2-2
本祭での疲れもあってか、文化祭の振替休日はSKYにログインしないで過ごした。VR世界でのことだから体が疲れることはないが、精神面での疲労は避けられないのだ。――まあ、今回は全力で楽しんだ結果だから、心地よい疲れと言えるものだが。
病室のベッドの中、寝ぼけ眼でぼんやりしていたら、あっという間に夕方だ。普段は四人で遊びに出かけることが多いから、ここまでのんびりしたのは久しぶりかもしれない。
ただ、ちょっとのんびりし過ぎた気がする。
疲れを取るという意味で有意義だったのか、残り少ない日々の中、一日を無駄にしてしまったという意味で無為だったのか。判断に苦しむところである。
ともあれ、そんな振替休日明けの火曜日。
「ふぁ~」
スマホのアラームで目を覚ました丈瑠は、伸びをしながら大きなあくびをした。
いつもと同じ時間の起床。しかし、まだ文化祭の疲れが抜け切っていないのか、眠気が取れない。頭の中がぼんやりしたままモソモソと朝食を取り、SKYにログインする。
いつもより動きがスローだったからか、SKY内の家を出るのがいつもより少し遅くなった。
バスを一本乗り過ごしてしまい、予鈴ギリギリに学校に到着する。自分の席に着いて、小走りで少し荒れた呼吸を整える。
「オッス、丈瑠!」
「おはよう。今日はギリギリだったね」
丈瑠が席で息をついていると、美波と大輔が話しかけてきた。
「おはよう、大輔、鹿野。ちょっとのんびりし過ぎて、バス一本乗り過ごした」
「あー、もしかして文化祭疲れってやつか? 俺も今朝、少し寝坊したわ」
丈瑠が苦笑しながら答えると、大輔が共感するように腕を組んだまま頷いた。どうやら文化祭の余韻がまだ消えていないのは、丈瑠だけではないらしい。
と、そこで丈瑠は、自分の後ろの席が空いていることに気が付いた。
「悠子はどうした? どこか出掛けてるの?」
「いいや。実はまだ登校してないんだよ」
「そうなのか? 珍しい」
大輔からの返答に、丈瑠は少し驚きながら後ろの席を見つめる。
悠子はいつも八時前に登校している。それで、朝練が終わった大輔を教室で待っているのだ。
これまで、悠子が予鈴間際になっても登校していなかったことなんて、一度もなかった。空席のままの机を見つめながら、丈瑠はどことなく嫌な予感のようなものを感じた。
「まあ、悠子も文化祭疲れで寝坊でもしたんだろうよ。準備期間から後夜祭の後の打ち上げまで、あいつが一番頑張ってたからな」
「そう……だな……」
一方、大輔は特に気にした様子もなく気楽に笑っている。
それに生返事をしながら、丈瑠は自分の中にある嫌な予感を振り払う。
普通に考えて、自分の気にし過ぎだ。大輔が言っている通り、悠子は誰よりも文化祭に全力を注いでいたから、丈瑠たち以上に疲れが出てしまったのだろう。そう考えるのが自然なことだ。
けれど、どうしても心の中のざわつきが消えない……。
そうこうするうちに本鈴が鳴り、担任教師が教室に入ってきた。
「あん? なんだ、悠子マジで来ないな。もしかしてまだ病室で寝てんのか?」
いよいよ遅刻になっても姿を見せない悠子に、大輔が目を丸くしながら席に着く。
隣の席の丈瑠には見えたが、大輔は机の下でスマホをいじり出す。悠子にメッセージでも入れているのだろう。
そんなことを思っていた、その時だ。
「えー……、今日は大事な、そして残念なお知らせがある」
担任のやや沈んだ様子の声が、丈瑠の鼓膜を震わせた。
反射的に視線を大輔から担任へと移す。
丈瑠の視線の先、教卓の前に立った担任は、クラス内を一通り見回し、“残念なお知らせ”とやらを口にした。
「急なことだが、八神が転校することになった」
「……は?」
一瞬、時間が――いや、世界が止まったような気がした。
担任が何を言っているのか、突然のこと過ぎて頭に入ってこない。いや、何を言っているのか、丈瑠には理解できなかった。
頭の中がフリーズして真っ白になり、思考することを拒否する。
そのまま十秒ほど、丈瑠は目を見開いたまま硬直した。自分の呼吸音と心臓の音が、やけにはっきりと聞こえてくる。
どちらも時間を追うごとにどんどん速くなっていくが、呼吸が浅くなっている所為か、頭に酸素が回っていかない。次第に酸欠になっていく頭がズキズキと痛む。手足も痺れ始め、めまいがしてくる。
今、担任は何て言った? 悠子が転校した? どういうことだ? この世界で転校? どこに? どうして?
機能停止した頭脳が、壊れたラジオのように次々と疑問の言葉を吐き出す。
その時だ。
「ちょっと待ってくださいよ! 転校ってどういうことッスか!」
机をバンッと叩きながら、大輔が勢いよく立ち上がって叫んだ。
その音のおかげで強制的に再起動が掛かり、呼吸が元の速さに戻って、頭が正常に回り始める。まだ少し頭痛が残るまま顔を上げると、隣の大輔から鬼気迫る気配が立ち上っていた。
「転校は転校だ。座れ、木島」
「だから、何で転校なんて話になってるのかって聞いてんです!」
「家庭の都合だ」
「ありえないでしょ!」
「何がありえないんだ。急な転勤とか、色々あるだろう。家庭の事情は家庭の事情としか言えん。とりあえず落ち着け」
大輔が声を荒らげて担任を問い詰めるが、担任の方は淡々と答えるのみだ。
正に暖簾に腕押しといったところ。
そんな担任の態度が気に入らなかったのだろう。大輔が、今度はこぶしで机を殴りつける。
「落ち着いていられるわけないでしょ! だって、ここから転校ってことは――」
「やめろ、大輔」
さらに担任に対して言い募ろうとした大輔を、丈瑠が制止する。
大輔の血走った目が、丈瑠の方へ向いた。
「NPCは決まった役割しか果たさない。わかってるだろう。ここで先生を問い詰めたところで――意味はない」
沈痛な面持ちで丈瑠が告げると、大輔は「くっ!」と苦虫を噛み潰したような顔になって俯く。
大輔が担任に何を言おうとしたかは、丈瑠にもわかる。
ここは仮想世界であり、悠子はそのテスターだ。家庭の都合で転校なんてこと、あるわけがない。そのあり得ないことが起こるとしたら、転校という形でこの世界から去らねばならない状況に陥ったということ。
それは、つまり悠子が――。
丈瑠の中で、最悪の想像が膨らんでいく。
そして、丈瑠に諭された大輔の決断は早かった。
「……悪い。俺、約束破るわ」
大輔はそう言い残して、教室を出ていった。
「木島君!」
「追うな!」
大輔のことを追いかけようとした美波の手を、丈瑠がつかんで引き留める。
どうして止めるのかという顔で振り返る美波の目を真正面から見つめ、丈瑠はゆっくりと首を振った。
「頼む。今は、あいつ一人で行かせてやってくれ」
「……うん。ごめんなさい」
丈瑠の視線と言葉を受けて、美波はその場で力なく立ち尽くした。
悠子のことは気になる気持ちは、丈瑠もわかる。けれど、今は悠子の恋人である大輔に任せるべき時だろう。
もし叶うなら、自分たちが想像した結末が間違いでありますように。
丈瑠と美波は同じ願いを抱えながら、大輔が走り去っていった廊下を見つめるのだった。
* * *
朝の一件以降、丈瑠は授業をずっと上の空で過ごすことになった。
頭の中では、文化祭で最後に見た悠子の笑顔と、教室から飛び出していった大輔の背中がずっとちらついている。
悠子はどうなったのか。大輔はあれからどうしたのか。そればかりが気になって、授業にまったく身が入らない。
「じゃあ、次の英文を――鹿野、訳してみろ」
「え……?」
美波の名前に意識を引き戻される。
斜め後ろに目を向けると、美波がオロオロしながら、教科書に視線を走らせていた。どうやら自分と同じく気がそぞろになって、授業を聞いていなかったようだ。
すると、教師から催促が飛んでくる。
「『え?』じゃない。早く訳しなさい」
「……すみません。聞いていませんでした。どこの英文でしょうか」
「聞いてなかったって、お前な……。まあいい。九十四ページの三段落目だ」
美波が申し訳なさそうに訊くと、教師が呆れた様子でため息をついた。
それで委縮してしまった美波は、ノートを見ながら消え入りそうな声で和訳を答える。
「よし、座れ。ただな、もう少しはっきりしゃべれ。それと、授業に集中するように」
教師から注意を受け、美波は「はい……」と俯いたまま返事をした。
もし当てられていたのが自分だったら、おそらく同じことになっていただろう。
英語の授業が終わり、昼休みになっても、大輔は戻ってこなかった。丈瑠は美波と昼食を取っていたが、会話は何一つ生まれない。
何の味も感じられない食べかけのパンを見つめながら、丈瑠は思う。
たった一度の休みが挟まっただけで、何もかもが変わってしまった。
先週までは悠子と大輔がここにいて、昼休みはいつも賑やかだったのに……。何でこんなことになってしまったのか。
と、そこで丈瑠は、美波がパンを見つめたまま動きを止めているのに気が付いた。
「鹿野、大丈夫か?」
「え……?」
丈瑠から声をかけられ、美波がぼんやりと顔を上げる。
そして、彼女の虚ろな瞳と目が合った。
「大丈夫か? さっきからずっとパンを見つめて……」
「……ごめんなさい。なんだか、何もする気にならなくて」
美波は沈んだ声で謝って、またパンを見つめる。
どうやら丈瑠以上に、この状況に参っているようだ。
「もしきついなら、保健室で少し休んできたら? それか、早退させてもらってもいいし。とにかく、今は少しでも気持ちを落ち着かせた方がいい」
「ありがとう。でも、大丈夫。もしかしたら木島君が戻ってくるかもしれないって思ったら、たぶん休んでいられないと思うし……」
パンを見つめたまま、美波は沈んだ声で言う。
そんな美波の姿に、丈瑠は何もしてやれない自分の無力さを呪った。
そして、気が付けば丈瑠は、「ごめん」と美波に頭を下げていた。
「何で速水君が謝るの?」
「俺は鹿野に何もしてやれないから。悠子なら、鹿野のことを励ますことができるかもしれない。大輔なら、こんな雰囲気を吹き飛ばすことができたかもしれない。けど、俺はそういうことができない」
下手に隠し立てすることはせず、自身が思っていることを正直に話す。
本当に、どうして自分は悠子や大輔のようにできないのか。自分の無能さが嫌になる。
そんな思いに捕らわれる丈瑠に対し、美波がゆっくりと首を横に振った。
「ううん、それを言うなら、私の方こそごめんなさい。目の前でこんな辛気臭い顔されてたら、速水君だって気分悪いよね。本当にごめんなさい……」
「いや、そんなこと……」
お互いがお互いに気を使い合い、二人の間に重く気まずい沈黙が降りる。
その沈黙を打ち破ったのは――美波だった。
「今は、お互い平静でいられる状態じゃないから……。相手に変に気を使うのはやめておこう? きっとその方が、お互いのためだと思うし」
「わかった」
美波の提案に、丈瑠も同意する。
結局その後、一度も会話が生まれないまま昼休みは過ぎ去っていった。
* * *
ぼんやりとしているうちに午後の授業も終わり、放課後となった。
NPCのクラスメイトたちがワイワイガヤガヤと教室から出ていく中、丈瑠は帰り支度もしないで窓の外を見つめていた。
「――速水君、帰らないの?」
不意に声をかけられ、丈瑠の視線が窓から斜め後ろの机の方へ向く。
気が付けば、いつの間にか教室には丈瑠と美波しかいなかった。
「鹿野こそ、帰らないの?」
「……なんか、ここから離れる気になれなくて」
丈瑠からの逆質問に、美波は苦笑しながら答えた。心なしか、とても疲れたように見える。
どうやら美波も、丈瑠と似たり寄ったりのようだ。
一日経っても自分の気持ちをうまく整理できず、この場から離れることもできない。何か行動を起こすべきだとわかっているけれど、今何をすればいいのかわからない。
「みんな、悠子ちゃんがいなくなっても普通だったね」
「人間みたいに見えても、結局はNPCだからな」
「AIに感情はないってこと?」
お互い、沈黙に耐え切れず、ポツリポツリと言葉を交わす。
疑問を投げかける美波に、丈瑠は思考をまとめるように一旦宙を見つめ、手探り気味に答える。
「感情がないというよりは……ここに残っている俺たちのための最適解を選んでいるって感じじゃないか? たぶんだけど」
「どういうこと?」
「俺たちが心穏やかに学校生活を送れるようにするにはどうすればいいか。NPCは、普段と同じ挙動をすることが最適って判断したんだろう。だから、俺たちが何も言わない限り、NPCから悠子のことには触れない」
「私たちが悲しくならないように明るく振舞ってくれてるってこと?」
「たぶん」
「なんか、難しいね」
「そうだな。まあ、俺も単なる当てずっぽうなんだけど」
美波の感想に、丈瑠も肩をすくめる。
会話の流れが途切れると、美波はふと丈瑠の隣の席を見つめた。
「……木島君、戻ってこなかったね」
「そうだな」
美波のつぶやきに、丈瑠が小さく頷く。
「朝、大輔を追うのを引き留めたこと、怒ってる?」
「ううん、怒ってない。私も、速水君の判断が正しかったって思うから」
「そっか」
そこで会話が再び途切れ、沈黙が生まれる。
窓からは西日が差し込み、教室の中をどこか物寂しいオレンジ色に染め上げていた。
「……そろそろ帰るか。ここにいても、何かあるわけじゃないし」
「……そうだね」
お互いに帰るという意志を言葉にして確かめ合い、それぞれに帰り支度を整え出す。そうでもしないと、夜になってもここを離れられそうにないから。
そして荷物をカバンに詰め終えると、丈瑠は椅子に貼り付いているかのように重い腰を上げた。
――と、その時だ。
「木島君……」
突然、美波の驚いたような声が教室に響き、丈瑠はその視線の先を目で追う。
すると、いつの間にそこに立っていたのか、廊下に大輔が立っていた。
「大輔!」
丈瑠と美波はカバンを放り出し、大輔に駆け寄る。
席から見ていた時は陰になって表情が見えなかったが、近寄ってみると大輔は唇を噛み締めて眉間にしわを寄せていた。まるで、何かを堪えるように……。
そして、丈瑠と美波が自分のところまで来ると、何も言わないまま踵を返して、ゆっくり歩き出した。
丈瑠と美波は顔を見合わせ、大輔の後についていく。
大輔が向かったのは、屋上だ。昼休みはお弁当を食べる生徒たちで賑わう屋上も、下校時刻が迫ったこの時間になると人っ子一人いない。
最後に屋上に出た美波が扉を閉めると、大輔がゆっくりと二人の方を向き、口を開いた。
「悠子が――死んだ」
大輔の口から出てきたのは、短くて、それ故に何よりも雄弁な宣告だった。
「――ッ!」
「……うそ……」
息をのむ丈瑠の隣で、美波が震える声で呟く。
その声を聞きながら、丈瑠は全身の力が抜けそうになるのを必死で堪えた。
頭の中では、きっとそうだろうと悟っていた。理性では、この結果をきちんと予測していた。
それでも、改めてそれが事実であると聞かされてしまうと、思わず呆然としてしまった。どれだけ頭でそうだとわかっていても、心のどこかでは希望に縋っている自分がいたのだ。
けれど、その希望は今、完膚なきまでに打ち砕かれてしまった。
悠子は――本当に亡くなったのだ。
「SKYからログアウトして、看護師に話を聞いてきた。昨日の夕方、容体が急変して……そのまま亡くなったらしい」
奥歯を噛み締めながら、大輔が言う。
「看護師が言ってたよ。悠子のやつ、最近ずっと調子が良くなかったって……。こっちの世界では、そんなことおくびにも出さなかったのにな」
大輔の言葉に、丈瑠は文化祭の準備中から感じていた引っかかりを思い出す。今思えば、あれは悠子が言葉や態度の裏に隠し切れなかった、小さなほころびだったのかもしれない。
いや、そもそも文化祭準備期間になってからの悠子は、普段以上に世話焼きだった。あの時くれた助言自体、死期を悟った悠子の最期のお節介だったのかもしれない。
つまり丈瑠には、悠子の変化に気が付くチャンスがあったのだ。けれど、それを気の所為と流して、それ以上深く探ろうとしなかった。
無論、気付けたからと言って、医者でもない丈瑠に悠子の寿命を延ばすなんてことはできなかった。けど……もし気付くことができていたのなら、何かできることはあったかもしれないのだ。
そう思うと、過去の自分の事なかれ主義が、堪らなく許せなかった。
「悠子とは……会えたのか」
後悔に苛まれながら、大輔に問いかける。
現実世界に戻っていた大輔なら、そのチャンスはあっただろう。
しかし、大輔は首を横に振った。
「会えなかった……。怖かったんだよ。病気で痩せ衰えたまま亡くなった悠子の姿を見るのが……」
「そうか……」
「結局、現実で最期まであいつに会えなかったな……。まあ、そういう約束だったんだから、それでいいんだけどさ」
ハハハ、と大輔が力なく笑う。そして、「約束破るつもりで現実世界に戻ったのに、情けねえ……」と自嘲気味なことを言う。
約束とは、ベータテスターとしてこの世界に来て初めて顔を合わせた際に、丈瑠・悠子・大輔の三人で交わしたものだ。
それは、現実世界で会わないこと。
悠子が発案し、丈瑠と大輔もそれに乗った。悠子の『できれば自分の元気な姿だけを覚えていてもらいたいから』という思いを、二人が受け止めてできた約束だ。
そして美波も、この世界に来た初めの日に、その約束に加わっている。
当然、SKYを管理している病院側もこの約束については把握している。今思えば、悠子の死がこんなにも変な形で丈瑠たちに伝わったのも、病院側が対応に困ってほころびが出てしまったからなのかもしれない。
ともあれ、結果的にこの約束が守られたことをよしとすべきか、それとも今の悠子と大輔の関係性を考えれば、破られていた方がよかったのか。丈瑠には、どちらが正解なのかわからない。
ただ、大輔が大切な人を亡くしたということと、悠子と最後に会えなかったということは事実。
丈瑠は美波と一緒に心配そうな顔で大輔のことを見つめる。
すると、それまでおどけた様子を見せていた大輔が、突然崩れるように膝をついた。
「ほんと、何で今なんだろうな……」
そう呟いた大輔の目から、堰を切ったかのようにボロボロと大粒の涙が零れ始める。
そのまま大輔は四つん這いのような格好になって、自分のこぶしをコンクリートの床に打ち付け始めた。
「ちくしょう! 何でだよ! まだまだやりたいことがたくさんあったんじゃないのかよ! ハロウィンとか、クリスマスとか……楽しそうに予定立ててたじゃんかよ……」
「やめろ、大輔。手がダメになる」
何度も床にこぶしを打ち付けている大輔を見かねて、丈瑠が腕をつかむ。怪我が現実世界にフィードバックされることはないが、痛みはこの世界でもきちんと感じるのだ。
しかし、大輔はそんな丈瑠を軽々と振り払った。
「一日でも長く生きていたいって笑ってたじゃねえか! 一緒に実験終了まで生き残るって言ったじゃねえか! なのに、何でだよ。何で悠子が死ななきゃいけないんだよ!」
涙で床を濡らしながら、大輔は叫び続ける。
そんな大輔を、丈瑠たちは見ていることしかできない。
丈瑠と美波は、そして大輔だって頭では理解している。丈瑠も悠子も大輔も、そしておそらくは美波だって、外の世界では余命宣告を受けた身。遅かれ早かれ、いつか別れの時は来ていたのだ。
けれど、頭でわかっていたって、それがいざ現実になったら、「はい、そうですか」と受け入れられるわけがない。
何でこの世界は、こんなにも理不尽なのか。あんなに明るくて優しいやつが死ななきゃいけないなんて、絶対間違っていると丈瑠も思う。
大輔が泣き叫んでくれているおかげで取り乱さないでいられるが、もしそうでなければ丈瑠だってボロボロに泣いていただろう。一緒に過ごした期間は半年ほどだったが、それほどまでに悠子は大切な友人だったから。
しばらくすると、大輔も泣き疲れて落ち着いてきたのだろう。
叫び声は段々となくなっていき、こぶしを床に振り下ろす回数も少なくなっていく。
そして、四つん這いのような姿勢から体を起こし、床に胡坐をかいて座った。
「……すまん、取り乱して」
「いや、気にするな」
俯いたまま謝る大輔に、丈瑠が首を振る。
「こぶし、大丈夫か」
「ああ……。ちと痛むけど、おかげで冷静になれた気がする」
「そうか」
丈瑠が頷くと、それまで俯いていた大輔が顔を上げ、空を見上げた。
「恥ずかしい話だけどさ、俺、この世界での悠子しか見ていなかったから……もうすぐ死ぬなんて実感が持ててなかったんだ」
「大輔……」
「いや、悠子のことだけじゃねえ。俺自身の余命だって、今までどこか他人事みたいに思えてた……。この世界に来て、勘違いしちまったんだよな」
滔々と語る大輔に、丈瑠と美波も黙って耳を傾ける。
そんな二人の様子を感じ取ったのか、大輔は朗読でもするかのように話を続ける。
「元々俺は死ぬまで野球をやりたくて、ここならそれが叶うと思ってベータテスターになった。だからこの世界に来た時は、すげえうれしかった。また野球ができることが幸せだった。それに、ここには悠子や丈瑠がいて、後から鹿野も加わって、毎日楽しくてさ。この世界に来られたことに、本当に感謝してたんだ」
これまでの日々を思い出すかのように、少し弾んだ声で、大輔が言う。
しかし、そのトーンが不意に下がった。
「でも、そんな幸せに、俺はいつの間にか慣れちまっていた。頭が麻痺して、この世界のことを現実とごっちゃにして考えてた。ここでは何でもできるけど、それはここだからできているだけ。それを……いつの間にか忘れてた」
悔恨のこもったその言葉に、丈瑠は息をのむ。
これは、大輔だけに言えることではない。丈瑠だって同じだ。
ここが仮想現実であるということを、時に忘れていることがある。それだけこの世界はよくできているのだ。
病気を理由に青春を謳歌できなかった者にとって、この世界は一つの救済。それは確かだろう。自由に体を動かせるだけでも、大輔のように救われる者がいる。
ただ……。
「でも、今回のことでよくわかった。やっぱりここは現実じゃないんだ。どれだけここで元気に過ごしていても、俺たちの体は現実世界で確実に死に向かってる。それだけは、変えられないんだ」
大輔の言葉に、丈瑠はそっと俯いた。
そう。なまじここで元気な姿を見ている分、勘違いをしてしまうのだ。自分の命はもちろん、ここで共に過ごしているみんなの命も先が長くないということを忘れてしまう。
特に丈瑠たち四人はSKY内での姿しか見えていなかったから、それが顕著になってしまった。約束の弊害といったところか。
大輔の言葉に、丈瑠たちは何も言ってやることができない。
大輔が感じていることは、今まさに丈瑠たちも実感していることだから。
そんな雰囲気を察したのか、大輔は「よっこいしょ」と立ち上がり、丈瑠と美波に向かって頭を下げてきた。
「悪い。ただでさえみんな心の整理がつかない時に、こんな話を聞かせて」
「いや、むしろ良かった。お前が思っていることを聞けて」
「そう言ってくれると、マジで助かる」
丈瑠の言葉に、大輔が安心した様子で笑う。
そのまま大輔は、丈瑠と美波の間を抜けて、屋上の出入り口へ向かって歩いていく。
「今日はもう帰るよ。色々考えたいことがあるから」
そう言って、大輔は扉を開く。
と同時に、隣の美波が動いた。
何か言わなきゃ。今度は後悔しないように。
そんな思いが見える瞳で、美波は大輔に向かって声をかける。
「あの、木島君」
「ん?」
「ええと、その……後追いとか……しちゃダメだよ」
咄嗟に呼び止めてしまった所為で、その後で何と言ったらいいか、わからなくなったのだろう。しどろもどろになりながら、美波がどうにか絞り出したのは、何とも直接的な言葉だった。
隣で聞いた丈瑠も、思わず目を丸くして美波を見つめてしまう。
だが、大輔はおかしそうに笑いながら、こちらに向き直った。
「心配してくれて、ありがとな。わかってるよ。そんなことしない。悠子に怒られるからな」
そう言うと、大輔は「じゃあな」と軽く手を振って屋上から去っていった。
同時に、美波がオロオロし始める。
「どうしよう……。私、勢いで無神経なこと言っちゃった……」
「まあ、大丈夫だろう、たぶん。さすがに俺もギョッとしたけど、大輔はちゃんと鹿野の意図を汲んでたみたいだし」
「……追い打ちかけられると、さすがにへこむ」
「悪い」
大輔が閉じた扉を見つめながら、美波が項垂れる。
ただ、すぐに背筋を伸ばし、美波は空を見上げながら口を開いた。
「私ね、文化祭中に悠子ちゃんが何かおかしいって、実は気付いてた。でも、具体的に何がおかしいのかわからなくて、自分の気の所為だって決めつけて……。結局、何もできなかった」
まるで懺悔するように、美波が明かす。
どうやら、引っかかっていたのは丈瑠だけではなかったようだ。少し驚いたが、言われてしまえばそれも当然のことのようにも思えた。
「俺もだよ。それと、さっきはああ言ってたけど、たぶん大輔だって何か感じ取ってはいたんじゃないか?」
だから丈瑠も、自分も同罪であることを明かす。そして、何となく感じた推測も。
そうしたら、美波が驚きに目を丸めながら、丈瑠の方を向いた。
「でも、俺たち三人とも、それが悠子の死につながるものだとは気が付けなかった。だから、鹿野だけが責任を感じることはない。これは、どうしようもないことだったんだと思う」
「そっか……。ありがとう、速水君。少しだけ、心が軽くなった」
丈瑠の言葉に、美波は優しく微笑んだ。
* * *
学校の前で美波と別れた丈瑠は、まっすぐSKY内の自宅へと帰った。
そしてベッドに寝そべり、ログアウトする。
意識が飛んでいく感覚を味わった後、目を開けると視界がふさがれていた。同時に、SKY内では自由に動いていた体が鉛のように重くなった。
思うように動いてくれない手を動かして、ヘッドギアを外す。黄昏時の病室は薄暗く、シンと静まり返っている。
ヘッドギアをベッド脇の台に置き、丈瑠はベッドに寝そべって天井を見上げる。
頭の中では、今日一日の出来事がグルグルと回っていた。
朝、担任が告げた『八神が転校することになった』という言葉。激昂した大輔の横顔と、教室から駆け出していく後ろ姿。授業に身が入らず、一日中上の空で過ごしたこと。美波との気まずい昼食。戻ってきた大輔から告げられた悠子の死と、泣きわめく彼の姿。『結局、何もできなかった』と懺悔するように明かした美波の顔。
まるで走馬灯のように浮かぶ光景が円を描く。
「死ぬって、どういうことなんだろうな……」
横になったまま天井を見つめ、丈瑠は思わずつぶやいてしまう。
試しに天井に向かって手を伸ばしてみれば、やせ細った細い腕が見える。物理的にはとても軽いくせに、動かそうと思えばどこまでも重い体。自分が着実に死に向かっていることは、この体からもわかる。
ただ、SKY内での生活もあってか、丈瑠も大輔と同様に、死ぬことへの実感が薄い。自分が死ぬということが、うまく想像できない。
その所為か、実のところ悠子が死んだという事実も、いまだ現実のものと思えていない部分がある。明日には悠子がひょっこり顔を出して、『昨日のはドッキリでした!』とでも言ってくるのではないかとさえ思っているのだ。そんなこと絶対あり得ないのに……。
「最低だな、俺……」
自分のことを侮蔑するように、鼻で笑ってしまう。
要するに自分は、美波へ偉そうなことを言ったくせに、後悔しているのだ。悠子が生きているうちに何か、変えられるものがあったかもしれない。そんな気持ちが、今も胸の中で渦巻いている。
だから、悠子の死を現実のものとして受け入れることができない。自分の後悔が先に立ち、きちんと悼むことができていない。
本当に、最低だ。
不意に、丈瑠の胸の内で、大輔の『俺自身の余命だって――』という言葉がよぎる。
今日のようなことは、これからも起こるかもしれないのだ。
次にいなくなるのが誰かは、その時になるまでわからない。自分かもしれないし、大輔かもしれないし……もしかしたら美波かもしれない。
もしも美波が悠子のように突然いなくなってしまったら、自分は今と同じことを繰り返すのだろうか。
やるべきことをやらず、すべてを失った後で悔やんで、いなくなった人をきちんと偲ぶことさえできない。
それは……本当に愚かしいことなのではないか。
丈瑠の中で、焦りにも似た衝動が起こる。と同時に、頭の中に悠子の声が響いた。
『少しはやりたいようにやってみれば?』
文化祭の準備中、悠子が丈瑠に言った言葉だ。
美波が悠子のような考え方をするかはわからない。丈瑠が行動を起こすことは、美波にとって、ただの迷惑かもしれない。
それに、自分は美波がSKYからログアウトできない理由を知っていて、彼女に隠している。もちろん隠すべき理由があるからだが、捉えようによっては美波を裏切っていると言えるだろう。
それでも、自分たちに迫る死と、それに伴う後悔を知ってしまった今、何もしないではいられない。
「……決めたよ、悠子」
静かな決意を胸に、丈瑠は亡き友人に向かって呟くのだった。