プロローグ
カツカツとチョークが黒板を叩く音。ワイワイガヤガヤと好奇のざわめきに満ちている教室――。
様々な音が、丈瑠の鼓膜を打つ。
今日は、二学期の始業式。本来なら、取り立てて騒ぎ立てることもない行事だ。
しかし、丈瑠たちが所属する二年三組においては、少しばかり状況が違う。丈瑠は他のクラスメイトたちと同じく、教卓の隣へと目を向けた。
そこに立っているのは、一人の女子生徒――このクラスにやってきた転校生だ。
黒いストレートの髪を背中の中ほどまで伸ばしており、細身のせいか少し儚げな印象を受ける。
ただ、それよりも気になるのは、黒縁眼鏡の奥にある瞳に光がないこと。まるで意識がないかのように、その女子生徒は教卓の隣に佇んでいる。
丈瑠はそんな女子生徒の顔を、やや緊張した面持ちで見つめた。
と、その時だ。不意に横合いから、ひじを小突かれた。
「なあ、丈瑠。あの子も、俺たちと同じなのかな?」
声をかけてきたのは、隣の席に座る大柄で坊主頭の男だ。名前は、木島大輔。いかつい割に愛嬌のある瞳に好奇心を湛え、教室の前方を見つめている。
「たぶん」
大輔からの問いかけに、丈瑠は言葉少なく答えながら頷く。
すると、教卓の前に立っていた担任教師が、パンパンと手を打ち鳴らした。
「おーい、静かにしろー」
担任が、クラス全体に向かって呼びかける。
クラス内を満たしていた喧騒が、それでピタッと収まる。
と同時に、今までマネキンのように微動だにしなかった女子生徒が、急にハッとした様子で動き出した。
「え……? あ……、あれ……?」
戸惑いに満ちた眼差しで、女子生徒は辺りをキョロキョロと見回す。まるで、自分の置かれている状況がわかっていないかのように。と思ったら、教室内にいる全員が自分を見つめていることに気が付いたのか、「あ……、う……」と呻きながら、恥ずかしそうに顔を赤くして俯いてしまった。
丈瑠の顔の緊張も、さらに強くなる。
「ねえ。あの子、何か様子がおかしくない?」
今度は後ろの席から声をかけられ、丈瑠と大輔が首だけ振り返る。
二人に声をかけたのは、整った顔立ちをしたショートカットの女子生徒だ。名前は高橋悠子。このクラスのクラス委員だ。
「だな。何か迷子みたいっつうか……」
「……もしくは、単に人見知りってだけかもな。もしくは、まだこの世界の感覚がつかめてないか……」
悠子に同調する大輔の隣で、丈瑠も考えられそうな可能性を上げてみる。
「ああ、それもあるかも。なんかさっき、ずっと直立不動だったもんね。動き方とかわからなかったのかな」
「おーい、そこ! 無駄話はやめろ」
悠子が丈瑠を指差しながら頷いていると、担任から見咎められてしまった。
慌てて話をやめ、三人そろって前を向く。
三人が黙ったことを確認すると、担任は改めて教室内を見渡した。
「突然だが、今日から転校生を受け入れることになった。――鹿野、自己紹介してくれ」
「あ……ええと……鹿野美波です。よろしくお願いします」
担任から促され、女子生徒――美波が名乗り、頭を下げる。だいぶ声が裏返ってしまっているところを見るに、噛まなかっただけ御の字だろう。
同時に、美波の自己紹介に対して、クラス内からまばらな拍手が飛んだ。
「じゃあ、鹿野は席に着いて。朝のホームルーム始めるぞ」
再び担任の声がクラス内に響き、拍手が鳴り止む。担任に促された美波は、空席である悠子の隣――つまりは丈瑠たち三人の方へ歩いてきた。
「やっほー。今日からよろしくね、鹿野さん」
「――っ!」
隣までやってきた美波へ、悠子が気楽な感じで声をかける。初めて会った相手とか、そういうことはまったく気にした様子がない。悠子らしい。
しかし、美波にとってはいきなり声をかけられるなんて、寝耳に水だったのだろう。目を丸めて息をのみ、悠子の方を見つめたまま固まってしまった。
「あ、ごめんね。急に話しかけたら、びっくりするよね」
「あ、ええと……」
「私は高橋悠子。このクラスのクラス委員で、あなたと同じSKYのベータテスター。何かわからないことがあったら、遠慮なく聞いてね!」
そう言って、悠子がにこりと微笑む。その仕草一つ一つが、やたらとかっこいい。それに、ホームルーム中だからか声は控えめだが、はきはきとしたしゃべり方の所為か、声がよく通る。
「おい、高橋。まだホームルーム中だ。静かにしろ」
「アハハ。すみません、先生。ちょっと我慢できなくて」
なので、早々に担任にバレて、注意されていた。
途端に、クラス中が笑いに包まれる。馬鹿にしたような笑いではなく、好意的な笑い。それだけで、彼女がクラスメイトからどれだけ慕われているかがわかる。
「まあ、いいや。ホームルームはここまで。高橋、鹿野のことは任せるぞ」
「はーい! どーんと任せといてください!」
最後は担任の方がやれやれと首を振り、ホームルームを終わらせて教室を出ていった。
担任が教室を出ていくと、早速悠子が話を再開する。
「ごめん、話が途中になっちゃったね。まあ、さっきも言った通り、私もあなたと同じで外から来たプレイヤーだから、わからないことは何でも聞いて。学校のことはもちろん、この世界での過ごし方だって、何でも教えるから」
そう言って、悠子が美波に向かって手を差し出す。
美波は、その手をおずおずと握った。ただ、その表情にはまだ困惑の色が見える。
「ちなみに、ここにいるテスターは私だけじゃないよ。鹿野さんの前の席に座っている坊主頭と私の前の席の背が高いのもテスター。名前は、坊主の方が木島大輔、背が高いのが速水丈瑠ね」
悠子がこちらの方を指差し、美波の顔がこちらを向く。
「木島大輔だ。よろしく!」
「速水丈瑠です」
なので、ニカッと笑いながら自己紹介する大輔と一緒に、丈瑠も小さく頭を下げながら挨拶した。
「この学校にいるテスターは、私たちで全員。他の高校や小中学校にもテスターはいるけど、あまり関わりはないかな」
「あ……ええと、はい」
「アハハ。いきなりベラベラ説明されても、よくわからないよね。ごめん。ちなみに、何か聞いておきたいことはある?」
「聞いておきたいこと……ですか……」
悠子から投げかけられて、美波が考えるように俯く。
丈瑠たち三人が見つめる中、美波は恐る恐るといった感じで小さく手を挙げた。
「あの……それじゃあ、お言葉に甘えて一つ……」
「うん! 一つと言わずに何個でも聞いて」
美波が控えめに切り出すと、悠子はうれしそうに表情を輝かせながら、先を促す。
それを受けた美波は、深呼吸して小さく口を開いた。
「ここは、SKYというベータテスト中のVR世界の中に作られた飛鳥市という架空都市。私はこの世界にログインしていて、飛鳥市立南高校の二年三組にやってきた転校生ということになっている。――それは、わかります」
美波の話に、丈瑠たち三人はうんうんと頷く。
この世界のことはきちんと把握しているらしい。丈瑠としても、その点には安心した。
「でも……自分が何でこの世界にログインしたのかがわからないんです。思い出せるのは、外の世界で高校二年生になったところまで。それから先のことが思い出せないんです。……なんで私は、ここにいるんでしょう?」
しかし、次に放たれた美波に言葉で、三人の動きが止まる。
高校二年生になってから先の記憶がない?
ちなみに、今日は二学期の始業式。つまり九月一日だ。これは、現実世界も同じである。
ということは、つまり――
「ええと……つまりそれって、記憶喪失ってこと?」
「……はい……」
三人そろって呆然とする中、悠子が全員の気持ちを代弁するように訊くと、美波はしょんぼりとした様子で小さく頷くのだった。