前編
十二月九日。
この日、僕は二十五回目の誕生日を向かえ、二十五歳になった。誕生日だというのに、特に人と会う予定もなく、祝いの連絡をくれる友人すらいない。友達がいないというのではないけれど、僕の誕生日なんかをわざわざ覚えていて、律儀に連絡を寄こしてくれるような奴は一人もいない。まぁ、仲が良いと言えるのは男友達ばかりだから、仮に連絡をくれたのだとしても、あまり嬉しくは無いのだけれど。
女友達については、どの子も大学時代には付き合いがあったというだけで、今も親しくしている子なんかは、やっぱりいない。現在はどの子とも通り一遍の付き合いをしている。
去年もそうだったが、今年も十二月九日は平日で、だから昼間は仕事だった。夜になり、仕事が終わっても僕は一人で、特にしたいこともない。いつもと同じように、電車に乗って家に帰り、酒を飲んで明日を迎えるだけだ。前々からそうなるだろうと思っていたし、それでいいと思っていた。社会人になってしまえば、どんな意味を持つ日であれ、特別を望むことは自然と無くなってしまうものだ。
でも、今年の誕生日は少し違った。
懐かしい名前に、僕は再会した。ずっとずっと、忘れていた人の名だった。
もう何年になるのだろうか。
それは仕事からの帰り道、駅の改札前でのことだった。
「モリカワ ハルカ」という名前が駅の忘れ物掲示板に書き出されているのを、僕は見た。その読み方を名前に持つ女の子は、全国に何人もいるかもしれない。いや、もしかしたら、男の人なのかもしれない。
でも、僕の知る「モリカワ ハルカ」は、その時、僕の脳裏をよぎって行った「モリカワ ハルカ」は、この世にたった一人しかいない。
森川春花。
僕がまだ学生だった頃に、二年ほど付き合い、そして別れた女の子だ。
僕と森川は焼肉店のリニューアルオープンスタッフの一員として出会った。大学二年の春のことだ。
恋に落ちるなんて文句を僕は使わないけれど、気が付いてみれば好きになっていたという言葉なら、使用することができると思う。自然に、当たり前のように、僕は森川を好きになった。
森川の方でも同じようなものだったらしい。僕らが付き合うことになって間もない頃、森川がそう言うのを、僕は聞いた。
ただ何かしらの運命的な力が働いたんじゃないかと言われれば、僕はそれを否定する。振り返ってみれば、僕らは恋愛が生まれ易い環境にいただけだと思うからだ。
誰もが経験のない新装開店のオープニングスタッフで、不慣れな仕事に右往左往しながら、混雑時の試練とも言うべき人の荒波を、乗り越えようと共に協力し合う。そんな環境の中に若者を放り込めば、当然の帰結として連帯感は生まれるし、それは力の作用次第で、時に恋愛にだってなりうる。
だから、僕らの恋の始まりも、ごくありふれたことと取って良い様に思う。飲食店でアルバイトをしたことのある人なら、こうした僕の話には、素直に頷いてくれるんじゃないかと思う。
僕と森川が付き合うことになって、実に様々な約束を交わした。大げさでなく、それは本当に様々なものだった。純粋に条件を守って欲しいという意味での約束事はもちろん、冗談で取り交わしたものまで含めれば、その数はゆうに色彩の数にも上がってしまうんじゃないかと思う。
まぁ、ほとんどの約束事は話題に困窮したり、会話に退屈した時に、心地よいコミュニケーションをとる目的で為されたものではあったのだけれど。
「講義が終わったら必ず携帯を確認すること」
「メールに絵文字は一つは使うこと」
「パンツは右足から履く事」
「電車に乗る時は左足から踏み出すこと」
「気が向いたときでいいから、時には頭を撫でてくれること」
他にもあったと思うのだが、今も覚えている約束はこのくらいのもので、あとは全て忘れてしまった。(ちなみに、「パンツ~」以外は習慣としていなかったから、僕は随分と慣れるのに苦労したことを覚えている)
ただ、今はどれも守っていない。
でも、僕が森川のことを語り、森川との約束のことを語る時に、どうしても語っておかなければならない約束が一つだけある。そしてそれは、絶対に守らなければならず、しかし、それでいて守ることのできなかった約束事でもあるのだ。
時が戻せたら、と、思うことが、僕にもある。
情けないことだとは、分かっているのだけれど。
今から五年前のことだ。僕はその日、二十歳になった。
「嬉しいよ。これで大手を振って酒が飲めるんだから」
「私はちょっと困るかな。酔っ払って股間に手を入れられることが増えるの、嫌だもん」
「コラコラ、嘘を言うんじゃないよ」
「謝罪と賠償は要求しちゃダメなの?」
「ダメさ」
こんな会話をしていたこともあったと思う。
その日一日のことは大体覚えている。僕らは午前中に会って少し散歩をし、昼食を摂った後で映画を見に行った。誕生日にわざわざ映画を見に行くなんて、と言われる方もいるだろうけど、それにはそれなりの理由がある。
森川は前々から誕生日に何かしたいことがあるかと、聞いてくることが何度かあった。僕はその度に、別に無いという返事を返していた。僕としては二十歳の誕生日という日を森川と一緒に過ごすということが重要で、何を、どこでするかには、あまり興味が持てなかった。よく言われる通り、何をするかではなく、誰とするかが重要だ、という言葉そのままだ。それでもあなたの誕生日なんだから、あなたが決めてよと、しつこく迫る森川に、僕は仕方なく見たい映画があるんだと言って、逃げることにしていた。
ただ見たい映画云々については、完全に嘘という訳ではじゃなく、本当に見たいと思っていた作品が、都合の良いことに、僕にはあった。極限状態の人間の心理に肉薄するという謳い文句で広告された、シリアス系の暗い内容の作品だった。
僕は元々内向的で、人間心理の様相や、内的真実の告白といったものに、いたく興味を持っていて、そうしたシリアスな作品は、映画に限らず、文学作品でも絵画でも、好んで鑑賞することを常としていた。
もちろん、そうした映画は一人で見に行けよという意見があるのは重々承知だけど、僕の誕生日なのだから、その日くらいは我侭を通しても良いのではと思うことで、先のような常識的意見は封殺していた。森川の追及も、いい加減うんざりしていたという事情も、あるにはあったのだけれど。
まぁ、森川は心の底から僕を祝ってやろうと色々考えてくれているのに、僕はと言えば、彼女の追求が煩わしく、それから解放されるためという理由でデートプランを決めてしまっている。そのことは、確かに多少の後ろめたさを僕に感じさせるけど、でも、だからといって、気に病む程でもない。大前提として、当日は森川が側にいるのだ。さっき言ったように、僕としてはその前提だけで概ね満足なのだ。
でも結局のところ、僕達はデートの当日に、その映画を見ることは無かった。映画自体を見なかったのではなく、その映画ではない別の映画を見たということだ。理由は簡単だ。森川がその映画の鑑賞を嫌がったのだ。
映画館に来た途端に、僕らは論戦を始めることになる。
「えー! これぇー! ……なんか、つまんなそう」
「でも、僕は興味あるんだよ」
「えー! ……私、こっちの方がいい。前々から見たかったんだ、コレ」
「ちょっと待ってくれ。なんでわざわざホラーなんだよ。嫌だよ、僕は。怖いの苦手だし」
「でもタッつん(僕のこと)のよりは、絶対面白いと思うよ? ……ねね、これにしない?」
「でも、僕はこっちが見たいんだけどな」
「えー、そんなの、後でDVD借りてきて見ればいいじゃん」
「そっちこそDVD借りて見ればいいだろ」
「タッつん……。違うんだよ。もう、分かってないなぁ。こういうホラー映画っていうのはね、スクリーンの大画面で見ることに意味があるんだよ」
「だから、それが嫌だって言ってるんだよ。僕が昔、映画館で『リング』見て失神しかけたってことは、森川だって知ってるだろう?」
「知ってる。小心者だよね」
「小心者で結構。でも、ホラーだけは止めてくれ。せめてこっちのハリウッドものにしてくれ。こっちなら、まだ妥協できる」
「えー、でも……。やっぱりこっち見よ? ね? 私と見れば、トラウマ克服できるかもしれないし」
「嫌だよ。第一、今日は僕の誕生日で、僕の見たい映画を見るって目的で、来たんじゃないの?」
「それはそうなんだけど……。でも、諦めて。誰だって黄金を前にすれば、手を伸ばさずにはいられなくなるんだよ。……ゴメンね?」
何によらず、森川には理屈を超えて我を通してしまう部分があった。本当に時々ではあるけれど、自分の思った通りに事が運ばないと、すごく機嫌を損ねて、次の日まで口を利いてくれなくなるような、そんな一面を森川は確かに持っていた。
それでも、僕の見た限りでは、森川は周囲の人間達と円満な関係を築けていたんじゃないかと思っている。だからきっと、こうした強情を通す一面は、誰にでも見境なしに見せたりするものではなく、ごく限られた親しい人間にしか見せなかったんじゃないかと僕は思う。例を挙げれば、彼女の両親、兄弟、そして僕といったような人間になる。
もし、この見解が正しいのならば、僕はとても嬉しく思う。森川が僕を自分のとてもパーソナルな部分に触れていいと思ってくれた、その証明になるからだ。そしてそれは、彼女から僕への信頼の証にもなる。
ただ当時の僕には、森川の信頼なんてものを考える余裕なんて無かった。彼女の僕に対する好意にばかり注意がいっていて(それは確かにあったはずだ)、彼女が僕を信頼している、それもかなり深い部分で信頼しているなんて可能性については、考えてみたこともなかった。
恋愛に夢中だった。そう言葉にすれば許されるとは、さすがに思っていない。
それでも、と僕は思ってしまう。できるなら、好意だけであって欲しいと。
森川との顛末を知る今の僕にとっては、どうしたって、そう思わずにはいられない。
映画を見終わった後、僕らはコーヒーを飲みながら少し休憩し、帰りにスーパーで食材を買って森川の家に戻った。森川の部屋は1LDKで、元々は父親が単身赴任で住むために用意されていたものだったのだが、森川の父親は、その部屋を森川に自由に使わせて、本人は実家に戻るという生活をしていた。仕事の都合で時々はその部屋のソファーベッドに寝泊りすることがあり、また、少しばかりの着替えや仕事の道具などもあるにはあったが、基本的には森川専用の部屋だと言って良かった。そして、これが特に重要なことだが、その日に彼女の父親がこの部屋に来ないことも、既に確認済みだった。
森川の部屋に戻った僕らは、夕食を作るための準備を始めた。メニューはクリームシチュー、フランスパン、サラダ、そして誕生日祝いのホールケーキだった。僕がシチュー、パン、サラダといった主に食事の支度をし、森川がケーキの作成を受け持った。
シチューはかねてからの森川のリクエストだった。彼女は僕のシチューのファンで、前々から僕のシチューを食べたいとせがんでいた。僕はその度に面倒だから嫌だと断わっていたのだけど、今回はまぁ、それなりに特別な日ということもあって、シチューを作ることを渋々認めていた。そのお礼に、森川がケーキを焼くとの約束だった。
そんな訳で、僕らは一人ならそれなりに広いけれど、二人で作業するにはちょっと狭いキッチンの中で、窮屈な思いをしながら和気藹々と夕食を作った。
二時間程、調理と格闘し、僕も森川も無事料理を作り終えることができた。確か、午後の五時三十分過ぎだったと記憶している。その時刻を指す時計のワンショットが、僕にはある。夕陽はすっかり沈みきって、辺りは暗くなり、夜の雰囲気を醸し出していた。一昔前のポップミュージックが、BGMとして小さく部屋に流れていた。森川がその曲に合わせて気分良さそうにハミングしていた。
料理が出来上がると、昼食が早めだったこともあり、森川のお腹がすいたと訴え出した。
僕らは夕食を摂ることにした。
「おいしい! やっぱり、タッつんのシチューは最高!」
「そんなに慌てて食べちゃダメだよ。意地汚いよ」
僕はこの時食べたシチューの味を忘れてしまったけれど、向かいに座っている森川の言葉や表情だけは、今もちゃんと覚えている。きっと、完全に忘れてしまうには、もう少し猶予がある。
夕食が済んでしまえば、後は特にすることもない。森川は一人で食器を片付け、僕は流し台にいる森川の後ろ姿を眺めながら、一人静かにビールを飲んでいた。(僕の手伝おうかという申し出を彼女は断わった)
二人とも口を利かず、森川の食器を洗うカチャカチャという音が部屋に響いた。パソコンから流れるBGMが、何度目かのループを経て、どこかで聞いたことのある女性ボーカリストのバラードを流していた。他に音は無く、テレビもラジオも点けてはいなかった。
僕がBGMに耳を傾けていると、森川が後ろを向いたまま話しかけてきた。
「約束して欲しいことがあるんだけど?」
「うん?」
「約束よ、約束」
「ああ、うん。いつものやつね」
「そう。……でね、『最後の一葉』って、あるじゃない?」
「『最後のイチヨウ』?」
「うん。ほら、こんな物語のやつ。昔々ある所に病気で入院している女の子がいて、で、その子は自分の病気に絶望してしまって、こんなこと言うの。『病室のあの窓から見える、壁を這うように伸びる木。あの木の葉っぱが全部散ってしまった時、その時にはきっと、私も死んでしまうんだと思う』」
「ふむふむ。それで?」
「で、季節は冬でね、木の葉はどんどん散っていくんだけど、全部散ったりしないの。一枚だけ残るの。何度ものすごい冬の嵐が襲ってきても、必ず最後の一枚だけは、木の枝にくっついたまま残っているの。それでね、その葉っぱの散るまいとする強い意志に女の子は勇気付けられて、病気が良くなる」
「へぇ。で、その葉っぱっていうのは何?」
「うん、それがオチになるわけ。で、その葉っぱっていうのが、実は女の子の知り合いのお爺さんが、嵐の中、命がけで描いた葉っぱでね、でもそのお爺さんは雨に濡れたせいで肺炎になって死んじゃうの。そういう話。聞いたこと無い?」
「あるような、ないような。でも、あると思うよ。小学生くらいの時かな、テレビで見た記憶がある」
「ホント?」
「うん」
「そっか。……でね、約束っていうのはね、私がピンチになった時、それも、どうしようもないピンチに陥ってしまった時、その時には私を助けに来てね。『最後の一葉』に出てくるお爺さんみたいに、私を助けてね。命がけで助けに来てね」
「それが約束?」
「そう」
「……うん、いいよ。その時には、僕が必ず森川を助けてみせるよ」
「ホント? 肺炎で死んじゃうことになっても?」
「大丈夫。僕はホラー映画は全然ダメだけど、嵐の夜には結構強いんだ。肺炎なんかには、負けたりしない」
「じゃあ、もし私がホラー映画でピンチになったら、助けてくれないってこと?」
「……そうなるね。でも森川はホラー得意じゃないか。僕の助けは必要ないと思うよ。まぁ、それはともかく、僕は君を助けるよ。少なくとも、助けとなるように努力はする。……それでいいかな?」
「うん。……約束よ?」
「うん」
僕はもちろん、この時本気だった。内容が内容だけに、真剣に言うのは照れくさく、冗談めかして言ってはいたのだけど、でもその実、僕の心理はと言えば、真剣そのものだった。
人間の感情は移ろう。だから当然、僕の森川に対する好意が移ろっていくことだって、避けようも無い。どんなに真剣な思いも、どんなに切実な願いも、どんなに完全な決意も、時間というものは必ずその形を溶かし、薄め、ほころばせていく。
悲しいことだとは思う。だけど、だからと言って、その法則を覆すことなど、人間にはやはり不可能なのだ。なぜなら、人間が生きていくということは、そもそもそういうことなのだから。
そしてそれは、僕も十分に理解しているつもりだ。五年という時間が経った今この時だけでなく、僕と森川が同じ部屋で一緒に過ごした、五年前のあの時においてさえも。
でも……。でも、だ。
でも、それでも、僕は彼女の期待に応えようと思った。出来る限りというのではなく、絶対に、という条件を付けての元でだ。この約束は必ず果たされるべきものの一つとして、僕は森川の願いに対し、肯定を返したのだ。強い強い約束だった。そう呼ばれて良いものだと、僕は思っている。
「約束だ。誓うよ。君がピンチになった時、僕は君を必ず助けに行く」
「うん。ありがとう。……お酒飲んでるからって、忘れたりしないでね?」
「大丈夫だよ。ちゃんと記憶に刻み込んでおくから」
「うん。期待してるね!」
誰でも、幼い頃に覚えたものは、どれだけ時間が経ってしまっても、何の苦労もなく覚えていることができる。反対に、大人になってから覚えたものについては、ほんの少し距離を置いていた期間があるだけで、簡単に忘却してしまう。どうも、人間の記憶というのは、そういうものであるらしい。
でも、大人になってから覚えたものでも、絶対に、決して忘れ得ない種類の記憶、ないしは思い出があるのだと、僕は思う。実際に、僕自身がそうなのだから。
もうお分かりいただけているものと思う。
そう、僕は森川春花を見捨てたのだ。




