彼女の正体③
私は手記の最後のページを開き、道子さんに差し出した。
「道子さん。これ読めますか?」
「え……ええ。日本語で書かれているようですね」
受けとった手記を開く道子さんを、他の侍女たちが囲い、皆で手元をのぞき込む。
道子さんは隣にいた丸顔の侍女に、文章を読み上げるよううながした。
「ええっと……『龍の御殿で髪に花弁がのると、そなたは崩れるさまにおびえて逃げ出すだろう。しかし香りに誘われふり返れば、私はそこで、いつまでも待っている』────これでいいかしら?」
私たち異世界人には言語能力があり、その書く文章は、読み手のもっとも理解しやすい言語へ変換される。
覇葉人には覇葉語。日本人には日本語。
これで、少なくとも蘭王が普通の覇葉人ではなく、異世界から召喚された人間であることが証明された。
「東櫻宮の皆さんにお聞きしたいのですが。もし受けとった歌の中に『花』という言葉が出てきたら、何の花を思い浮かべますか?」
私がたずねると、道子さんは首をかしげて聞き返した。
「花の名前は、詠まれていないのですか?」
「はい」
「じゃあ……桜でしょうね」
そう答えながら周りをうかがう道子さんに、皆が同調した。
「そうね。桜よ」
「名前が出てこないなら、『花』は桜しかないわ」
私はうなずき、次の質問をする。
「では『香り』と歌われていれば?」
「香りなら……梅の香りね」
「橘の香りを詠むことも多いけれど、その時は『橘』の字を入れるから……『香り』だけなら梅でしょうね」
今度は皆が口を揃えて「梅」と答えた。
「そういえば昔、はじめて殿方からいただいた歌に────」
そのまま彼女たちは、海の向こうの思い出話に花を咲かせはじめる。
「ちょっとトウコさん、これは一体……?」
紫雲さんたちには、彼女らの話す日本語は理解できない。
しかし、私が問うたびに皆が同じ回答を口にするという、異様な光景に3人は目を白黒させた。
道子さんが一歩前に出て、流暢な覇葉語で説明した。
「私たちにとって『花』は桜。そして『香り』とは、梅の香りを指します。寒さに耐えしのんだ先におとずれる、甘く芳しい春の香りですわ」
「へえ……?」
表面上は納得しながらも、いまだ怪訝なまなざしを向ける紫雲さん。
「日本人はこのように、名前を出さずに共通のものを思い浮かべる事ができるんです。これを利用すれば、花の名前を明記せず特定の場所を示すことも可能かと」
この感性は言うなれば、同郷の者同士の“暗黙のしきたり”である。
このことに気づかせてくれたのは、ほかならぬ道子さんだった。
「それを考慮すると、最初の『花弁』は桜の花びらのこと。『香りに誘われ』は梅の香りのことになります」
「では『崩れるさま』は……?いったい何が崩れるのですか?」
紫雲さんは私ではなく、あえて道子さんにたずねた。
「“崩れる”────?」
道子さんは眉をひそめ、他の侍女たちと視線を交わした。
「あまり使わない言葉ね」
「歌には詠まないわ」
困惑する彼女たちに代わって、私が答えを述べる。
「花が終わりを迎えるさまを、日本人はこう表現します。桜は“散る”、梅は“こぼれる”、椿は“落ちる”。そして“くずれる”のは────牡丹です」
「そう……なんですか?」
はじめて耳にした知見に、才女の道子さんは不思議そうな顔をする。
「うん。ただこの表現が定着するのは、もっと後の時代なの」
つまり、それを知っている蘭王は今(平安時代)より後世の日本人だということだ。
「花が“落ちる”とか“崩れる”とか……変な感じ」
「でも椿の花なんかは、まるで頭がもげたように落ちるわよね」
事情を知らない侍女たちは、笑いをまじえて話し込む。
道子さんだけを残し、役目を終えた彼女たちには屋敷の中へ戻ってもらった。
「この中に隠されていた『桜』『牡丹』『梅』の3種類の花───それらをあてはめてもう一度文章を読んでみます」
私は道子さんの手の中にある手記を隣からのぞき込む。
「まず『龍の御殿で髪に花弁がのると』は、後宮で桜の花びらが散る場所────つまりこの山桜の下であることを意味します。そして『崩れるさまにおびえて逃げ出す』は、ここで牡丹の花に背を向けて進めということです」
「でも……この宮に牡丹はありませんわ」
「そうだね。牡丹はこの宮に植わっているものではないと思う」
かつてはここにも牡丹が咲いていたのかもしれない。しかし桜の木と違って、数百年先も同じ場所で咲くことはなく、それを暗号にするとは思えない。
「青藍さん、後宮にはかつて『姚黄宮』という宮がありましたよね」
青藍さんは手元の宮城図を開き、目を落とす。
「ああ……たしかに。この山桜宮の北側に」
「この『姚黄』は牡丹の品種だそうです」
道子さんは青藍さんのそばへ駆け寄って、宮城図をのぞき込むと興味深げに言った。
「……なるほど。ではその牡丹がある北に背を向け、南に進めばよいのですね」
彼女は蘭王の件を何も知らされていない。
ただ私たちの会話から、何かの場所を探していることを察したのだろう。
宮城図を凝視しながら、率先してこの謎を解きはじめる。
「では次の『香りに誘われふり返れば』に該当する梅の花も……あ、この『白梅宮』のことですね?」
答えが出揃ったところで、私たちは暗号の示す通り、まずは南側に草地を踏み歩く。
小島をぐるりと囲う池の際まできたところで足を止め、梅の香りに誘われるように、かつて白梅宮のあった南西の方角をふり返る。
すると視線の先には、ちょうど人ひとり腰を下ろせそうな庭石が置かれていた。
「あの下……何かありそうですね」
「すぐに調べよう」
陛下の声で、青藍さんは宦官たちへ石をどけるように指示をする。
「ミチコさん、賢妃さまのところへ案内していただけますか。庭を荒らしてしまう以上、主に報告せねば」
紫雲さんはそう言って、道子さんをつれて橋を渡っていった。
その間に庭石は3人がかりで持ち上げられ、現れたのは黒く湿った苔と土だけだった。
「やはり地中に埋まっているのだろう」
青藍さんは宦官らとともにその場を離れ、地面を掘り起こす道具を探しに行った。
結果、小島には私と陛下のふたりが残された。
私は腕に手記と宮城図を、陛下は蘭王の姿絵をそれぞれ抱え、そびえ立つ大きな山桜を見上げる。
そのとき私たちの間を、意思をもったような風が吹き抜けた。
白い花吹雪が、赤みを帯びた薄青色の空を舞い、私たちの頭に降りかかる。
背筋が冷たくなるほど美しい光景に、私はつぶやいた。
「……ここから、蘭王の遺体が出てくるんでしょうか?」
「いや。それはないはずだ」
どうしてそう断言できるのかと不思議がっていると、陛下は困ったような顔をこちらに向けた。
そして小さく開いた唇から「知らなかったのか」と低い声でこぼす。
「……聖人はいずれ元の世界へ帰還する。そなたたちは聖人ではないが、同じように時が来ればこの世界から消えてしまうだろう。思えば蘭王の遺体が消えていたのは、その証拠だ」
「……え」
胸を殴られたように心臓が大きく打ち、どくどくと鳴り続けた。