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後編

その日、その後の僕らは頃合を見計らってケーキを食べ、そして森川は僕に一流とは言えないけれど、多少は名の知れたブランドの財布をプレゼントしてくれた。シンプルに装飾された、本皮の茶色い長財布だった。

「ありがとう。大事に使うよ」

「別にいいよ、財布なんて。大事に使わなきゃならないのは、中身の方だよ」

そうだねと言って僕は笑った。

 ケーキの皿を片付けてしまうと、僕らは二人でテレビを眺めながら、夜遅くまで話をして、暗闇の中で一時を楽しんだ後、眠りについた。


 それからの半年は、特に語るべきことは無かったように思う。普通の人が、普通の恋愛

で経験するようなことばかりだった。クリスマスや、スノーボード、バレンタインといった、恋人同士なら当たり前に行う、ごくごく有り触れた普通のイベントだ。

 もちろん、それらはどれも楽しい思い出となって、僕の中に残っている。僕は元々恋愛には縁遠い人間で、従ってそんな僕にとって、森川は僕の人生で一番最初にできた恋人だった。だから、そうした恋人同士でするようなイベントを、自分自身が恋人の一人として経験するのは、この時が初めてだった。楽しくないはずがなかった。

 でも、そんな普通の恋愛が、ずっと続くことはなかった。

 大学三年の七月に入って直ぐのことだ。

 森川がアメリカに留学に行くと言い出したのだ。留学期間は三年の九月からの九ヶ月間だと彼女は言った。

 僕は何も言えなかった。確かに森川の独断に抗議したり、非難したりすることはできただろうけど、森川が僕にこの話をした時には、彼女はもう既に全部決めてしまっていたのだ。もう何を言っても遅かった。

 第一、あの森川のことだ。今更僕がどうこう言ってみたところで、何がどうなるというわけでもない。それに、仮に僕が彼女の意志を曲げることができたとしても、それは必ず僕らの関係に深い傷を残すことになるはずだ。

 無益な争いはしたくない。当時の僕は、そう考えて彼女のアメリカ行きに口をつぐんだ。

「ゴメンネ。でも、どうしても諦める訳にはいかないの。私、大学だって、この留学のために入ったんだし、英語だって、このために今まで頑張って勉強してきたんだよ。ねぇ、タッつんだって、知ってるでしょ? そのこと」

「知ってるよ」

「タッつん……。ねぇ、そんな顔しないで。悪いとは思ってるの、タッつんには。本当に。今まで黙ってたこともそうだけど、何の相談もなしに決めちゃったことだって、申し訳ないって思ってる。……ホントだよ?」

「うん」

「でもね、ダメなの。諦められないの。これは私の夢なの。そして、これは今しかできないことなの。今を逃したら、きっともう、一生無理。……ねぇ、私の言ってること、分かるでしょ? タッつん……」

「分かる。分かるよ、良く分かる」

「じゃ、そんな顔しないで。笑ってよ。留学おめでとうって言ってよ。ねぇ、タッつん……」

「うん……。でも、その前に、一言だけ言わせて貰っていいかな?」

「うん。……何?」

「寂しいよ」

「タッつん……。ゴメンネ? でも、これでお別れじゃないんだよ? 留学期間中だって、帰ってこようと思えば、帰ってこれるんだしさ。……そんな寂しそうな顔しないで。ね?」

「うん……。でもさ、やっぱり寂しいよ、僕は。君がいなくなると思うと、とても寂しい」

 そして、この一ヶ月と少しの後、森川はアメリカ行きの飛行機に乗り、太平洋を渡っていってしまった。


 森川がいなくなってしまったのが、八月の中旬くらいだったこともあって、僕は夏休みの大半を抜け殻のように、ぼんやりと過ごした。昼間は暑いから、ほどんど家から出ようとせず、外出するのは大体がバイトの時くらいだった。時々は男友達と一緒になって、どこかに出かけたり、酒を飲んだりすることもあるにはあったが、僕の中に生まれた空虚な雰囲気を消し去るほどではなかった。いつもいつも、遠く隔たれた国に行ってしまった森川のことが思われた。

 僕にとって、森川春花という女の子が、いかに大事な存在であるかを、改めて気付かされることになる。大学三年の八月というのは、僕にとって、そんな期間だった。

 一方で、森川はというと、すこぶる上機嫌な毎日を送っているようだった。

 世界中に張り巡らされたネットワークによって、森川の考えや、感情や、感性が、毎日毎日、夜明け頃に(向こうは夜だ)、電子メールに綴られ、送られてきた。そこには、大きな感動も、些細な驚きも、興味深い考察も、幼稚な感想も、まるで語ることは尽きないといったふうに書かれていた。

 例えば、こんなメールがあった。


 今日、私はメキシコから来たという留学生に声を掛けられました。日本人の女性が、世界中で人気があるというのは、本当なのかもしません。

 彼は、私が日本から来たというと、こんなことを言ってくれました。

「僕は日本が大好きだ。君のちょっと変わった発音をする英語も大好きだ。(私から言わせれば、彼の英語もおかしいのですが)何より、僕は君が大好きだ。そして、僕は日本のことをもっと良く知りたい。でも、それ以上に君のことを良く知りたい。僕らは付き合った方がいいと思うんだ。だって、今神様が、僕にそう言うのが聞こえたから。……ねぇ、君には聞こえなかったかい?」

 こうした言葉を情熱的というのか、軽薄というのかは、やはり文化というものの為せる技なのでしょうね。

 東京と、カリフォルニア……。

 随分遠くまで来てしまった気がします。

 あと、一応言っておきますが、このメキシコ人の神託については、丁重に断わっておきましたので、ご安心を。

 最後に。

 日本の男性は、世界中であまり人気がないと聞きます。でも、私にとっては、タッつんが一番の人気者です。

 ……なんてね


八月は、大体こんな感じのメールが届いていたように思う。


 様子が変化したのは九月に入ってからだ。

 八月の内は、あれ程までに事細かに書かれていたメールの内容が、ほとんど寡黙といっていいほどに、言葉少なになってしまった。また、メールの届く頻度もだいぶ少なくなり、毎日と言っていいくらい送られてきていたメールは、週に一度ほどになってしまった。留学先の講義が始まったのが原因らしく、話題の大部分は勉強のことばかりになった。どうやら講義の予習復習に加えて、課題やレポートの作成などが大変で、ずっと図書室に篭りっきりになっているらしい。日に十時間の勉強も、まれじゃないとのことだった。

 当然、森川は勉強の辛さ苦しさを、僕に訴えた。メールにある文章の多くが、愚痴や弱音などの読んで楽しくない内容で占められている時もあった。

 僕の一部分は、確かにそういうメールに辟易していたけれど、でも、彼女の状況はあまりにも過酷で、同情の余地が多く残されているように思えた。誰だって、毎日十時間前後も、閉じられた部屋の中で、学術書を読み漁るような生活を続けていれば、愚痴の一つも言いたくはなる。投げ出さないだけでも、素直に凄い。

 森川の支えになりたい。応援してあげたい。

 僕はそう思い、彼女にできる限りのメールを送った。メールには僕の身の回りに起こった優しい出来事や、過去の偉人達の名言、元気の出そうな歌の歌詞、それから勉強や健康管理をする上で、役に立つ情報などを書いた。

 読んでくれてはいるのだろうけど、森川は僕のメールにあまり反応を返さなかった。本当に多忙で、どうしようもなかったことは僕にも分かる。僕だって、それでいいと思っていたし、むしろ、そうしてくれた方が、僕には都合が良かった。余計な負担にはなりたくなかった。

 ただ今、僕は森川に聞いてみたいと思う。僕からのあのメールは役に立っただろうか。森川を少しでも休め、癒し、励ますことができていただろうか。邪魔になったりしなかっただろうか。

 できるなら、彼女の安らぎになっていてくれたらと、僕は思ってしまう。


 二月までは、そんな調子で過ぎていった。

 途中、十二月に入ってから、クリスマスや正月には帰国しないとの連絡が、森川からあった。秋学期(向こうでは九月~十二月を秋学期(日本でいう前期)、一月から五月までを春学期(後期)と呼ぶらしい)の講義の復習をするとのことだった。

 僕としては、そのことについて不満があったりはしたのだけれど、森川に伝えるのは控えることにした。せっかく彼女がやる気を出しているのだし、それに、ここに至るまでに負った疲れやストレスで、彼女はきっと怒りっぽくなっている。少しの不満でも口に出してしまえば、僕達の関係は気まずくなってしまうかもしれない。僕はそんな事態に陥ってしまうのが嫌だった。組み上がった薪に、わざわざ火を近づける必要はない。


 だけど、二月に入ると、状況は大きく動いた。

 周囲を取り巻く環境が大きく変わった。環境が変わったのは森川の、じゃない。僕の、だ。

 僕の前には大きな、それも、とても大きく、易々とは事が運びそうに無い、大学生活、いや、人生という期間においてさえ、重大と言えるような一大イベントが、立ち塞がっていた。

 答えは簡単だ。就職活動だ。


 就職活動が始まったのは、十月からだったのだけれど、まだその頃には全然本気と言えるものではなかった。ただ意識の片隅で、ああ、就職活動が始まったんだなと、思うぐらいだった。実際に僕がその頃にしていた事と言えば、「就職活動とは何か?」とか、「今後の活動の流れ」とか、「内定を取った四年生のアドバイス」だとか、そういった情報をインターネット上で眺めるくらいのものだった。自分が何になりたいだとか、自分という人間の本質が何かといったような事は、何一つ考えたりしなかった。

 森川のことしか頭になかった。海の向こうで、一人で頑張っている森川の支えになってやりたい。そう考え、そう実行することの方が、余程重要だった。そして森川へのメールを書いて、そのメールの内容が満足いくものなら、その日全てが満たされるのだった。

 こんなことを今更明言する必要もないと思うけど、ただ一言言ってしまえば、僕は途方もない呑気者だった。そして、その呑気さのせいで、僕は並みいるライバル達に、一歩も二歩も出遅れていた。十一月も十二月も一月も、相も変わらずそんな調子だったから、僕と彼らとの差は、気付かないうちに計り知れない程に開いてしまっていた。

 そのことに気付かされたのが、二月の中旬のことだ。


 僕はインターネット上から興味のある会社を幾つか選び、その中の一企業が主催する会社説明会に参加した。

 その説明会には、何故か履歴書の提出が必要で、僕はどうして面接でもないのに、履歴書の提出が必要になるのだろうと、訝しく思ってはいたのだけれど、まぁ、そんな企業もあるかと、深く考えもせずに、サラサラと履歴書に必要事項を記入し、説明会に持っていった。自己PR欄は考える暇がなく、また、面倒だったこともあって、空欄のままだった。

 そう、僕はその説明会に参加することが、その企業の選考の第一段階だということに、気が付かなかったのだ。履歴書の提出を求められたのも、つまりは選考の第一歩だった。企業説明会と銘打っていても、それが選考会も兼ねているのだということに、気が付かない程に、僕は社会というものを舐めきっていた。

 それに気付いたのは、履歴書を提出する時だ。

 当然だが、僕以外の人の自己PR欄は、細かく丁寧な字で、びっしりと埋め尽くされていた。愕然とするしかなかった。僕は、遠目からはほとんど真っ黒く見えるその部分を見て、それから次に、彼らとは正反対の、真っ白な僕の自己PR欄を見た。

 つまりはそういうことで、僕はこの時、自分の愚かしさを痛感するしかなかった。就職活動というものに、本気で取り組まざるを得ないと、理解した瞬間だった。


 それからは時間に追われる日々になった。僕の将来が懸かっている。そう思うと、悠長に構えてなどいられない。森川には申し訳なかったけれど、もう誰かの心配をしている場合ではなかった。

 調べてみれば、僕がやらなければならないことは、ほとんど全部手付かずのままに残されている。にも関わらず、期限は迫り、近づいてくる。もう気が気じゃなかった。とにかく、僕はがむしゃらに就職活動に没頭した。

 睡眠時間を削り、バイトを休み、友達からの息抜きの誘いを断り、森川へのメールの回数を減らした。それでも、時間は全然足りなかった。むしろ、やればやるほど自分の考えに粗が見つかり、それを補正するという課題が積み上がっていった。

 森川だけでなく、僕も忙しさという怪物に、次第次第に追い詰められていった。


 もちろん、就職活動で忙しくなるから、これまでのように君のサポートはできないといったことは、事前に森川にも連絡してあった。でも、森川はそれを素直に聞き入れようとはしなかった。森川は僕からのメールが減ったことが悲しいと、メールに書いて送ってきた。

 毎日毎日勉強で辛いのに、タッつんはそれを分かってくれない。私のことなんか、もう大事じゃなくなっちゃったの? 

 そんなふうに書いて送って寄こしていた。

 もちろん、そんなことはないよと、僕は森川のメールに返信した。

 森川のことは今までと変わらず、大事に思っている。けど、僕は僕自身の将来のことだって、当然大事なんだよ。ここが踏ん張り所なんだ。そちらも苦しいとは思うし、君を今までみたいに助けてあげられないことは、僕だって心苦しいと感じている。でも、今は自分のことで手一杯で、君のサポートのために割ける時間はあまり取れないんだよ。一日の時間は限られている。僕にも、できることと、できないことがあるんだ。どうか、それを分かって欲しい。

 そういった文章を、僕は何度も海の向こうに送ったのだけれど、森川は納得してはくれなかった。そして週に何度も同じような不満を、僕にぶつけてきた。

 それで僕は段々と森川を面倒くさく思うようになり、森川のメールに返事を書くのを馬鹿馬鹿しく思うようになっていった。嫌な女だと思うことさえあった。四月に入る頃には、僕は森川からのメールを一切無視するようになった。

 それからは、毎日のように森川からのメールが僕の元に届いていたが、僕はそれらのメールを一通も読まなかった。メールボックスの未読メールの数だけが、ただ一日置きに増えていくだけだった。

 その数は最終的には二十一にまで増えたというのを、僕は記憶している。


 森川のメールが届かなくなって二、三日たった日の、確か午前零時くらいのことだったと思う。僕の携帯に見知らぬ番号から電話が掛かってきた。

 電話に出てみると、その声から森川だというのが、すぐに分かった。彼女は最初から声を震わせ、電話の向こうで泣いているようだった。

「ねぇ、どうしてメール返してくれないの? 何度も何度も送ってるのに。……私のこと、嫌いになっちゃったの?」

「もしもし? 森川? 今どこにいるの? 日本に帰ってきたの?」

「違う。まだ、アメリカ。……ねぇ、どうしてメール返してくれないの? 私のこと嫌いになっちゃったの?」

「違うよ。ただ単に忙しかっただけだよ。とてつもなく」

「私、ずっと待ってたんだよ? 私、今、とても辛いんだよ?」

「分かってる。メールのことに関しても、済まないと思ってる。だから、謝るよ。ごめん」

「ねぇ、私すごく辛いの、苦しいの。毎日毎日、図書館に篭って、本を読んで、レポート書いて……。私の生活は、もう何ヶ月もそればっかりなの。辛いの」

「辛いのは知ってるよ。でも、その辛さは、森川自身が一番望んでいたことじゃないか」

「そうなんだけど……。でもね、辛いの。私、とても辛いの。とても耐えられそうにないの」

「だから、その辛さ苦しさは、君が望んでいたことじゃないかと言ってるんだよ。大体、そんなに辛いんなら、留学なんて止めて、日本に帰ってくればいい」

「無理だよ。帰れないよ。今帰ったら、皆の笑い者だよ」

「じゃ勉強を頑張ったらいい」

「でも嫌なの。勉強は辛いの。もう嫌なの。ねぇ、どうして分かってくれないの? どうしてそんなに冷たいの? ねぇ、タッつん……」

「冷たくなんてしてないよ」

「私のこと、嫌いになっちゃったの? 他に好きな子でもできちゃったの?」

「だから、違うってば」

「ねぇ、タッつん。タッつんに会いたいよ。会いに来てよ。ねぇ、タッつん」

「無理だよ。行けるわけない」

「でも私、どうしようもなく辛いの。タッつんに会いたいの。ねぇ、会いに来てよ。お願い。そうすれば、私、もうちょっと頑張れるから」

「だから、無理なんだって。明後日だって面接があるのに、そんなの絶対無理だよ」

「でもタッつん、約束したじゃない、去年の誕生日に。私がどうしようもなく辛くて苦しい時には、絶対に助けに来てくれるって。『最後の一葉』の少女みたいになったら、助けに来てくれるって、そう言ったじゃない」

「それは……。確かに、あの時はそう言ったけど……」

「じゃ会いに来てよ。ねぇ、タッつん。お願い、お願いよ」

「だから、無理なんだって」

「どうして? どうしてなの? 私のことがもう好きじゃないから?」

 だから、と言い掛けて、僕は言葉を飲み込んだ。そして溜息をつき、無言で通話終了ボタンを押した。

 すぐに先程と同じ番号から再コールがあったが、僕はその電話に出ようとは思わなかった。そんな気には到底なれなかった。

 それから二十分くらい、携帯電話は静穏と振動を繰り返していた。僕は携帯の電源を切ることも無く、携帯のなるままにさせておいた。

 何回目かの身震いの後、電話は突然その振動を停止させた。部屋の中に深夜の静けさが戻った。音量の抑えられたBGMが微かに聞こえ、その他には何の音もしない。外も、中も、僕自身でさえも、しんと静まり返っていた。

 間もなく僕は部屋の電気を消し、眠りに就いた。

 その夜、森川から電話が掛かってくることは無かった。それからも一度も無かった。


 五月の末に最初の内定が出るまで、僕は森川のことを考えなかった。もちろん、気にはなっていたのだけど、意識的に気に掛けないようにしていたのだった。

 森川との約束を破ってしまったという自覚は、多少なりとも僕の中にあった。ただ一度そのことを真剣に考え出してしまえば、僕はきっと罪悪感に襲われ、今この場で立ち止まってしまうだろうことは予想できていた。だから、それまでと変わらず、一気呵成に就職活動を進めていた。

 六月になり、状況が落ち着いてくると、森川のことが思い出された。森川から電話が掛かってきたあの日から、既に二ヶ月。僕はメールボックスの確認さえしていない。

 森川はどうなったんだろうか。試験は無事パスしたのだろうか。留学は満了したのだろうか。

 今更だとは思いつつも、そんなことが自然と胸に浮かぶのだった。

 それで僕は久しぶりにメールボックスを確認してみた。未読メールの数は増えてはいたが、あれから送られてきた分は、全て迷惑メールばかりで、森川からのメールは一通も届いてはいなかった。

 もう終わってしまったのかもしれない。

 そう思わざるを得なかった。

 僕はその確認の意味も含めて、森川にメールしてみた。結果は数秒の後に、あっけなく出た。

「送信先のメールアドレスは存在しません」

 ああ、そうなのかと僕は思った。それでも仕方ないんだよな、しょうがないんだよなと、ただそんなふうに、僕は思っただけだった。

 それから更に一週間ほど経った後で、僕は森川に電話してみた。森川から聞かされていた話では、もう既に帰国しているはずだった。

 森川は出なかった。通話口からは、「この番号は現在使われておりません」という機械音声のメッセージが聞こえてくるばかりだった。

 僕は電話を切り、電話帳から森川のデータを削除しようとした。でも、そうはしなかった。「本当に削除しますか?」のメッセージのところで、少し逡巡し、結局「いいえ」を選択してしまった。なぜためらわれたのか、それは僕にも分からない。ただ彼女の使っていた電話番号やアドレスは、今も僕の携帯電話の中に残っている。今となっては、もう残骸でしかないというのに。


 この後、僕は残りの大学生活を何事もなくダラダラと過ごした。

 大学四年の秋が来るまでは、森川のことが幾度も思い出され、そしてその度に、僕は森川のことで、少なからず苦しむこととなった。

 僕は森川を裏切った。あの時、あの誕生日の日、あれ程までに固い決意の内に為された約束を、僕は守らなかった。それも、彼女が最も苦しい状況にいて、僕の助力を心から欲している、まさにその時に、僕は彼女の助けとなるのを拒んだのだ。

 生活に平穏が戻り、肉体から疲れが抜けていくと共に、自分がやってしまったことの意味を、僕は実感していくことになった。森川との出会いや、彼女の表情、しぐさ、あの日の約束、その時の僕の情熱など、色々なことが僕の中で浮かび上がっては消えていった。そして僕はそれら全てを裏切ってしまったのだ。僕が森川に対してやってしまったことの意味というのは、つまりそういう事だった。

 罪の意識、というのが適切な言葉なんだろうけど、僕はこの言葉を背負う者の苦しみなど、今この場で語りたくはない。誰に訴えても、誰に願っても、もう時は戻りはしない。そういうことは良く分かっている。

 だけど、秋が来て残暑が引いていく頃になると、僕の中の痛みも一段落してきて、そしてそれによって、僕は森川との事を、前より冷静に見ることができるようになった。主に、森川との最後の会話や、僕の裏切りについてのことだ。

 大学四年の春、僕は就職活動で身動きが取れない。一方、森川は自ら望んだ留学のせいで、自らの勉強に苦しむことになった。この状況で、森川は僕に何もかもをほっぽり出して、自分に会いに来いと言う。僕はそれを拒否し、その結果、僕らの関係は終わりを迎えることとなった。

 確かにこれだけ聞けば、一方的なのは森川で、横暴なのは森川で、だから、悪いのは森川だ。

 でも、と僕は思う。

 彼女が僕の助けを必要としていたのは間違いないだろうけど、でも、彼女は本当に僕に会いたいと思っていたのだろうか? 

 遠国にいる自分の所まで会いに来てほしいと、彼女はあの時、本当に心の底から願っていたのだろうか? 

 そう考えた時、僕はそうではないんじゃないかと考える。

 彼女はただ、僕の好意に依存していただけなんじゃないか。そして、僕の好意が失われるのを不安に思い、恐れ、怯えていただけなんじゃないか。僕にはそう思えてならない。

 事実、彼女は最後の会話の中で、何度もこう言っていた。

「私のこと、嫌いになっちゃったの?」

 だからだろう、森川が僕に会いに来て欲しいだなんて、無茶な要求をしてきたのは。

 彼女は愛情の証明が欲しかった。彼女の要求が聞き入れられることが、詰まる所、僕の彼女に対する愛情の証明になる。だからこそ、僕に会いに来て欲しいだなんて言ったんだと思う。

「私のことを嫌いにならないで」

 彼女はあの夜、単にそう訴えていただけの、ただの女の子だった。純粋に、たったそれだけのことだった。簡単なことだったのだ。

 そう考えた時、僕があの夜取った行動は、やはり間違っていたんだと思う。彼女に通じる電話口に向かって、僕が言ってあげる言葉は、だから、ただ一つだったはずだ。

「心配しないで。僕は君以外の誰も好きになったりはしないから。僕は森川のことが好きだよ。今でも。そしてこれからも」

 でも、こうした述懐は、僕にはあまり意味を為さないように思う。そう思ってみても虚しいだけなのだから。何も救いはしないのだから。


 あれから僕のプライベートはあまり変わっていない。大学は簡単に卒業することができたし、就職も無事果たせた。就職してからの生活は怒涛の如く過ぎて行って、気が付けばもう社会人三年目で、その三年目も、もうすぐ終わろうとしている。毎日が会社と自宅の往復の日々だ。

 忙しさというものはいい。その中に自分を放り込むことで、思い出したくないことや、考える必要のないことを、自分の思考から排除できるのだから。そしていつの間にか、過去の様々な出来事を思い出さなくなるのだから。

 暮らしが平穏で満たされ、静かでゆっくりとしたリズムが、僕を支配していく。緩慢な毎日が続く。

 今日が僕の二十五歳の誕生日で、来年の今日が二十六歳の誕生日で、再来年の今日が二十七の誕生日だ。

 去年も一昨年も何もなかった。きっとこの後の二年も何事もなく過ぎていくのだろうと思う。大きな喜びもなく、また、大きな悲しみもない。きっと、そんな毎日だ。

 その後のことは分からない。でもやっぱり今と同じで、僕は相も変わらず、一人なのかもしれない。


 駅の改札を抜け、地下のホームへと下る。丁度、電車がホームにやって来る。ゆるやかに速度を落とし、電車のドアが乗降口にピッタリ合うように止まる。

 ドアが目の前で開く。

「電車に乗る時は左足から踏み出すこと」

そんな声が聞こえたような気がし、僕は左足を上げる。でもその姿勢のままで止まり、少しだけ自分を笑った後、僕は足を下ろす。そして、いつものように右足から電車に乗ることにする。

 これでいいんだと、僕は思う。

 もう過ぎ去ってしまったことなのだから。もう森川は僕の側にはいないのだから。

 僕が乗り込むと同時に、電車のドアが閉まり始める。電車はゆっくり走り出し、次第に速度を速めながら、暗闇の中に吸い込まれていく。

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