夢に潜む悪魔――"いじめ"の傷は、一生付きまとう。
いじめの描写があります。苦手な方はご注意ください。
少女は泣いていた。
教室の床にうずくまり、肩を震わせている。
クラスメイトたちは、見世物に群がるように、少女をぐるりと取り囲んでいた。
冷たい笑みと罵声が降り注ぎ、少女は顔を上げて、声を絞り出した。
「やめて……もうやめて!」
それが自分の声だと分かって、息を呑む。
背中がびっしょりと汗で濡れていた。
「咲茉、大丈夫?」
隣で眠っていた怜司が、体を起こして声をかけてくる。
寝言を叫んでしまった恥ずかしさを抑え、汗ばむ首元に触れて笑顔を作った。
「嫌な夢を見ちゃって……ごめんね、起こしちゃった」
「気にしないで。目覚ましの5分前だし」
カーテンの隙間から漏れる光を見て安堵する。彼の睡眠を邪魔しなくてよかった。
脳裏につきまとう光景を振り払うように、ぎゅっと目をつむり、ベッドから出た。
コーヒーを淹れ、立ちのぼる香りだけを味わう。
妊娠がわかってから、お腹の赤ちゃんに悪影響のあるカフェインは避けている。
代わりにリラックス効果のあるハーブティーばかり飲んでいるのに、このところ夜は眠れないし、目覚めもすっきりしない。
オムレツに火が通るのを待つ間、大開口の窓へと視線を移す。
霞んだ空の下に高層ビル群が林立し、青く輝く人工の湖が都市を鮮やかに彩っている。
マンションの60階から眺める景色は壮観で、住み慣れた今でも思わずため息が出てしまう。
リッチな暮らしができるのは、優秀なパイロットである怜司のおかげだ。
私たちは、この地――ドバイの航空会社で出会った。
当時の私はキャビンアテンダントで、3つ年上の怜司とは同じ日本人ということもあり、距離は自然と縮まっていった。
幼少期に海外に渡った彼は、異なる環境で育ったからか、立ち居振る舞いにどこか落ち着きがあった。
長身ですらりとした体型、俳優のように整った顔、低く穏やかな声。私は彼のすべてに魅了されていった。
幸運なことに向こうも同じ気持ちだったようで、彼から交際を申し込んでくれた。
じっくりと仲を深めていって、付き合って2年が経つ頃に結婚。
幸せな日々は続き、妊娠がわかったのは4ヶ月前のことだった。
体調の変化で長時間のフライトを続けるのが難しくなったため、オフィスへの異動を願い出てみたものの、ポジションに空きがなかった。
今後の働き方に迷っていた時、怜司からの
「俺が支えるから、仕事辞めていいよ」
の一言で、私は心置きなく専業主婦になったのだった。
「カフェにでも行って、気分転換したらどう?」
怜司がネクタイを締めながら、柔らかく笑った。
思えば最近、買い物以外で外に出ていなかった気がする。
「じゃあ、行ってみようかな。今日はバーレーンだよね?」
カレンダーを見て、怜司のフライトスケジュールを確認する。
「うん。帰りも早いし、俺が何か買ってくるから、咲茉はできるだけリラックスして過ごしてて。家のことは何もしなくていいからね」
気遣いに感激して怜司の胸に飛び込むと、頭を撫でてくれた。
怜司はいつだって私のことを気にかけてくれる。
こんなに素敵な人は、世界中のどこを探したっていないだろう。
怜司を見送った後、タクシーで海岸沿いのモールにやって来た。
12月の涼しい風が心地良い。桟橋にはモーターボートや水上バイクが並んで停泊していて、タイル張りの歩道がリゾート気分を感じさせてくれる。
怜司の言う通り、気分転換に来てよかった。
カフェの入り口に近づくと、私の心臓はドクンと跳ね上がった。
「みゆき……?」
中から出てきた女性客の顔を知っているような気がして、足が止まった。
その顔をよく確かめる。
……人違いだ。
胸をなでおろし、首を振る。
『私ね、日本がすごく好きなの。だから、観光地で働いて、海外から来るお客さんを案内してあげたいな』
彼女の言葉が蘇った。
あの子が、こんな場所にいるわけがないのに。
テラス席に案内され、デカフェの紅茶を飲む。
海は凪いでいるのに、私の心はざわめいたままだった。
とうに忘れたはずの地獄の日々を、今になって思い出してしまうのは、繰り返し見るあの悪夢のせいに違いなかった。
中学1年生の時、私はクラスでいじめに遭っていた。
私立の女子中学校で、ひとクラスに16人。
少人数ゆえの結束が、歪んだ形で私に向けられていた。
思い当たる理由は一つもないのに、入学して早々にクラスの中心人物、杏に嫌われてしまい、あっという間に孤立した。
いわれのない噂を流され、先生からは「みんなと仲良くしないとだめだぞ」と注意まで受けていた。
昼休みや放課後には、彼女たちに囲まれ、逃げ場を失っていた。
両親は海外出張ばかりで忙しく、誰にも相談できずに日々が過ぎていった。
ところが、2学期の途中に編入生がやってきたことで、クラスに変化が起きた。
彼女の名前は、みゆき。
両親の仕事の都合で長年海外にいた帰国子女。
まるで童話の中から現れたお姫様みたいに、可愛くて愛嬌のある子だった。
クラスの誰もが目を奪われ、いじめに夢中だった彼女たちは、私なんてそっちのけでみゆきを慕い始めた。
みゆきは誰に対しても明るく親切で、私にもたくさん話しかけてくれた。
お互いの両親が海外に関わる仕事をしていることと、二人とも英語が好きなことがきっかけで、私たちはすぐに仲良くなれた。
みゆきにはなんだって話せた。
将来の夢も、出張ばかりで両親が揃わない孤独も。
周りと距離があっても、気にならなかった。
みゆきがそばにいてくれるなら――。
「みゆき……」
小さな呟きが、風に乗って消えていった。
散歩がてら海岸沿いを歩いていると、募金箱とパンフレットを手に通行人に声をかけている団体を見かけた。
生活に困っている人々や難民への支援を目的としているようだった。
メンバーの一人にコーヒー2杯分程度の紙幣を手渡すと、全員がにこやかに感謝の言葉を重ねてくれた。
慈善団体を見かけるたびに、私はこうして募金をしている。
誰かの力になれることに小さな喜びを感じていた。
「咲茉は優しいね。人に手を差し伸べられるところ、本当に尊敬するよ」
怜司が用意してくれたディナーを楽しんだあと、バルコニーで温かいミントティーを飲み、二人で寄り添った。
私のお腹に手を当て、まだ始まっていない胎動を待つ怜司の姿が愛おしい。
心が満たされ、幸せな気持ちで眠りにつく。
目を閉じた先にはいつもと同じ、あの日が待っていた。
一人の少女を取り囲み、あざ笑う彼女たち。
ゴミを投げつけ、時に背中を軽く蹴る。
リーダー格が隣にいる子に耳打ちすると、その子は泣いている少女に向かって叫んだ。
『Just die!』
「はあっ……!」
目を覚ますと、心臓が早鐘を打っていた。
時計の針は午前二時を差している。
隣で眠る怜司を起こさないよう、音を立てずに部屋を出た。
キッチンで水を一口飲んでから、ベッドにもぐり目を閉じる。
――死ね、だなんて。どうしてあんなに酷いことを?
おねがい。もう私の夢に出てこないで。ねえ、みゆき……。
願いも虚しく、私は再びあの教室へ引き戻された――。
英語の暴言が教室に響き渡り、彼女たちの笑い声が続く。
リーダー格が、今の言葉を発した彼女の肩をぽんと叩いた。
「あはは、最高! もっと言ってやってよ、咲茉!」
杏に肩を叩かれたのは、私だった。
顔を上げた少女――みゆきは、涙でいっぱいの目で、私を見つめていた。
ついこの間まで、親友だった私を。
『みゆきは将来、また海外に戻りたい?』
『ううん、私ね、日本がすごく好きなの。だから、観光地で働いて、海外から来るお客さんを案内してあげたいな』
『それいいね。みゆきがいてくれたら、外国人も安心するだろうな』
『えへへ、ありがとう。咲茉ちゃんの夢は?』
『私は……CAになりたい。お父さんとお母さんみたいに、海外を飛び回りたいなって』
『わあ、すごい。咲茉ちゃん美人だし、絶対にかっこいいCAになれるよ!』
『みゆきに言われると、自信が出てきちゃうな。でも、もっと英語を勉強しなくちゃね』
『じゃあ、一緒に頑張ろうね! 二人の夢が叶うように!』
みゆきがそばにいるようになってから、私の毎日に光が差した。
ペアを組む時は迷わず私を選んでくれた。
小さく折りたたんだ手紙を交換したり、トイレの鏡の前でヘアアレンジに挑戦したり、くだらない話で笑い合った。
放課後はお互いの家に行って、みゆきから英語の発音を教わった。
一緒にいる時間があまりに楽しくて、見えていなかった。
杏たちが、私ばかりを構うみゆきに、不満を募らせていたことを。
「ねえ、ちょっといい?」
ある日の休み時間、みゆきが職員室に行っている間に、杏が私の席にやってきた。
「あのね、英語でわからないところがあって。教えてくれないかな?」
謙虚な態度に驚きつつも、普通に話しかけてくれたことが嬉しくて、私はどきどきしたまま話をした。
杏は、
「咲茉の説明って先生よりわかりやすいよ。助かったあ」
と眉をハの字にして両手を合わせると、職員室から戻ってきたみゆきを見るなり、
「ありがとね!」と早口で席に戻っていった。
それからというもの、杏はみゆきがいない時を見計らうように、私に近寄ってきた。
11月の初め、みゆきが風邪で休んだ日に、杏はぽつりと言った。
「前から思ってたんだけど、みゆきってほんと嫌な奴だよね」
突然の悪口にきょとんとしていると、わざとらしくため息をつかれた。
「だって、ずっと咲茉にべったりじゃん。本当は私たちだって咲茉と一緒にいたいのに、独り占めして。感じ悪いよ、あいつ」
「えっと……」
「ねえ、わからない? あいつに利用されてるんだよ?
咲茉より自分の方が可愛いって思ってて、だから咲茉を連れて歩いてるの。
自分が周りから可愛く見えるようにね」
みゆきはそんな子じゃないよ……。
そう否定したくても、言葉が出なかった。
今ここで杏の言うことに逆らって、機嫌を損ねてしまうのが怖かった。
せっかく築いた関係を壊したくなかった。
だから私は、同調を選んだ。
「……みゆきって、そういうところあるよね」
「でしょ! ねえ、これからは私たちと一緒にいよ? 他の子たちも、咲茉と仲良くなりたいって言ってるの。英語を教えてあげてよ。ね!」
「うん……私でよければ」
その日から、私は杏たちと過ごし、みゆきを無視するようになった。
最初のうちは、
「咲茉ちゃん、どうして? なんでこんなことするの?」
と問いかけていたみゆきもだんだんと黙るようになって、以前の私と同じように皆に囲まれるようになった。
親友を裏切った罪悪感は次第に薄れていき、なんとも思わなくなった。
杏たちといる方が、みゆきと二人でいるときよりも心強く思えた。
教室の隅にいた自分がクラスの中心にいられるようになったことも誇らしかった。
杏はいつでも私のそばにいるようになって、最高の親友だと言ってくれた。
なにより、私は安心していた。
もう二度と、私がいじめられることはない、と。
みゆきが亡くなったと聞かされたのは、12月に入って間もない頃だった。
先生は詳しいことを語らなかった。
重い空気の中で、誰もが理解していた。
みゆきは自ら命を絶ったのだ。
杏に促され、私が『さっさと死んで』と口にした、あの日に。
あの時みゆきは、私を見据え、震える声で言った。
『You are the devil』
他の誰でもない、自分だけに向けられた悪意に無性に腹が立って、私は思いきりみゆきを蹴った。
――私のせいで、みゆきが死んだ。
私が一度でも「もうやめて」と叫べていたら、止められたかもしれないのに。
朝のホームルームが終わって、放心状態でいた私のところに杏がやってきた。
見上げると、杏は蔑んだ目で私を見ていた。
「あーあ。咲茉があんなこと言うから。
私はただ、英語で何か言って、ってお願いしただけなのにね」
また私は一人になった。
目を閉じれば、みゆきが近くにいるような気配に怯えた。
こんな場所から一刻も早く離れたかった。
みゆきが追いつけないように、どこか遠くに。
ちょうどその頃、両親から海外赴任の話が持ち上がり、家族全員で海外へ移ることになった。
新天地での生活はめまぐるしく、日本のことを振り返る暇もなかった。
私は苦しみから解放され、みゆきは忘れた記憶の中にいる亡霊となった。
まぶたの裏に、かすかな明るさが滲んでいる。
目を開けても、しばらく天井を見つめていた。
くまができた目をこすり、朝食の支度のためにキッチンへ向かう。
カレンダーを確認すると、怜司の出勤は午後からだった。午前中は二人でのんびりできる。お腹に手を当てると、涙が静かに頬を伝った。
悪夢が見せていたのは、私の罪。
人の命を奪った人間が、新しく命を宿したことを、何かが許さないでいる。
「咲茉、おはよう……あれ、もしかして泣いてるの?」
怜司が心配して顔を覗き込んできた。私の涙を手で拭うと、抱きしめてくれた。
「何かつらいことがあるなら話して。俺は咲茉のためなら、なんだって助けになるから」
温かく力強い言葉に、喉の奥が熱くなる。
この人の隣にいる資格なんて、私にはない。
全てを打ち明けよう。
たとえ拒まれても、それが私への罰なのだから。
怜司に肩を支えられ、ソファに腰を下ろした。
「今まで黙っていてごめんなさい」
結婚相手がクラスメイトを死に追いやったと知って、彼がどんな目で私を見るのか、想像すると怖かった。
わずかな沈黙のあと、怜司が口を開いた。
「話してくれてありがとう。俺の咲茉への気持ちは、変わらないよ」
予想もしなかった反応に面食らっていると、怜司はまっすぐな眼差しをこちらに向けた。
「過去に何があったって、俺は咲茉を愛してる。お腹の赤ちゃんと三人で、幸せになろう。いや、俺が必ず幸せにするよ」
「怜司……」
たまらず、大きな肩に飛びついた。
私が愛した人は、過去なんて気にするような小さな人間ではなかった。
胸がいっぱいになり、また泣きそうになる。怜司は私の頭を撫でると、はにかんでみせた。
「実を言うと、少し安心したよ。出会った頃から、咲茉はあまりに完璧で、ずっと俺は自分が相応しくないって思ってたんだ」
「そんな……私のほうこそ、怜司と釣り合ってるのかなって、ずっと不安だったの」
「嘘だろ、まさかお互い同じことで悩んでたなんて」
怜司につられて私も笑う。
私は自分の罪と向き合った。
辛い過去を、勇気を出して結婚相手に話したのだ。
みゆきもきっと、許してくれると信じたい。
窓の向こうの美しい景色を眺め、夢のような暮らしを改めて実感する。
怜司は私のお腹の上に、そっと手を置いた。じんわりと温かいその大きな手に、自分の手を重ねる。
私は怜司に愛していると伝え、怜司は
「俺からも言わせて」と口元を緩めた。
「なあに?」
俺はもっともっと愛してるよ――そんな甘い囁きを期待していると、怜司は今までに目にしたことのない、薄ら笑いを浮かべた。
「実は俺も、小学生の頃に人を殺したことがあってさ。
公園のホームレスたちに火をつけて燃やしたんだ。
まあ、人というより、ゴミみたいなものだから。
昔の話だけどね」
「……え?」
次の瞬間、お腹の中で、ポコン、と何かが動き出すのを感じた。
怜司の弾んだ声が、ゆっくりと遠ざかっていく。
輪郭を失った彼の笑顔を見つめながら、私は教室の冷たい床を思い出していた。




