているのでしょう》
不意に合成音声が、脳内で感じていた疑問に答えてくれた。全く以て油断していたので、思わず「ふわっ」と声を上げてしまった。
……しかしまた、厨二感満載の技名みたいなの来たな。……俺は好きだけど。
動揺を少しでも隠そうと、今更”平常心ですよアピール”を意味もなくしてしまったのはご愛嬌だ。
それにラヴィニスって誰? あの女騎士の名前なのかな? よく分からんけど、カッコ可愛いな! 頑張れ、ラヴィニス!
今や完全に観戦モードである。だからこその俺なのだが。
「な、なんだこれはっ! 何故、何故我の腕が再生しない!?」
紅黒竜が自身の身に起こった事象に理解が追い付かず、狼狽している様子が目に入る。
まぁ俺のように解説役がいるわけではないからその様子も頷けるのだが、今は不味いだろう。
竜のその後を予想し、目を細める。
「……所詮は蜥蜴か。眼前に敵がいるというのに余所見をするなど、甘いっ!」
ぼそっと憐れむような、冷たい声が届いた。
俺がその方向に目を向けると、合成音声にラヴィニスと呼ばれたその女騎士が左手に携えた白き雷光を纏う直剣を天に高く掲げ、今まさに振り下ろすところだった。
直後、天から轟く一筋の白い雷が赤黒き竜の巨体へ降り注いだ。
「ぐぎゃああああああああっ!」
という今までと比べ一際大きな断末魔のような叫び声が、昼間のように眩い夜の大地に響き渡った。
呆気ないと思ってしまうほど圧倒的な蹂躙の果てに、辺りは静けさを取り戻した。
「お待たせしてしまい申し訳ありません。今が好機です、私と共にこの場から離れましょう!」
女騎士ラヴィニスは先程までの雰囲気と打って変わって柔らかな物腰で、俺にそう提案した。
……まるで、何事もなかったかのように。
「え、あぁ……いえいえ、助けていただきありがとうございます。でも今俺、魔法陣? で拘束されてまし――」
《否定。先程の戦闘の折、独占制約の解析、及び一部解呪に成功しました。よって現在、マスターの身体を妨げる障害はありません。この場はラヴィニスと共に戦線を離脱すべきだと提案します》
俺はそんな展開の速さについていけず、しどろもどろになってしまう。
それでも何とかお礼をいい、自身の現状を簡潔に説明しようとしたところで、合成音声が逃亡を阻害していたものを取り除いたと説明してくれた。……若干食い気味に。
――解除できたの!? なんか、自分じゃどうにもならないようなこと言ってなかったっけ?
《解答。先程のモノボライズは、私であった者に向けられたものでした。よってマスターに関する情報が欠如していたため、その綻びから術を一部解呪することに成功しました》
合成音声は、少し得意げな声色でそう嘯いた。エッヘンという胸を張る姿無きその相手を、俺は幻視した気がした。
ちょっと何をいってるのか分からないけど、特定厨に狙われたのはキミのせいなんだなということは分かったよ……。
《…………》
――だんまりかよっ!
どことなく人間臭いものを感じて、少し親近感が沸いた俺であった。
それはそれとして。
「――あ。なんか大丈夫みたいなので、どうかよろしくお願いします」
「はいっ! お任せください!
俺が黙ってるのを気にしたのか、どこか不安げな表情を向けるラヴィニスさん。
答えてくれたことに安心したのか、彼女は満面の笑みを浮かべて了承してくれた。
思わぬ助力があって、何とか無事に指定された洞窟まで逃げ切ることが出来た。
薄暗く湿気の多い空間。普段なら気味が悪く近寄りがたいところなのだが、今の俺にとっては”まるで自室のような”得も言われぬ安心感を抱かせていた。
洞窟の入口から少し歩いた先に光る鍾乳洞と近くに流れる湧き水を見つけ、小走りで近寄りその恵みを口にする。
その直後、俺の意識は今までの疲れを思い出したかのように、急速に遠のいていった……。
疲れていたからなのか、罪悪感なのかわからない。
何故か俺はその夜、椿沙とその姉である鈴音との出会った頃のことを、まるでその時その場所にいるように感じる程リアルな夢を見ることになるのだった。
「……ふむ。どうやら無事に、生還したようだね」
アイヴィスが横になり、その姿をラヴィニスが見守る。
そんな様子を遠く離れた樫の木々の隙間で黙祷し、覗き込む人物が居るなどと誰も知る由もなかった。