32.送信の先で
夜の部屋でベッドに腰掛け、スマホを握りしめたまま、陽咲は動けずにいた。
画面には、まだ打ちかけのメッセージ。
消しては打ち直し、そしてまた消す。その繰り返しで、気づけば一時間以上が過ぎていた。
——「会いたい」なんて言えない。
——でも「大丈夫」って嘘を重ねるのも、もう苦しい。
指先が震える。送信ボタンの赤い光が、心臓の鼓動と同じリズムで瞬いている気がした。
「……送ったら、もう戻れない。」
小さく呟いて、唇を噛む。
翔汰に迷惑をかけたくない。弱さを見せたくない。
そう思えば思うほど、胸の奥で「それでも伝えたい」という声が大きくなる。
深呼吸をひとつ。
そして陽咲は、震える親指をそっと画面に落とした。
——送信。
次の瞬間、心臓が跳ね上がった。
後悔と安堵が入り混じり、どうしていいかわからない。
スマホを布団に投げ出すと、陽咲は両手で顔を覆った。
「……どうしよう。」
返事はすぐには来ない。
けれど、既読がついた瞬間に胸の奥が熱くなる。
それだけで、少し救われた気がした。
「……ちょっと、散歩でもしよ。」
軽い気持ちで外に出た。
歩くたびに足に残る鈍い痛みが、事故の痕を否応なく思い出させる。
それでも前に進むことができる。それが今の私の小さな誇りだった。
街灯の下、淡く照らされた横断歩道の前で立ち止まる。
信号が赤から青へ変わるのを待つ間、ポケットの中のスマホが重く感じられた。
送ってしまったメッセージが、じわじわと現実感を持って迫ってくる。
(あれで良かったのかな……)
胸の奥で小さな後悔が膨らみかけたその時、視界の端に見慣れたシルエットが飛び込んできた。
――翔汰
青信号の向こう側。コンビニの袋を提げて立っている彼が、こちらに顔を向けた。
目が合った。ほんの一瞬。
けれど永遠のように長い瞬間。
「……っ」
心臓が大きく跳ねた。
逃げようとした足が、痛みで言うことをきかない。
結局その場に立ち尽くすしかなかった。
翔汰が歩き出す。
青に変わった横断歩道を、こちらに向かって一歩一歩近づいてくる。
風が吹いて髪を揺らし、袋の中でペットボトルがかすかに鳴った。
「……偶然、だな。」
彼が立ち止まったのは、私の目の前だった。
あまりに近くて、息が詰まりそうになる。
「うん……そうだね。」
それだけがやっとの言葉だった。
さっき送ったばかりのメッセージが、二人の間に透明な壁を作っているような気がした。
沈黙が続く。
夜の街の音――遠くを走る車、信号の点滅、誰かの笑い声。
全部が、私たちのぎこちなさを照らし出す。
「……散歩?」
「うん。少しだけ。眠れなくて」
「そっか。」
たったそれだけの会話なのに、胸が張り裂けそうになる。
彼はいつも通りの声で話してくれているはずなのに、私には違って聞こえる。
“既読”の二文字が、頭の片隅から離れないからだ。
私は口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
『さっきのメッセージ、読んでくれてありがとう』
――本当はそれを言いたいのに、声にならない。
翔汰の横顔が、街灯に照らされて淡く光っていた。
彼は何も言わない。ただ、隣に立っている。
それだけで、どうしようもなく涙が出そうになった。
「……帰ろっか。」
彼が小さく笑って言った。
私は頷くしかなかった。
二人並んで歩き出す。
ほんの数歩の距離。それなのに、心の中では何百メートルも離れているように感じられる。
けれど同時に、送信ボタンを押したあの瞬間から、確かに繋がっている実感もあった。
この夜を、私はきっと忘れない。
返事がなくても。
言葉を交わせなくても。
たしかに彼は、私の目の前にいたのだから。




