俺の周り、キワモノしかいないんだが!
「――すいませんでした、鈴音さん」
第一声にそう口にするのは、つい先程我に返ったばかりのアイヴィスさんだ。
チョコンと正座をしながら、上目遣いにイサギのことを覗き込んでいる。何故か赤く頬が腫れているのだが、一体何が起こったのだろうか。
その隣には頬を染め、しかしながら満足そうな表情で同じく正座をしているラヴィニスも居る。
ルーアは既に定位置となっているアイヴィスの後ろ斜め右辺りに、同様にして座している。
「まったくもう。キミはすぐ調子に乗るんだから……」
「うっ。で、でもアレはある意味でしょうがなかったというかその、何というか」
「……ふーん?」
「ひぃっ! い、いや。本当に、申し訳ありませんでしたっ!」
反省の色が見えないアイヴィスに呆れ、「はぁ」とため息をつくイサギさん。
ジト目で睨まれた彼はビクッと反応し、直後。実に美しい”DOGEZA”をして平伏している。
そう。ノリに乗っていたアイヴィスさんはあの後、茶番を止めようと詰め寄るイサギのことを”嫉妬をしている”と勘違いしたのだ。
そしてあろうことか、こんなことを言ってのけたのである。
「ふっ。貴殿も我が寵愛を希望か? ふむ、しかし今のその呪われた身では些か興が乗らんな。いずれまた解呪されたその時にでも、我直々に奪いに参ろうぞ」
時に勢いは、全ての恥を塗りつぶす。そうでなければ、こんな芝居じみたクサい台詞を理性を保った人類が吐けるはずが無い。
近づくイサギの顎をクイッと右手であげ、とても良い顔でそう宣言するアイヴィスさん。
イラッとして彼女が思わず平手をしてしまったのはしょうがないことなのだ。
「まぁまぁすず姉、落ち着いて。先輩がアレなのは今に始まったことじゃないでしょう? ……全く、大丈夫ですか? あーあ。こんなに赤くなっちゃって、んもう」
「だ、大丈夫だよラヴちゃん。イサギさんもそんなに強く叩いてないし――」
「駄ー目ーでーす。こんな可愛らしいお顔に跡が残ったら大変です。ほら、ジッとして下さい」
どこから取り出したのか、水で冷やしたタオルのようなものをアイヴィスの頬に宛がうラヴィニス。
正直自分が悪い自覚がある彼としては、この程度は罰だと思って受け入れるつもりだった。
そんなことは露と知らないラヴィニスは、「私に他者を回復する魔法をあれば、今すぐにでも治療出来るのですが」などと、少々大袈裟な事を呟いている。
「ちょ、ちょっと椿沙! その、私の下の身体を気遣ってくれるのはありがたいんだけど、流石にシュウ君を甘やかし過ぎじゃない?」
「そう? 以前とそんなに変わらないと思うけどなぁ。それに先輩は今失恋直後だし、慰めるのは私の限りなく義務に近い特権だよ」
抗議をするイサギ。アイヴィスの耳元で、「大丈夫ですよ、先輩。私はいつまでもお傍にいますからね!」と囁くラヴィニス。
ほとんど触れていると言っても過言ではない距離感なので、吐息が耳に掛かったアイヴィスさんは軽く身震いをしている。
そんな最中、ラヴィニスが口にした一つの単語が気になったのだろう。アイヴィスはその言葉を反芻するように呟いた。
「ふぇ? 失恋? ……え。俺、フラれたの?」
「はい。たった今、すず姉に。はっきりと拒絶されてました、物理的に」
「そ、そんな――っ!? お、俺は、ただ……」
「分かっていますよ先輩。でも、心配しないでください。貴女には私がついてますから!」
「らっ、ラヴちゃ――」
「――ちょぉっと待てえぇぇい!」
ズシャーッと音がするように錯覚するほどの、誠見事なインターセプトをするイサギ。広げられたその両手からも、はっきりとした否定の意思が伺える。
ある意味芸術的なその姿を見たアイヴィスは、ラヴィニスに向けていた救世主を見上げるような表情を改め、キョトンとイサギを見上げてしまっている。
「何ですかイサギ様、そこを退いて下さい。これではアイヴィス様のお世話が出来ないではありませんか!」
「なっ!? ななな、何をいけしゃあしゃあと言ってるのかなこの妹は! いつ私がシュウ君をフったっていうのさ!」
「はぁ、全く。何を言っておられるのですか。先程のアイヴィス様の求愛に、殴打で返したのは貴方様ではないですか」
「ぐぅ。あ、あれはシュウ君が悪いんだよ。いきなり目の前で椿沙とち、ちちち、ちゅーをした上で、わ、わわ、私にまで――っ!?」
間に入り込んできたイサギに胡乱な目を向けるラヴィニス。口調も夜烏の団長としての鈴音に話すものに戻っている。
そんな最愛の妹の態度に狼狽を隠せないシスコンお姉ちゃんは、狼狽えつつも先程の言葉に異議を申し立てた。
いつもの鷹揚な口調はどこへやら、以前の鈴音のものに戻ってしまっている。……朱羽夜の姿をしているため、その違和感は半端ではない。
対するラヴィニスはそれを一蹴し、先程起こった事実のみに着目して解答をしている。
結果として誤っているわけでないので、イサギは言葉に詰まってしまったのである。
「はい? アイヴィス様は、イサギ様に接吻を迫ってませんよね? むしろ拒否られたのはイサ――」
「――ち、ちちち、違うよ!? わ、私は拒否られてない! 私が今、鈴音の身体じゃないから寸止めだっただけで――」
「はぁ。では、やはり殴打したのはアイヴィス様の求愛を拒絶したからでは無いのですか?」
「あ、あれは――。……椿沙にはあんなに熱いちゅーをしたのに、私には直前でお預けしたからで……」
ラヴィニスの口撃は止まらない。中々に嫌らしいところを突いていて、イサギは中々ペースを掴ませて貰えないようだ。
結局言い負かされたのか語尾は先細り、最終的には口の中でゴニョゴニョと言葉を咀嚼してしまった。
そんな呟きに満足したのだろう。ラヴィニスさんはにんまりとした実に良い笑顔を浮かべ、こんなことを言い放った。
「いやぁ。やっぱり先輩の姿でそういう反応するのはそそられますね! ついこの間までは日常だったのに、何だか凄く懐かしいなぁ」
「……はい?」
「良かったですね、先輩。どうやらすず姉はお預けされて、拗ねただけみたいですよ。ふふっ」
「……はい?」
「――ちょっ!? つ、椿沙っ!」
あまりの展開の速さについていけず、似たような反応をするイサギとアイヴィス。ちなみに最初のポカンとした返事がイサギで、二度目がアイヴィスである。
ラヴィニスの意図することが分からず、二人して全く同じ疑問符を浮かべている。
唐突な妹の狡猾な誘導尋問に、顔を耳まで真っ赤にしたイサギが制止しようとラヴィニスに迫る。
「(ちょっと椿沙! どういうつもり!?)」
「(どういうも何も、可愛い妹が送る、愛しい姉へのアシストパスだよ?)」
「(なっ!? どこをどうアシストしてるのよ! とんだキラーパスじゃない! は、恥ずかしい。どんな顔してシュウ君と向き合えば良いの?)」
「(ふふっ。流石私――いや私達のすず姉だね。可愛い♡)」
「(――っ!? もう。一体なんなのよ……っ!)」
アイヴィスに聞こえないように、小声で話し合うイサギとラヴィニス。彼の目からは、身振り手振りで言い争うという器用な喧嘩をしているかのように見えるだろう。
白熱しているのは面白いように百面相するイサギに対し、その全ての憤りを軽く受け流すラヴィニス。
そんな中放置されているアイヴィスさんは、少し不安そうな表情を浮かべて二人の様子を伺っている。
「……あのー? つまり、どういうことだってばよ」
「あ、すいません。先輩のこと、すっかり忘れてました」
前置きという名の毒を入れたラヴィニスはくるりと反転し、ゆっくりと定位置まで戻り、その独白を再開した。
「先程も言いましたが、私は二人の事が大好きです。そして、どうしようもないほどに依存しています」
「そして今、決意しました。これから先何があっても、二人から絶対に離れない、と。……と言うよりは、全ては今更な問題だったんですよ」
「「…………?」」
こぼれるような笑顔を浮かべて振り返るラヴィニス。
彼女の言葉の意味が分からず、キョトンとした表情を浮かるイサギとアイヴィス。
ラヴィニスはそんな二人を見て、さらに笑みを深くしている。
「すず姉は朱羽夜先輩と誓約していますし、アイヴィス様は私のお嫁さんです。……そう。私達は既に、永遠を誓い合っているんでしたね」
「「あっ――」」
「朱羽夜先輩はごちゃごちゃと言ってましたが、そもそもこの誓約はお互いに意思、つまりは感情という前提条件に成り立っているのですよ」
夫婦(または俺嫁)誓約の成立条件は、互いの言葉と精神の同意が必要である。
この場合の言葉とは、つまり”愛の囁き”である。普段からアイヴィスと二人との日常会話の中で意図せず行うことで条件を満たし、成立していたのだ。
分かり易く言うならば、”フラグ”のようなものだと認識すると良いのかも知れない。
そして精神とは、つまりは感情。互いを想う心そのものであり、同意とは、それ即ち同様の意思だ。要するに、制約の条件の一つとして、同程度の感情値が必要ということである。
先程立てた”フラグ”を回収――つまりはキスをすることで、誓約は正式に成立するのだ。
「すず姉は不意打ち、私は騙し打ちみたいなものですがね。てへっ♡」
「…………」
可愛らしくペロッと舌を出し、コツンと自身の頭を軽く小突くラヴィニス。
仕草は可愛らしいが、言っていることは実に恐ろしい。
要するに、鈴音は朱羽夜の寝込みを襲うことで誓約を結び、椿沙はラヴィニスの身体でもって彼を篭絡せしめたということである。
「それに、私もつい先程、アイヴィス様の正式なお嫁さんになれましたし……」
「……へっ!?」
「んもう、意地悪しないでくださいよぉ。今さっき先輩、私と俺嫁誓約を結んでくれたじゃないですかぁ」
「え? お、俺、そんなことして無――あっ!」
ポッと音が出るような勢いで頬を染め、イヤンイヤンするラヴィニスさん。
余程嬉しかったのか、普段はあまり使わない猫なで声を出している。
一方で、何が何だか分からないとその心のまま返答する朱羽夜だったが、どうやら思い当たる節があったらしい。
そういえばあの時、何故か身体が朱くなっていた、と。
(――まさか、あの時に……っ!?)
《肯定。先程の接吻の際、誓約の上書き――正確には相互誓約が完了しました》
(うえぇ!? な、なんで? 俺ってば、いつの間にそんなことを……)
《誤解。マスターがラヴィニスを独占したいとお考えの様でしたので、私が自発的に実行しました》
(な、ななな、なんですとぉぉっ!? そんな大事なことを、どうして相談もせずにしちゃったのさ!)
割と暴走しがちなイヴさんだが、今回ばかりは流石に勝手が過ぎるのではないかと反論するアイヴィスさん。
しかし、やはりというか、イヴさんに隙などは一部も無い。朱羽夜のことは、本人以上に理解しているのである。
《疑問。もしかしてマスターは、好きでも何でもないのにただキスしたかったのですか?》
(――そんなわけが無いだろっ! そんな言い方、いくらイヴでも許さないよ?)
《謝罪。マスターの心情は把握しているので、よく理解しています。つまりマスターは、相手が椿沙だと分かっているのに、ラヴィニスにそういう感情を抱いているということです》
(ぐぅ。……で、でも、あの子はまだ十代だし――)
《疑問。何を躊躇う必要があるのですか? 彼女はマスターを慕っていて、マスターもそれを受け入れている。何より、もはや事後なのです。あの日あの時あの場所で二人で誓ったその時に、既に趨勢は決していたのですよ》
なんてこったい。そう顔に書いてあるような表情を浮かべるアイヴィスさん。口は半開きとなり、目は上を向いてしまっている。
急に目の前で百面相をし始めたアイヴィスを、訝しんだラヴィニスが心配そうな顔で覗きこんでいるのだが、どうやら白目を向いているので見えていないようだ。
(で、でもそれだと鈴音さんはどうなるの? 確か、ふ、夫婦になる誓約結んでいるんじゃなかった?)
《不問。今回の二つ乃至三つの誓約の締結は個人対個人、そしてその精神に依存します。さらに言うならば、夫婦(または俺嫁)誓約は性別に依存する誓約なのです》
《解説。要するに、マスターが朱羽夜であったときの誓約――つまり鈴音とのものと、アイヴィスになった後の誓約――つまりラヴィニスとのものは性別が違うので、条件をクリアしていることになるのです》
(…………)
《追記。因みにラヴィニスと椿沙は同性で、その精神も同一です。私の解析の結果、マスターのような入れ替わりではなく、肉体的な変化による身体であることも分かりました》
(――え? そ、それって、俺が朱羽夜に戻ったらどうなるの?)
《不問。今回の誓約は最終的に精神に依存するため、二人との関係は継続されます。条件が複雑に絡み合っているため、誓約の破棄も困難を極めるでしょう。結果として、既にマスターに逃げ道は残されていないと言っても過言ではない。そう結論付けるのが、妥当だと思われます》
そして、今回の誓約を最後にアイヴィスとして新たな俺嫁誓約を結ぶことは実質的に不可能となった。と、イヴは締めくくった。
要するに、アイヴィスとラヴィニスは互いに唯一無二――いや鈴音を含め、三位一体の存在になったと言っても過言では無いのである。
そしてこの誓いが派生し、後に”夜烏誓約”と呼称される確固たる誓約が誕生するのだが、ここでは割愛することにしよう。
「……はぁ。私としては言いたいことが多々あるのだけど、概ね椿沙の言った通りだよ。シュウ君」
「またそんな気取ったしゃべり方してぇ、もしかして照れてるのかな?」
「う、ぐぅ……」
「ふふ、せぇんぱい♡ これからもすず姉共々、末永くよろしくお願いしますね♡」
自身の姉を論破してニッコリと笑うラヴィニスに、アイヴィスさんが引き攣った笑顔のままに固まったのは言うまでもないだろう。
モデル顔負けの抜群のスタイルを持ち、絶世独立と呼ぶべき賢しい美人である鈴音。羞月閉花、その上で愛嬌も兼ね備えた神の創作物としか思えない美少女騎士となった椿沙。
そんな一見完璧な美の化身である二人に迫らせるなんて、普通であれば諸手を挙げて歓喜のダンスでも踊りそうなものだが、現実は中々に数奇である。
アイヴィスさんも今になって気が付いたが、何を隠そうこの二人、その全てを台無しにしてしまうほどに残念な嗜好を秘めていたのだ。
絶世の美女である鈴音。彼女は想い人の思考や記憶、はたまた全身の毛穴――いや、細胞一つ一つの細部までもを知りたがる”精神的な粘着性”を持っていた。
天使と見紛う美少女である椿沙。彼女もまた、たとえ火の中水の中、ベット中からトイレまで、付いていきます何処までも。などと、どこにまでも一緒に居たいという欲求を抱えていた。
そう。これは依存……いや、”肉体的な粘着性”と言えよう。
要するに二人は、現代日本で言う追跡者に限りなく近い恋愛観をしていたのである。
そして何より困ったことに当事者であるアイヴィスが、その行為に嫌悪を抱かない――いや、抱けないのだ。
悪意ではなく善意から来ているという側面も確かにあるだろうが、何を言うまでもなく”そういう制約の元に結ばれた誓約”なのである。
そう。つまりアイヴィスは既に積み――ラヴィニス風に言うならば”チェックメイト”状態なのだ。
そして、それを悪と断じられないアイヴィスさんの自分でも知らないような心の隙を、見事に突いていると言える。
要するに、今まで積み重ねてきた自分の言動に責任を取るときがついぞ今、アイヴィスさんに訪れているということなのだろう。
「お、お手柔らかにお願いします……です」
やっとこさ言葉を紡いだアイヴィスさん。言動が少しおかしくなっているのは、果たして喜びからなのか、嘆きからなのか。……それは当人にしか、分からない。
そんな彼の複雑そうな反応を見て、イサギとラヴィニスは互いの顔を見合わせている。
直後。二人してクスリと笑い合い、満面の笑みで再びアイヴィスに振り返った。
誰が見ても女神や天使の降臨を錯覚するほどの幻想的で絶佳な光景であるのだが、アイヴィスさんのその可愛らしい身体はブルリと身震いし、額からは冷たい汗が流麗に地面へと流れ落ちていったのだった。
《結論。流石マスター、懐の深さでは右に出るものは居ませんね》
(……イヴ。何故だろう、とても安心したよ。ありがとう……)
普段なら文句の一つも出るところなのだが、何故か今のイヴの皮肉をとても心地よいものだと錯覚してしまうアイヴィスさんなのであった。
閑話休題。
とっぷりと夜の帳が下りた薄暗い路地の裏。その一角では、今がこのようの絶頂かのように怪しく明滅する乱雑な酒場街が存在する。
そこでは今宵も話題の烏を酒にした宴が、閑静な外界を隔てて喧々と繰り広げられていた。
か弱く微笑む月光は喧噪に負け、宙ぶらりんな淡い色合いは地に足をつけることが出来ないようだ。
今宵は新月前日で、煌々とした明かりなどはほとんど存在しないこの世界。昼夜問わず騒がしいこの一角を除き、漆黒の夜闇が全てを隠している。
「ぎゃはははっ! 馬鹿かぁお前ぇは! あそこはやべぇって、前に俺ゃあ言ったじゃねえか」
「う、うるせぇっ! しょうがねぇだろ? 目ぇ見開くような可愛い子ばっかだぜ? しかも愛嬌があってよぉ。……あぁ、まさに天国だったわ」
「だよなぁ、それは分かるわ。でも文無しになるまでは、流石に頼み過ぎだろーがよぉ。ぎゃはっ!」
「いや、だってよ。いきなり『お帰りなさいませ、ご主人様っ! にゃん♡』だぜ? バァロウの体当たりくらい衝撃だったわ。なんか、色々と吹っ飛んじまってよ」
「あー、良いね良いねぇ。俺んときは『な、何? もう帰ったの? だったら声くらいかけなさいよね! ……ずっと、待ってたんだから。……わ、わんぅ』だったな。正直尊死しかけたね。ツンってきて、デレっときて、恥ずかしそうに耳を垂れさせて”わん”。はい可愛い、最高です」
「何より、あの獣耳と獣尾よな!」
「「「「「「それなっ!!!!!!」」」」」」
とある酒場の店内で、大声で話しながら満足そうに笑いあう大柄な男達。こう見えて彼らは、この街有数の冒険者であり、それなりの金銭を稼いでいる部類だ。
しかし木製の丸形のテーブルの上には、明らかに安っぽい酒と冷めた食事が点在している。話しぶりから察するに、どうやら最近流行りの店で大きく散在してしまったらしい。
二人で話していた内容に聞き耳を立ててた数人も、その内容に激しく同意を示している。おそらくは彼らも、二人と感性が似通う同類なのだろう。
因みにバァロウとは、ここら一体の牧草地帯に生息する”雄々しく巨大な角をもった鳩胸の牛”のような動物の事である。
ともあれ、最近の巷での話題は専ら一つのギルド関連と決まり切っている。
特に話題なのが、何かと話題の絶えない「夜烏」が新規開店した尾耳メイド喫茶『ている♡いやーず』である。
元々夜烏はここら一体の”夜”の業界では知らない人はいないほどに有名なのだが、最近になって”昼”にも進出してきたのである。
夜とはつまり、賭博場や売春宿、人身売買などの限りなく黒に近いグレーな商売だ。他にも表沙汰に出来ない案件を取り扱う”お掃除屋さん”などが存在する。
中には違法薬物や違法奴隷などを取り扱う商人ギルドなどもいるのだが、夜烏では取り扱いは厳禁だ。
それもあり、皇国内にはその手の輩は存在しない。もし夜烏の管轄内で違法取引などが行われた場合は速やかに”お掃除”されてしまうので、突発的なケースを除いて流通しないのだ。
昼とはそれらから逸脱し、許されているのは”お酒”のみ。煙草に似たものも皇国内にはあるのだが、それらも全て禁止されている。
当然健全な商売なので、お触りなどは一切合切NGである。あまりにも悪質な場合は”出禁”となり、もし手を出そうものならその者は”お掃除”対象となるだろう。
一見すると散在するメリットが無いように思えるが、そこにはその全てを覆す圧倒的な”おもてなし”が存在していたのだ。
まず一目みて分かるのものが、”美への追及”である。この喫茶店では、夜の蝶すら裸足で逃げ出す美女や美少女の尾耳族が、その可愛らしい容姿や性格、言葉をもって迎えてくれるのだ。
そう。ここで働く従業員は例に及ばず、団長であるイサギが古今東西を練り歩いて厳選に厳選を重ね選出した、”烏丸”出身の十数人とそれに準ずる者達だったのである。
有体に言って、他とは”美のレベル”が段違い――いや、次元が違うのだ。
次点を挙げるなら、その接客だろう。皇国内には存在するはずもない日本国産の”メイド喫茶”風接客術を、本物のけもみみ美人美少女達が行うのである。
その破壊力は言うまでもなく、皇国を囲う周辺列強すらをも虜にしたのだ。
そもそもなぜこの夜烏ばかりがそのような優秀な人材を確保することが出来たのか、ということなのだが。
前提として、夜烏のギルド員――主に幹部には、個々に見合った役割が命じられているのは周知の事実として存在する。
例を挙げるなら、視覚のヨタカは戦闘奴隷を使役し、聴覚のフクロウは幼子奴隷を教育する。触覚のツグミは金品や物品を集めて保管し、味覚のクジャクは食材やお酒などで料理を提供するなどである。
そう。そして、我らがリーダーたるイサギの専門が”女性奴隷”なのだ。
元々は鼻の利く”嗅覚”にいた人物がこの役割を担っていたのだが、一身上の都合でイサギ自らが担当しているという経歴がある。
イサギは取り扱う全ての女性奴隷と”主従誓約”を結んでいる。その制約により、奴隷達の身体及び先精神状態を常に把握することが出来るのだ。単に、担当した理由はこれに帰結する。
ちなみに幹部や、その配下であるギルド員達も同種の主従契約を結んでいる。
早い話この夜烏は、イサギが絶対的な主として君臨する、独裁的なギルドなのである。
仮に誓約をピラミッドで表すならば、頂点がイサギ。次点に五感の幹部達。最後に配下となる団員達が存在することになる。
余談だが、夜烏の烏丸在住の女性奴隷達はイサギの所有物なので、実質的に幹部よりも立場が上となる。……命令系統などは存在しないので、あくまでも”名誉”という立ち位置ではあるが。
ともあれ、幹部含めたギルド員と女性奴隷のその全ての頂点に立つというのは、本来並大抵の負担では無いだろう。
だが、不可能と言われる複雑怪奇な多重誓約もどんな絡繰りなのか、イサギにとっては朝飯前なのだ。
その誓約の量と質の良さ。それがイサギを奴隷王たらしめる所以である。
そう。早い話、部下の能力を含めた自身の全力を用いて、並み居る女性奴隷達を吟味するのだ。
……じっくり、そしてねっぷりと。
そしてその真価を見定め、一定水準以上の者を烏丸に囲い込むのである。
それだけを抜粋すると只の”とんでもない好色家”という残念な悪評になってしまいそうだが、当然そこには理由があった。
まず第一に、女性奴隷としての価値をさらに高めるための教育を件の烏丸にて行う。ということだ。
元々の素材が至高の物であるからに、磨けばさらに輝くことになるのはまず間違いが無い。
要するに、彼女達は皆その区画で、自身の魅力を高める為のありとあらゆる手段を学ぶのである。
次点の理由として、彼女らの安全の確保である。
何も敵は外だけじゃない。皇国内でも彼女らに魅了されたものが、何かの拍子に間違いを冒してしまうかも知れないのだ。
それを未然に防ぐという意味も含め、彼女達を烏丸という”安全地帯”に匿っているのだ。
そして、最後にして最大の理由が”朱羽夜へのプレゼント”である。
元々はそのために色々な手段を使って、少しずつその質と量を高めてきた。つまり、この烏丸は朱羽夜のために存在する。そう言っても過言では無いのだ。
本来ならば諸々を済ませた後に彼女達を、”サプライズプレゼント”として献上する懐の深い女性を演じる予定だったらしい。
朱羽夜の唯一無二の存在になろうという魂胆だったらしいのだが、あの出来事によってその時期が早まったのである。
予定していた状況とは違うが、それでもアイヴィスになった朱羽夜にその全てを譲渡したのである。
――そう。話は、アイヴィスがこのギルドに入団したその数日後まで遡る。
「シュウ君。キミの最愛からのサプライズだよ。やるなりやられるなり、好きに使ってくれたまえ」
「煮るなり焼くなりじゃなくて!? ……いや、そこじゃない。なんで!? そしてどうやって!?!?」
「む? 君の精神が求めていたからに決まってるでしょ? 確かに同性として思うところがあるけれど、私に任せてくれ。君の欲求不満、その全てを全力で処理してみせるからっ!」
「ちょっと待って! なんで俺でも知らないような俺の最低な欲求が分かるの!? そしてなんで手伝っちゃうの!? 止めないの!?!?」
「む? さっきも言ったけど、キミ自身が求めているからだよ? あ、ちなみに”ドレイレヴン”の女性達は皆未使用だから安心して欲しい」
「何をなの!? ねぇ。もしかしてイサギさんて、実はとんでもないお馬鹿さんなの!?!? 見てほらウチの可愛い嫁の顔! 般若が憑依しちゃってるんだよ! ねぇ!」
「全くもう、そんなこと言って。”初めて”が好きなのは既に知っているんだよ? そうそう。そこに顕現してる般若の娘も、もちろん私も――あ、今はシュウ君に預けてるけど。……”新品”だから、大切に使ってね♡」
「ちょっ! えっ? もうこの人何言っちゃってるの!? イッちゃってるの!?!?」
そんなやり取りが繰り広げられたのは、今や懐かしい記憶である。アイヴィスさんがその時を思い、全力で現実と欲求から逃避したのは言うまでもない。
ちなみに「それに、だって。今、その行為をする方法が無いし、な、何も出来ないじゃないかっ! 俺はなんて、なんて無力なんだろう……」とこっそり枕を涙で濡らすことになったのだが、彼の名誉のためにも無かったことにしようと思う。
何の気なく突然自身の貞操感を暴露された般若さん。瞬時に元の切れ長目の美人へと戻り、ボボッという音を幻聴するほどに顔を真っ赤に染めて俯いていたのだが、これもまた、言うまでもない。
”ドレイレヴン”の一員に、クジャクに似た誰かがいた様な気もするが、きっと気のせいである。
既に白目を剥きかけていたアイヴィスさん。最後に「でもシュウ君、”中古”も嫌いじゃ無かったよね? 大丈夫。そっちもちゃんと、用意してあるからね。全くもう、この欲しがりさんめ♡」と言い放った自分の面をしたイサギさんに、ムンクも絶叫するほどの変顔を披露したという。
ある日突然世紀の美女や美少女達と、一級品である武具や物品をその区画ごと譲渡される。
そのあまりの現実感の無さに、しばらく気持ちの整理がつかないままに日々を惰性で過ごすことになったアイヴィスさん。
そしてその日から今に至るまで、ラヴィニスと女性奴隷達による”アイヴィス争奪”を目的とした、血で血を洗う――比喩だが――牽制合戦が繰り広げられていた。
「可愛い娘達に求められるのは悪い気はしないし、出来れば無下にしたくは無い。でも、流石に連日となると堪えるなぁ」と、アイヴィスさんがこっそりと独り言ちるのが、最近の日常になっている。
「なんだい、アイ。珍しく元気が無いじゃないか。一体どうしたってんだい?」
「あぁ、クジャクさんか。うん、いやね? ほら、あれ」
そんな呟きが聞こえたのか、調理場から来たと思われるクジャクがアイヴィスに話しかける。
一方のアイヴィスさんは、少々気まずそうにその原因に指さした。
「あー、またあの娘達か。全く、毎日毎日飽きもせず良くやるねぇ。よ、モテるねアイ。このこの~」
「うぐぅ。鈴音さんみたいなことをしおってからにぃ」
「ん? 鈴音って誰だい?」
「あー。いや、何でもないよ」
とある日の鈴音を幻視するようなクジャクの行動に唸るアイヴィスさん。
基本的に何処へ行ってもお姉さん系の人には弄られる傾向があるのかも知れない。
クジャクとしても聞いてみただけで、特に深く追求するつもりも無いらしい。
「そうさねぇ。まぁ、あの娘達の気持ちも分からなくも無いからねぇ。あまり嫌わないであげて欲しいさね」
「まさか嫌うなんて、そんなことあり得ませんよ。むしろ私にはもったいないというか何というか……」
「それこそ大間違いさね。ここに居る皆はあたいも含めて、今日までアイのために生きてきたと言っても過言じゃないからねぇ」
「そんな大袈裟な……」
「大袈裟? 嫌だねぇ、そんな訳無いじゃないか。イサギ様の教育は徹底としたものだ。奴隷となった日から今日までの時間は全て、あんた――アイのために使ってきたのさね」
「…………」
「ここに居るものは皆例外なく天涯孤独の身さね。もし仮にアイに見限られたとしたら、その瞬間に絶望して何をしたものか。想像したくも無いねぇ。ふふっ、あんたもとんでもない御仁に見初められたねぇ」
「……笑いごとじゃ、無いんですけど」
喧々と騒ぐ美女達を眺めながら、「はぁっ」と何度目か分からない溜息をつくアイヴィスさん。
重圧がのしかかり顔を顰める彼を、ニヤニヤと笑いながら眺めるクジャク。
ちなみに”烏丸”の女性奴隷達は、イサギにアイヴィスとの関係についての詳細を聞いている。
彼が本来は男で、元の姿はイサギの物と同一であるということ。
また、日本という別の世界に存在場所から来た異世界人であること。
そしてさらには自分達二人の関係と、その最終的な目標まで余すことなく全てを知っているのだ。
最終的な目標に関してはアイヴィスさんには秘密らしく、その詳細については誰も口を開こうとはしない。
そして、アイヴィスさんも深く追及しない。当然それは、誰にでも知られたくないことの一つや二つあるだろうという配慮からなのだが、最近になってちょっと不満に思っているらしい。
「どうして俺の事をそんなに詳しく知っている!? 少しはそっちのことも教えてよ! ずるいじゃんか! 不公平だよ!」と言った具合である。
何だかんだで結局のところアイヴィスさんが折れて、そのまま放置しているのが現状だ。
そんな鈴音の本心でも考えていたのだろう。彼は、隣で笑うクジャクを斜め下からジーッと覗きこむように思案顔を浮かべている。
「な、なんだいアイ。そんなにじっと見つめてさ! 何か、あたいの顔に付いているかい?」
「あ、いえ。ちょっと考え事を……そうだ。この前言ってた”あいつら”って誰なんです?」
自身がいつの間にか見つめていたことに気づかされ、アイヴィスは咄嗟に取って付けたような質問をした。
ちなみに”あいつら”とは、前回クジャクがアイヴィスと一緒にケーキを作った際に口を滑らせた”競争相手”のことである。
対するクジャクはその単語を聞き、少しばかりその端正な顔を顰めている。
「あぁ、あいつらのことか。そう言えばアイにはまだ、伝えていなかったねぇ」
「うん、知らない」
「そうさねぇ。あたいら夜烏の領域は名前の通り、この”ユヴォーキン”の半分を占めているのは知ってるね?」
「うん」
「でも最近になってそんなあたいらの領域に、ちょっかい出してくる連中が現れたのさね」
「ふむふむ」
「それに対抗しようとあたいらも昼に商売始めたのさね。……ただ、良くも悪くも有名なのが仇となってね? 全くと言っていいほどに客足が伸びないんだよ」
「な……っ!? うちの団員が昼に……いや。むしろ、働く……だと?」
アイヴィスさんはその事実に愕然としたらしい。「昼間に活動? あの干物達が!? じょ、冗談でしょう!?」などと顔に書いてあるのが誰の目にも明らかで、事実。その認識は正しい。
(あれはひどい。いや、夜にちゃんと働いているからいいのかも知れないけれど、夜は夜で基本的に酒飲んでドンチャンしているだけにしか見えないけども!)
元々勤勉な日本人しか知らない彼としては、もしかしたら異世界に来て一番驚いたのはこの事実かも知れなかった。自分ですらここでは働いている方なのでは、と。
「ふふっ。気持ちはまぁ、分かるさね。それで、だ。ここままじゃいけないと、この前アイに教えてもらった”しふぉんけーき”を試してみたんだよ。ところが……ねぇ」
「え、嘘? もしかして、受けが悪かった?」
「いや、そんなはずは無い! ……と、思う」
「思う?」
「そうさねぇ。うちの連中の面を見れば分かる。いつもは寝ている昼の時間だから余計に、ねぇ?」
「あぁ……」
「あはは……その想像通り、そもそも食事のとこまで行かないのさね。……はぁ」
アイヴィスとクジャクの両名は見つめ合うと、同時に嘆息を繰り出した。まさに、息ピッタリである。
互いの愚痴を言い合い、少しでも不満を解消しようという気持ちからの行動なのだろうが、傍から見ればそれは特別な仲に見えなくもない。
そしてそんな状況に目敏く気が付いたのだろう。そんな二人に突貫するが如く詰め寄るものが、約二名ほど現れた。
「アイヴィス様! んもう! なんでちょっとでも目を離すと新しい女の子とイチャイチャし始めるんですか! この浮気者ぉ!」
「クジャクさんっ! ずるいですよ! 私が最初にお声をおかけしたのです! 貴女らしくないわ、抜け駆けなんてぇ!」
突然の出来事にビクンと身体を震わせるアイヴィスとクジャク。そして、互いに詰め寄る二人の姿を見て目を見張り、最終的には顔を見合わせて溜息を吐いている。
「いやいや、それは勘違いだよラヴちゃん。クジャクさんのお店の経営事情を聞いてただけなんだって」
「そうさね。アイの発想は柔軟な上に貴重でねぇ。あたいとしても、今後の経営の参考にしたいのさね。……だから、そんなにむくれ無くても良いだろう。キツネ?」
咄嗟に口裏を合わせる二人。その所作は、まるで長年連れ添った夫婦のような自然体である。
そして、その虚実を交えた説明を聞いたラヴィニスとキツネと呼ばれた美女の両名は渋々と言った様子ではあるが、一応の納得はしたのかこれ以上詰問する気は無さそうだ。
「取り敢えず、二人がご一緒だった理由は分かりました。ですがクジャクさん。シフォン、私はシフォンです。これから私のことは、そう呼んで下さいませんか?」
「し、しふぉん?」
「はいっ! 先日ご主人様に名付けて頂いたのです! ふわふわな毛並みと毛色がかのケーキにそっくりで、とても美味しそうだって……」
朱に染めた頬を両手でイヤンイヤンと抑えて「いつでも召し上がって下さって宜しいのですよ」と、アイヴィスにスススと近寄るシフォンさん。
その肩に、とても良い笑顔でガッと手を掛けるのはラヴィニスさんだ。誠見事なインターセプトである。
チッと舌打ちを鳴らし、その金色のぱっちりとした狐眼で彼女の方へと振り返るシフォン。
彼女の冷涼な眼光に負けじと、その美しい碧眼の切れ長目で正面から睨み返すラヴィニス。
何度目だか分からない、切れ長目VS狐眼の”ナウオンファイト”の始まりである。
そんな中。「――うん。やっぱりツリ目は至高だね、実に素晴らしい。どっちも負けるな、頑張れ頑張れ」などと、無責任な応援をするアイヴィスを見て、クジャクはついに空を仰いだ。
そんなやり取りの後、せっかくこんなに沢山の獣耳美人美少女――ドレイレヴンやお耳族以外の女性も居るが――がその瑞々しい肢体を持て余している訳だし、是非にでも働いて貰おう。
そんな考えから始まったのが、アイヴィスプロデュースの尾耳メイド喫茶『ている♡いやーず』なのである。
彼のその熱の入りようは凄まじく、一挙一動から表情の機微。その特徴を引き立てる衣装に会話の語尾に至るまで、その全てを徹頭徹尾余すことなく彼女達に叩き込んだ。
そう。彼らは皆とことんまで妥協せず、メイドとは何か如何なるものかと真摯に向き合い、時には怒り、時に涙し、しかし最後には弾けるような笑顔で全ての特訓を終えることになったのだ。
イサギに元々奴隷としてのいろはをその身と心に叩き込まれていた彼女達だからこそ、アイヴィスの無茶な要求にも答えられたのだろう。
その調教と呼ぶべき教育を目撃した調理担当のクジャクが「あぁ、似たもの夫婦だったんだねぇ」と、どこか遠い目をしたのは、まさに言うまでもないことである。
次回からは、徐々にシリアスな展開を描いていきたいと考えています。