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あの子がいる

作者: 田中かなた

 坂東綾は時々変なことを言う。それにいちいち耳を傾けてはいけない。


 その日俺は独りで教室に残っていた。数学の宿題を片付けるためだ。俺はいつも宿題を学校でやってから帰る。こうすると家に帰ってから宿題をしろと言われなくていいから。

 その日の宿題は量が多く、いつもより時間がかかってしまった。手元が暗くなってきてはじめて時間の経過に気付き、顔を上げると窓の向こうではすでに陽が沈もうとしていた。遠い山の稜線にある太陽から赤い光が教室に流れ込み、机や椅子や黒板をゆるやかに赤く染める。

 坂東綾は夕闇に溶け込むようにして、一時間前と同じく俺の一つ前の席に座っていた。前髪に隠れた細長い目でつまらなさそうに夕日を眺めて黙っている。

 まだいたのか。俺はそいつの存在に欝陶しさを感じた。坂東は何をするでもなくずっと俺を待っていたのだ。

「待ってくれ」と言った覚えも

「待つからね」と断られた覚えも全く無い。しかしこいつはごく自然なことのように、俺の宿題が終わるのを一時間もそこで待っていた。

「お」

 俺の手が止まったのを見て坂東は愉快そうな声を出す。

「終わったか、ヤギ君」

 俺は目を合わせないようにしながら頷いた。本当はまだ少し残っているのだが、これ以上そうやって待たれるのも面倒臭い。

 そんな俺の反応でも満足したのか、坂東は口の左端を吊り上げるあの不気味な笑い方をした。こいつにとってそれは自然な笑顔であるらしい。呪われているとしか思えない。

「じゃあ、帰るのか」

 『帰ろうか』ではなく『帰るのか』ときくのは俺にこいつと連れ立って帰る気が全くないからだ。こいつはいつも俺が帰るのを見計らって後ろをついて歩くだけ。何故そんなことをするのかは全く謎である。

 こいつは俺に一緒に帰ろうと申し出たことは一度もない。最初からただついてくるだけだ。もちろんそう言われたとしても断るが。

 坂東のやることは不可解なことが多い。いちいち相手にしてはいけない。

 俺が黙って帰り支度をはじめると、すでに鞄を用意している坂東は体を揺すって俺を急かした。

 その時突然、何の前触れもなく俺の背中の後ろから「キイ」と小さく何かの軋む音がした。振り返ってみると、掃除用具入れの金属性ロッカーの扉が開き、ゆらゆらと揺れていた。

 ついさっきまでそのロッカーは閉じていて、教室には俺と坂東以外誰もいない。もちろん風も吹いていないし、ロッカーが突然開かせるようなものは何も見つからなかった。

 坂東綾が「ヒヒ」と声を洩らして笑う。

「あの子がいるね」

 こいつの言うことを真に受けてはいけない。俺はわずかな不安感を押し殺し、黙って鞄を肩にかけた。


 坂東綾はいじめられている。当然といえば当然のことだ。こんな不気味な奴に友達などできるはずもない。

 今日は坂東の鞄が、泥水に汚れて校舎裏に打ち捨てられていた。教科書やノートが水分でふやけた状態で散らばっている。多分三階の教室から投げ落とされたのだろう。今日は朝からの雨で地面が弛んでいたから、ただ捨てただけでも坂東の持ち物はあのとおり台無しだ。

 昼には雨の勢いは収まっていたが、授業の終わった今もなお太陽は顔を出さず、湿気を含んだ空気が草と泥の匂いをつんと漂わせている。

 坂東は泥だまりの中の自分の鞄を、眉根をよせて指先でつまみあげた。中に溜まった泥水がびちゃびちゃと流れ出る。

 普段から坂東と言葉を交わすことなどろくに無いが、こういう時となるとなおさら、掛ける言葉は皆無である。ただ、放っておいて帰ることもできるが、そうしないで待ってやることが俺の掛けられる最大限の情けだ。

 坂東は鞄を再び泥だまりに落とし、今度は自分の足でそれを踏み付けた。そのまま両足で激しく足踏みして、鞄を完膚なきまでに汚し、へこませ、ボロボロにする。まるで子供のように坂東は泥を跳ねとばしてはしゃぎ回った。

 ぐちゃぐちゃになった鞄のなれの果てを蹴り飛ばして、何やら満ち足りた顔をしている。その顔もまた不気味だ。俺は少し距離を置いてその様子を眺めていた。

 坂東は泥で汚れた親指の爪を噛んだ。

 カチ カチ カチ。

 こいつはよく爪を噛む。濁った目をして一点を見つめ、一心不乱に噛み続けるのでこれもやはり不気味。

 カチ カチ カチ。

「やめろよ、爪噛むの」

 俺が言うと坂東は指を口から離した。しかしそれでも何故かカチカチという音は収まらない。坂東はもう爪を噛んでいないのに、音だけが続いている。

 カチ カチ カチ。

「……何の音だ?」

 坂東は愉快そうに口の端を吊り上げ、両手をひらひらと振ってみせた。

「アタシじゃないよ。あの子がアタシの真似してるのさ」

 カチ カチ カチ。

「あの子って何なんだ、幽霊か?」

 真に受けてはいけないと思いつつ、そうきいてしまう。坂東はクククと押し殺した声で笑った。

「ヤギ君、幽霊なんか信じてるのかい? ねえ」

 その笑い方や喋り方はいちいち不愉快だった。しかしそれに何か言い返すのもまた不愉快でしかない。

 カチ カチ カチ。

 爪を噛む音が今度は俺の耳のすぐ後ろから聞こえた。いつのまにか「あの子」は俺の背後に回っていたのだ。あわてて振り返っても、音は常に俺の後ろをとって動き回る。耳のそばにいつまでも爪の音が付きまとってくる。

 背筋が寒くなった。

「おい、やめさせろよ」

「そりゃ本人に頼みな」

 幽霊というものを信じているわけではない。しかし他にどうすることもできず、言われたとおり背後にいるかも知れない何かに話し掛ける。

「や、やめてくれよ」

 情けないことにその声はうわずっていた。だが、その声に応じたのか爪の音はぴったりと止まった。

「ヒヒ、気に入られたね、ヤギ君」

 坂東がまたも不気味に笑う。

「ヤケちゃうぜ」

 今頃になって俺は辺りを見渡すが、やはり爪を噛むような音を出すものはどこにもない。静寂が戻った今、『あの子』の存在を示すものは何一つ残っていなかった。


 俺が坂東綾に対して抱く感情は複雑である。まず第一にあまり関わりたくない相手であることは確かだ。こんなやつといて俺にまでイジメが飛び火したら困るし、何より不気味だ。理解しがたい。

 しかし利点もある。こいつが傍にいる限り他の人間は寄ってこないのだ。人に好かれるための努力が苦手な俺にとってそれは有り難いことと言える。坂東と他の奴の中間あたりにある、人間関係のエアーポケットにうまく入り込むのが俺の理想なのだ。イジめたりイジめられたり、そういう下らないものとは関わらずに暮らしたい。

 坂東が何を気に入って俺に付きまとうのかよくわからないが、それを拒絶もせず受け入れもせずにいる限りは適切な距離が保たれるのだ。今のままの状態を維持していたい。

 とはいえ。

 今日のようにあいつが泥だまりの中に独りで取り残されていると、無視して帰れない自分がいるのも事実。

 もっと気を付けなければこの距離を守ることはできないだろう。厄介だな。


 そんな俺の認識が甘かったのを知らされるのはまた別の日の話である。

 その日はまた随分と遅くなり、帰り道の途中ですっかり空が暗くなってしまっていた。それでもやはり坂東は俺のあとをついてきたわけだが、ある地点へくるといつものように「じゃあね」と短い挨拶を残して俺とは違う道へ別れた。今日も道中一言も話さなかった。

 坂東と別れてから家に着くまでの道はそう長くないが、この間だけが俺が後ろからの視線を気にせず歩ける時間だ。

 その日は雲も出ておらず、深海のように重く暗い空で月が音もなくこちらを見下ろしていた。

 ふと、背後に誰かの気配を感じて振り返った。夜の道はしんと静まり返っていて、やはり誰もいない。

 気のせいか。そう思って再び歩きだすと、すぐにまた違和感に気付く。

 足音が、一つ多い。

 俺の足音に重なるように、もう一つ別の足音が背後からついてくるのだ。俺が立ち止まると音も止まる。

「……坂東か?」

 その問い掛けに答える声はなかった。しかし歩き始めるとまた足音だけが俺の少し後ろをついてくる。

「ついて来るなよ」

 足を早めた。するとついてくる足音の間隔も同じように早くなり、近付きも離れもせずについてくる。

 やがて、アスファルトを踏む靴音のようだったその音が、次第に水気を帯び、ぐちゃ、べちゃ、という泥の道をゆくような足音に変わった。もちろん足元には依然として舗装された道路が続いていて、俺の足音は変わらず乾いたままだ。後ろの足音だけがおかしい。

 音はさらに変わっていく。泥の音からだんだんばちゃばちゃと水溜まりを進むような音に、そしてじゃぶじゃぶ、ごぼごぼと、どんどん深い池に沈んでいくように。

 この足音の主は決して坂東などではない。あの子だ。あの子が俺の後ろにいる。

 足音が変わっていくにつれて、その間隔も短くなり、だんだん、距離が近づいてきた。あの子が速度を上げているのだ。

 音に追われて俺の足も早くなる。しかしあの子との距離は一向に開かない。もっと速く歩く。すぐに全力疾走しなければならなくなったが、それでもあの子はどんどん近づいて来る。

 足音はざぶざぶと水を掻き分けながら俺の背中に密着するほどの距離に近付き、俺の耳元で、あのカチカチという爪を噛む音が聞こえてきた。それと同時に誰のものともつかない笑い声も。

 じゃぶじゃぶ カチカチ。

 フフフフフ フフフ。

「なんなんだよ!」

 どうやっても振り切れないとわかり、俺は走るのをやめた。その途端に鳴り続いていた怪音の全ても止まる。

 気付くと俺はとっくに家を通り過ぎ、馴染みのない裏道で一人、街灯に照らされていた。

「八木君」

 不意に誰かに呼び掛けられて心臓が跳ねる。

 振り返ったが誰もいない。しかし呼び声はなおも続いた。

「八木くん」「ヤギクン」「やぎくん」「うふふふふ」「八木クン」「やぎクン」「やぎくううん」

 大人や子供、男や女、色々な人間の声でそれが続く。夜の街のどこかに隠れて大勢の人間が囁きあっているようだった。

 くそ。こいつは俺をからかって面白がっているのだ。耳を貸すな。

「……もう相手しねーからな。坂東のところへ帰れよ」

 口元を引き締めて、俺は家のある方に歩きだす。それでもしばらくの間は背中の後ろを誰のものともつかぬくすくす笑いや、大柄な男の荒い息遣いのような音がついてきたが、一切無視して歩いた。

「……ヤケちゃうぜ、ヤギ君」

 最後の声は坂東綾の声にそっくりだった。


 甘かった。と思った。

 適切な距離もクソもない。坂東綾は絶対に近づいてはならない人間だったのだ。

 どういう理屈なのかは知らない。しかし坂東は確実に何かに呪われている。その災いは彼女をイジメているような奴らよりもむしろ俺に降り掛かるようになっているのだ。

 これ以上坂東に近づいてはならない。俺はそう結論づけた。


 その日からは間違っても帰り道を坂東につけまわされないようにした。教室に残って宿題をする習慣もやめ、他のクラスメイトに混じって授業終了と同時に逃げるように帰る。

 坂東は靴を隠されていたので俺を追い掛けられなかった。知ったことではない。むしろ好都合だ。

 これからは今まで以上に完璧にあいつを無視しなくては。無視するだけでなくはっきりと拒絶して、避けて暮らさなければならない。

 その次の日には、坂東が教室で数人の男女に囲まれていた。

 いつものように席に座って爪を噛んでいると、急に周りに人間が集まってきて、彼女を見下ろしてニヤニヤと笑いはじめたのだ。坂東は何が起きているのかわからないといった顔でおろおろしている。

「立てよ」

 一人の男子生徒が言った。坂東は言われたままに立ち上がる。

「来い」

 短く命令してそいつは歩き始めた。他の生徒達が前後左右から坂東を取り囲み、否応無しに連行していく。

 知ったことではない。俺はその様子を離れた席から眺めていた。多分、あいつらはこれから坂東をどこか人気のないところに連れていき、暴力を振るうなり、何か屈辱的なことをやらせるなりして楽しむのだろう。俺の知ったことではない。

 こういうことは今までも定期的にあったし、それを俺が止めに入ったことなど一度もなかった。ただ今までは連れていかれる坂東が虚ろな目でこちらを見て、俺はそれに哀れみのこもった視線をかえしていたが、今回はそれがないというだけのことだ。

 俺は机の上の数学の教科書に視線を落とした。放課後にやらなくなった宿題を今やっているのだ。なぜかさっきから一行も進んでいない。問題を解こうと思っても公式が頭に浮かんでこないからだ。何を考えているんだ俺は。

「どうした? 腹でも痛いのか?」

 突然声をかけられた。その声は俺のすぐ右手側から聞こえてきたがそちら側にはベランダに面した窓しかない。首を反転させてそちらを向くと、窓の外に、伸びた前髪に顔を半分隠された女子生徒が立っていた。……坂東綾である。

 俺は再び首を回して教室側を見た。坂東綾が周りからこづかれはたかれしながら連れ去られ、扉から出ていくのが見えた。

 また窓側を見る。坂東綾が愉快そうに口の端を引きつらせて笑っている。

 ……声も出なかった。俺の視界が回る以上の速さで移動しているのでなければ、坂東が同じ教室に二人いる、としか思えない。

「顔色が悪いぞ。昨日はよく寝なかったのかな?」

 パンクしかけの脳を必死に押さえ込んでいる俺に、坂東がとぼけた言葉を投げ掛ける。

「どうなってる?」

 俺はなんとかそれだけを質問した。坂東はそんな俺を見てくっくっくっと不気味に笑った。

「連れてかれたのは、『あの子』さ」

「『あの子』……」

 坂東とまったく同じ姿形をしていた、『あの子』……。

「代わってもらったんだ。ま、そんなことよりヤギ君、ちょっと今から付き合えよ。授業なんかサボッてさぁ」

 坂東綾は窓枠の中から妖しく笑って手招きしている。

 俺は午後の授業をサボることを決めた。


 そうして俺は坂東に連れられて、町外れの人気のない公園にきた。木製のベンチと砂場と水飲み場のあるばかりの寂しい広場だ。

 坂東はその砂場に座って土いじりをしている。やっとこやっとこ砂を集めて山を作り、ある程度高くしてから踏み壊すのだ。すると砂が飛び散って山の形が無くなる。制服のスカートの中まで砂が入っているように見えるがこいつは気にならないのだろうか。

「……おい、付き合えってのは砂遊びのことだったのか?」

「楽しいぜ。爪の間に砂が入っちゃうけどなぁ」

 坂東は俺の存在など全く気にしないで砂山づくりに夢中になっている。自分の膝ぐらいの高さまで育ててから踏む。何度もそれを繰り返す。

 俺は今からでも学校に帰って授業を受けられるかどうか考えた。時間的には問題ないが、面倒臭さの方が勝ってしまう。こんなに早く家に帰るのも嫌だし、どうしたものか。

 ため息をついている俺の頭に砂の固まりが降ってきた。坂東が投げた砂だった。髪の毛や服の中に大量の砂が入り込む。

「うわっ、てめぇ」

「ヒッ、ヒヒ、ヒ、ヒ」

 坂東はしてやったりとばかりに腹を抱えて笑い転げた。俺はすっかり砂まみれで口の中までじゃりじゃり音がする始末だ。この不快感はちょっと言葉では言い表せない。

 俺は一体何をやっているのだろうか。坂東に誘われるままにわざわざ授業を抜け出して、こんなところで砂を噛んでいる。

 思えばあの教室で見たものが強烈すぎて正しい判断ができなくなっていたのだ。坂東がちょっと二人に増えたって、そんなことは無視して学校に残ればよかった。いや、しかし、そうすると今頃俺は教室で、あの坂東そっくりの姿をした何者かに絡まれていたかもしれない。それともあいつはもう煙のように消えてしまったのか?

「辛気臭いな、ヤギ君」

 坂東が呑気に新しい砂山を叩き固めながら言う。お前だけには言われたくないが反応はしないでおこう。

「今日の予定はずっと砂遊びか? ならもう帰りたいんだが」

「ま、そう焦るなよ」

 坂東は立ち上がると、今作った砂山を盛大に蹴り飛ばした。しめった土がどさっと宙を舞い、靴が片方飛んで砂の中に落ちた。舞い上がった砂煙は風に煽られて坂東本人に降り掛かったが、もともと砂まみれになっていた坂東はたいして変わらなかった。

 片足は靴下で、足元から頭まで砂だらけ。砂漠を旅してきたような姿で坂東は置いてあった鞄を手に取った。鞄の方はこの公園にくる前から泥が染み付き、くたびれて継ぎ目から破れそうな状態だったので、今の坂東の姿によく似合った。

 坂東はその鞄の中から教科書やノートを取り出した。中身も外観に負けず劣らずひどい有様だ。使えそうな状態のものは何一つ無い。

「これ見ろよ」

 坂東はその中から一つの紙束を取り出して俺に寄越した。カバーが無くなっていてよくわからなかったが、元はよくある大学ノートだったようだ。残っているページも本来の半分程で、全体が折れ曲がってぐしゃぐしゃになってしまっていた。

 その一番上のページには油性のペンでこうかかれている。

『お前のノートはヤギが食いました』

 ……何だこれは?

「困るな、ヤギ君。人のノートを勝手に食べるなんて。くっくっくっ」

 坂東綾が笑う。

「……俺は知らん」

「そりゃそうだ」

 こいつが何を言いたいのかわからなかった。だがしかし、俺の頭はうっすらと危険を感じていた。

 このヤギと言うのは多分俺のことだろう。この文章を書いたのは普通に考えてノートを破った奴、つまり坂東をイジメている誰か。とすると、そいつには俺が坂東の肩を持っているように見えたのだろうか? だからそれへのあてつけとしてこんな落書きをしたのだとしたら、俺はこいつの仲間とみなされていると言うことになる。

「なあ、ヤギ君」

 いつの間にか坂東が俺の隣に腰掛けていた。口の左端を吊り上げる、あの不快な笑顔がすぐ目と鼻の先にある。

「お前、友達はいるかい? いじめられた時にかばってくれるような友達さ。ああ、言っとくがアタシは違うぜぇ。アタシはお前の友達じゃねえ」

「……何が言いたい?」

 坂東の顔がさらに近付き、吐息のかかりそうな距離になる。俺の視界はほとんど坂東の笑顔に塞がれた。その笑顔から今までの不気味さとは違った冷酷さや無慈悲さのようなものが伝わってきて、異様な気迫に俺は息を飲まされる。

「……ヒヒ。やっぱりいないんだな」

 顔を離し、満足そうに頷く坂東。そして今度はさっきの雰囲気とは一転して、こちらに媚びるように首を傾げて言う。

「どうだ、アタシが友達になってやろうか? いないよりもマシだろう。ん?」

 俺ははっきり言って腹が立った。具体的にこいつのどの部分に対してどういう感情をもったのかうまく言葉にできないのがもどかしいが、とにかく感情的に怒鳴りつけそうになるほどに頭に血が上るのを感じた。

「ふざけんなよ」

 声を押し殺して言う。それに対して坂東は驚いた様子も、残念がる様子も見せず、

「そう言うと思ったよ」

 と、まるで期待どおりと言いたげな笑顔で応えた。

 何も言えないでいると、坂東は俺の手から破れたノートを取り上げ、汚れた鞄を持って立ち上がった。そしてそのままこちらに背を向けて歩きだす。

「気を付けろ」

 数歩、歩いてから足を止め、振り返りもせずに坂東は言った。

「お前のような友達の作れない奴は、『狙い目』だ」

 その言葉を最後にそいつは俺の前を去っていった。

 あとには砂場に半分埋もれた汚い運動靴が、片方だけ残っていた。


 次の日俺が学校に着く頃には、もう全ては変わってしまったあとだった。

 何も知らず、今日も昨日までと同じ一日が始まると思っていた俺の目に、見慣れない人間が飛び込んできたのだ。そいつは俺が登校してきた時にはすでに教室にいて、クラスメート達となにやら親しげに笑いながら喋っていた。

 俺はそいつが誰なのかわからなかったが、相手は俺を見つけると嬉しそうに話し掛けてきた。

「お早よう! ヤギ君」

 そんなに明るい声で自分に話しかけてくる人物に心当たりがない。

「ん? どうしたの?」

 少しだけ首を傾けて上目遣いにこちらを見つめている、見慣れぬ女子生徒。前髪をあげて綺麗に化粧された顔をよく見せて、可愛らしい黄色い花の髪飾りをつけている。

 制服も新品のように清潔感にあふれており、鞄も全く型崩れしていない。

「えへ、わかる? 髪型変えてみたのよ。ヘンかなあ?」

 転校生としか思えないが、以前どこかで見たような顔をしたそいつはなおも俺に話し掛けてくる。

「……お前は誰だ?」

「坂東綾よ」

 目の前の人間はあくまで優雅に、不気味さなど少しも感じさせずに微笑んでいる。だが、化粧や表情の下の顔の造形自体は確かに坂東綾と同じだ。身長も体格も坂東そのものだった。

「どこでそんな言葉遣いを覚えてきた?」

「やだな、元からこうよ」

「クラスの奴らとは仲良くなったのか?」

「昨日ちょっとね。みんないい人たちだよ」

 白々しい。お前のような奴は知らない。

 それでも俺は目の前にいるものの正体に思い当たっていた。こいつは昨日俺と公園に行った人間ではない。クラスメイトに囲まれて教室を出ていった方だ。

「お前が坂東綾であるはずがない」

 すると坂東の影は呆れたように「ふう」と小さく息をつき、つまらなさそうな視線をこちらに送った。

「騙されてくれないのね。他のみんなはすぐに私を受け入れたのに」

「本当の坂東綾はどこへ行った?」

 影はじっと黙ってこちらの様子を観察している。俺はその目を見つめ返した。と言うよりは視線をそらすことができなかった。

 影は急に無表情になり、答える。

「坂東綾は私よ。……今はもう」

 今はもう?

「あなたが探しているのは前の坂東綾ね」

 影の顔にほほ笑みが戻った。俺の頭は話の内容を追うのに必死だ。

「これは椅子取りゲームなの。人間はみんな、自分という椅子を守って生きているのよ。私は前の椅子を誰かに奪われたから、坂東綾の椅子を奪うしかなかった。椅子を取られた人は宙ぶらりんのまま、新しい椅子を探し続けるしかないのよ」

 自分という椅子。坂東綾の椅子。俺の椅子。

 坂東は自分の席を追われた。そして今は他の誰かの椅子を探している。席を奪うと誰かがまた宙ぶらりんになり、そいつがまた別の椅子を奪う。そうしてずっと続いていく、終わりの無い椅子取りゲーム。

「八木君、私と友達になりましょう。私はあなたのことが好きよ。帰り道についていったこともあったね。あの時は驚かせてごめんなさい。ね、お友達になりましょう? きっと楽しいから。それに私はあなたを守ってあげられる」

「願い下げだ」

 俺は差し出された手から目を背けた。新しい坂東綾は悲しそうに手を下ろし、俺に背中を向ける。

「そう。じゃあ坂東綾のことは任せてね。私、あの子よりずっとうまくやれるから」

 坂東はまたクラスメイトの輪に帰っていった。違和感なく会話に入り、クラスに溶け込んでいく。

 取り残された俺の背後に足音が近づいてきた。振り返っても人の姿はない。足音だけの存在だ。

 それは奇妙な足音で、右足と左足で音が違っていた。右は靴が土を踏むじゃりっという音だが、左はまるで靴下のまま歩くように静かな音しかしない。その足音がだんだん近づいてきて、俺の目の前で止まった。

 カチ カチ カチ。

 聞き覚えのある爪をかむような音が聞こえてくる。

「気をつけろ。お前のような友達の作れない奴は、『狙い目』だ」


 ……その声は坂東綾にそっくりだった。


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[一言] 初めまして。八木くんの語る坂東さんの行動、確かに年代的な事を思うと異様さが強まりました。 “カチカチ”と、坂東さんの爪を噛む癖から、“あの子”の存在に繋がっていく部分にゾクリと怖さがきまし…
[一言] 「あの子」についての描写が秀逸。坂東綾との話の中で情報を小出しにし、ついには坂東綾になりかわるところの文章バランスがよかったです。 ただ、『お前のノートはヤギが食いました』辺りの話が少し分か…
[一言] 失礼しました。 先の感想に評価を付け忘れました。
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