謎の多い男②
「どうしよう道子さん!もし本当に紫雲さんが陛下の───……」
助けを求めるように顔を上げると、道子さんは片ひじで頬づえをついていた。
「王籍から外され、心に孤独を秘めた美貌の皇子……」
手のひらに乗せた顔をかたむけ、うっとりとした眼差しで天井を眺めながら、何やら口ずさんでいる。
「やがて成人した皇子は、かつて得られなかった母の愛を求め、さまざまな女性との愛に溺れるのです」
「……ん?」
全く噛み合わない話に首をかしげると、道子さんはようやく私と目を合わせて言った。
「────っていう物語、どうですか?」
「……はい?」
質問の意味がわからず眉間のしわを深くする私に、道子さんはほほえんで返した。
「トウコさんにならって、私も物語を書いてみようかと思いまして。紫雲さまをモデルにした主人公の、後宮恋愛小説」
「あー……」
好奇心にきらきらと光る目を見て、これまでの話が全て、彼女お得意の妄想だったことを悟った。
「急に紫雲さんの話に乗ってきたのは、創作のためってわけね……」
「ええ。トウコさんから紫雲さまの話を聞いた日の夜、突然降りてきたんです。この物語が」
道子さんの主である尚子さまが覇葉国へやってきて、とうに1年は過ぎている。
日に日に通訳としての役目が減っているのを感じた道子さんは、後宮での新たな勤めを模索しているのだという。
半笑いで呆れる私を前に、今度は道子さんの表情がだんだんと曇っていく。
「……だめでしょうか?やはり流行をおさえるなら、男性同士の濃密な────」
顎に手をやって考え込む道子さん。
こうやって周囲が見えなくなってしまうのは彼女の性らしいが、私も人のことは言えないだろう。
「いや……男女の恋愛でいいと思うよ。紫雲さんがモデルなら皆喜びそうだし。私も読んでみたいな」
むしろ彼女が書くBLも読んでみたいという欲望をこらえて言うと、道子さんはほっと表情をゆるませる。
そして私は、前々から感じていた道子さんの“正体”について思い巡らせた。
私にはどうも、彼女が“ここに来てはいけない重要人物”のような気がしてならない。
なぜなら、もし彼女がこの国で歴史に残るような名作を書いても、それはもはや日本文学ではない。この覇葉国の文化となってしまうからだ。
日本にとってこれほどの痛手があるだろうか。
だからといって、その傑作小説を生み出すなというのも酷ではあるのだが。
「ただ、ひとつ気がかりがあるんです……」
道子さんの声色は、また沈んでいる。
「なに?」
「私、この国の詩がよめなくて……」
「あれ。漢詩は得意なのでは?」
「もちろん幼い頃から学んできましたし、好きな詩も沢山ありますよ。ただ『読む』と『詠む』には天と地ほどの差がありますから」
と、日本人らしい言葉選びで道子さんは吐露した。
「たしかに漢詩って難しいよね。韻を踏んだり、文字数もぴったりじゃないと駄目だし」
私はかつて「紫雲さんの美貌を称える詩」を強制的に詠まされた経験があるが、あの時は完全にルール無視の散文しか生みだせなかった。
「ええ。ただそれ以上に厄介なのは、その土地の人間にしかつかめない感覚や、古来より形成されていった感性。それらは外部の人間からすれば“暗黙のしきたり”のようなものです」
「なるほど。その国の人にしかない感性ね……」
たとえば私たちは「夏の終わり」という言葉を見ただけで、胸の奥をきゅっとつかまれたような切なさにおそわれる。
儚いオレンジ色の空やひぐらしの泣き声、頬に触れる風の生ぬるさ、匂いまでもを共有できてしまう。
詩というのはそういう感性の共鳴に頼る技法で、それは技術として習得できるものではない。
その点で外国人が詩を詠むことは難しいのかもしれない。
とはいえ、この後宮で紫雲さんが和歌を詠みはじめるのもおかしいし、どうしたものか……。
「じゃあ────いっそのこと、舞台を日本の後宮にしたらどうかな?」
「日本の……ですか?」
道子さんはちょっと不服そうな顔で聞き返す。
「もちろん覇葉国が舞台の方が華やかで面白いって私も思うよ。文化のレベルもケタ違いだしね。でも、尚子さまもそろそろ日本が恋しいだろうし。ここで暮らす人たちは、むしろ異国の後宮の話に興味がわくんじゃないかと思って」
黒く涼やかな瞳が、だんだんと大きくなる。
「それは……盲点でした」
読者のほとんどはこの後宮で暮らす覇葉人。しかも城壁からほとんど出ることなく一生を終える人たちだ。
何の因果かここへ来てしまった道子さんが書くべきなのは、彼女たちの知らない世界の物語ではないか。
「良いですね。日本の宮中のことなら東櫻宮の皆さんがよく知っていますし、官職を賜った父や弟にも文で聞いてみましょう」
そもそも道子さんに物語を書くのを提案したのは、主の尚子さまらしい。
そんな尚子さまを楽しませるような物語を書きたいのだと道子さんは語る。表情から迷いが消え、目はいつもの輝きをとりもどしていた。
私は続けて提案する。
「せっかくだから主人公の名前も日本風にしてさ。もっとこう……目立つような。きらきらしてる感じの」
「輝くような名前……ですか?」
「そう。暗闇で輝くような」
なにも私は、この先千年読まれ続ける傑作の誕生を諦めたわけではない。生じてしまった歴史のゆがみは、少しでも正してやらねば。
「では……輝夜とか?」
「いや、そっちじゃなくて」
『そっち』とは一体?という空気をビシビシ感じるが、腕を組んで考えるふりを決め込んだ。
「……光る?」
「わ!それすごくいい!」
私は手をぱちぱちと叩いて称賛する。
紫雲さんがモデルだという主人公にふさわしいキラキラネームの誕生に、私は謎の達成感に包まれた。
「道子さんの書く後宮小説、すごく楽しみだな」
私にできるのはここまで。
あとは道子さんの文才と感性に任せるが、彼女ならきっとやってくれるはず。
そして、いずれこの光る君の物語(仮)を日本へ逆輸入してしまえば、日本文学の至宝は守られる……かもしれない。
* * *
夕食後から始まったおしゃべりは夜更けまで続き、二更(午後9~10時)の合図が聞こえる頃に、道子さんは自分の宮へ帰っていった。
もうすぐ消灯だ。湯あみをしてさっさと床につく時間なのだが、私はいそいそと外出着に着替えはじめた。
「娘娘、どうされたのですか?」
「ちょっと清龍殿へ行ってくる。陛下に急ぎで伝えたいことがあって」
「ええ!?こんな時間に……」
ついて来ようとする鈴玉ちゃんを押しとどめたが、夜道は危険ですからせめてと、ちょうど炭を運んでいた若い宦官を伴うことになった。
彼に灯籠を持たせ、まだ冷え込む夜の宮廷へ出た。
清龍殿へ着いて、謁見を許されたのは30分ほど待たされたあとだった。
呼びに来たのは青藍さんとは別の側近で、案内されたのはいつもの執務室ではなくその隣の大きな扉の前だった。
まだ残業中かと思いきや、今夜の陛下はもう寝る予定だったらしい。
扉が開き、国王の寝室に足を踏み入れる。
暖かく湿った空気にのって、まろやかな香りがただよってきた。
大きな寝台の横にある長椅子の上でくつろいだ陛下は、白い寝間着に灰色の上着を羽織っている。
「お休みの時間に……申し訳ありません」
私は扉の前で両手を組んで深く頭を下げ、床を見つめながら言った。
「私的な場所ゆえ、かしこまらなくて良い」
顔を上げると陛下は「おかしな奴だ」とでも言うように笑っていた。
不自然なほどかしこまっていたことに気づいて、顔が熱くなる。
それは陛下がいつもより大人っぽく見えたせいだ。
「あの……ようやくわかったんです。だから、どうしても先に陛下にお話ししたくて」
うながされるまま私は部屋の奥へ進み、陛下の隣に腰を下ろした。
そして目の前の机に蘭王の手記をそっと置く。
「わかったのか?あの暗号の意味が」
陛下は目をみはってたずねる。
私は唇の両端に力を込めてうなずいた。
「まだ確証はありません。ただ、さっきまで東櫻宮の侍女と話をしていまして、その中である仮説が思い浮かんだのです」
やはり道子さんは天賦の才をもつ女性だと私は思う。
結局、この謎について話題にすら出していないのに、ヒントをくれたのだから。
そんな彼女が不運にもこの国へ来てしまったことに、もしも意味があるとしたら、こうして何の才もない聖人を助けるためかもしれない。
「あの文章を解読する前に、まずは蘭王の“正体”について、お話しさせてください」