蘭王の手記②
『龍の御殿で髪に花弁がのると、そなたは崩れるさまにおびえて逃げ出すだろう。しかし香りに誘われふり返れば、私はそこで、いつまでも待っている』
蘭王の手記に書かれた謎のメッセージ。
これが消えた遺体の場所を示すヒントだと予想した私たちは、この暗号じみた文章の解読をこころみた。
「『龍の御殿』が示すのが後宮として、『髪に花弁がのる』とあるから、たぶん近くに花の咲く木があるんですよね。花園とかでしょうか?」
私が言うと、向かいに座る紫雲さんも頭をひねった。
「花が多いのは花園ですが、樹木自体はどこでも植わっていますからねえ。トウコさんの屋敷にも桃の木があるでしょう?」
「そう、ですね……」
「案外、桃華宮にいるかもしれませんよ?」
目を細めて口角を上げる紫雲さん。
私は身震いする。
「ちょっと、怖いこと言わないでください!」
知らぬうちに遺体がそばに埋まっていたなんて想像すれば、誰だって気味が悪い。
顔をこわばらせる私を前に、紫雲さんは曲げた指を唇にあててくすくすと笑った。
「……あれ。でもよく考えたらありえませんよ。うちに桃の木が植えられたのは最近なんですから」
桃華宮の桃の木は、私が来てから陛下に賜ったものだ。蘭王の時代には当然存在しない。
思えば蘭王がいた当時の後宮と、今私たちが住んでいる後宮。植わっている木は異なるはずだ。
こんな単純なことになぜ気づけなかったのか。
「青藍、当時の宮廷の配置図を持ってきてくれ。さすがに花木までは記載されておらぬだろうが」
陛下が言うと青藍さんが「御意」と言って立ちあがり、執務室の壁一面に広がっている巨大な書棚の一角へむかった。
いくつもの巻物が積み重なっているあたりに、歴代の宮廷の配置図があるらしい。
てきぱきと動く青藍さんの背中をふり返りながら、紫雲さんが言った。
「花の名前も不明確ですが、そのあとの『崩れるさま』とか『香りに誘われ』とかもよくわかりませんね。いったい何が崩れたり、香ったりするのでしょうか?」
彼の言うとおり、序盤はまだ『花弁』とあるから何らかの花と推測できるが、以降はその主語すらわからない。
私は目を閉じ、言葉の示す情景を想像してみる。
『崩れる』といえば……石段が崩れる?塀が崩れる?
それとも化粧が『崩れる』や関係が『崩れる』というのも……いや、覇葉国はそんな表現はしないだろうか。
後宮で『香る』といえば、そこらじゅうで焚かれる香だが、昼時には料理の香りもただよってくる。
……と、考え出すときりがない。
私は話を戻すことにした。
「まずは最初の『花』が何かをつきとめましょう。蘭王が好きな花とか、縁のある花ってありましたっけ?」
「南国の花。扶桑を好むと『蘭王妃伝』には書かれていましたが」
「ああ、そうでしたね」
南国の花やら獣の毛皮やら、蘭王はとにかく派手好きだという話だった。
扶桑というのは、今でいうハイビスカスのようだ。しかしハイビスカスの花弁が散って人の頭に落ちるさまは、想像しがたい。
そんなことを考えているうちに、青藍さんが宮城図を手にこちらへ戻ってきた。
布でできた巻物を机に広げれば、かつての宮廷の構成があらわになる。
ただし「配置図」という名の通り、詳細な地図とはほど遠いものだった。
細い線で区切られた敷地ごとに、簡易的な楼門のイラストと建物の名称が書かれているだけ。
外廷には「内侍省」「尚薬」などの官庁、内廷には「清龍殿」「白椿宮」などの邸宅が並んでいる。
「宮の名前は違いますけど……大まかな配置は、今とほぼ同じなんですね」
私のつぶやきに紫雲さんが返した。
「ここは大きな宮城ではありませんし、塀で細かく区切られていますから。大がかりな改装はできないのでしょう」
「花園の場所も今と同じか……」
花園の場所には池や柳の木らしきイラストはあるが、さっき陛下が言った通り、どこにどんな花木が植わっているかは描かれていない。
後宮の花は当時の流行や国王の好みでポンポンと植え替えられてしまうものだ。
蘭王の言う『花』がどこにあったのか、やはりこの宮城図だけでは読みとれない。
「花園じゃないのかな……。蘭王が住んでいたのはどこですか?」
「王妃だから、亡くなった当時はこの『鳳凰宮』にいたはずだが」
青藍さんがそう言って指さしたのは、この清龍殿のすぐ北側。今も蔡王妃と薫林王女が住む場所だった。
妃の宮は主人が入れ替わるごとに名前を変えるが、王妃が住むこの鳳凰宮だけは同じ名が引き継がれている。
「……あ。そういえばこの宮。『紅梅宮』というからには、梅の木が植わっていたんですよね?」
私は鳳凰宮の西側にある小さな宮を指して言った。
妃の住む屋敷にはすべて花の名がつけられており、庭にはその花が植えられている。かつて紫雲さんに聞いた話を思い出したのだ。
「ええ。昔からその風習はあったはずです」
梅、椿、桜、牡丹、菊……
妃の住居の名に着目すれば、宮城図の中からさまざまな花の名が浮かび上がってくる。
「もしかして手記が示す花は、妃の宮に咲く花なのでは?」
蘭王のメッセージが後世の者にあてられているのであれば、この宮城図だけでも場所が読めるようになっているはず。
「なるほど。何の花かさえ見当がつけば、おのずと場所も見えてきますね」
紫雲さんが身を乗り出し、宮城図を覗き込んだ。
その目が思いのほかキラキラと輝いていて、私はちょっと萎縮してしまう。
「ええ。まあその花の名がわからないんですけど……」
やはり肝心な部分は、手記から読みとるしかないのだろうか。
私は両腕を組んで天井を見上げた。
「……?」
やけに視線を感じて頭を戻すと、紫雲さんと青藍さんが私の顔をじっと見つめている。
その表情は不安と期待が入り混じっていて、私の発言を今か今かと待ちかまえているようだった。
「何ですか?ふたりも真面目に考えてくださいよ!?」
私が諭すと、紫雲さんが困ったようにほほ笑んで言った。
「もちろん考えていますよ?でも我々がどれだけ知恵をしぼっても、最終的に答えを導きだすのはトウコさんですし」
「……え、何でそんな」
なげやりな態度……というより、いきなりのメタ発言に私は困惑した。
「だって、これまでずっとそうでしたし……。何よりトウコさんは“聖人”なんですから。一般人の我々では太刀打ちできませんよ」
もはや開き直って笑う紫雲さんに、隣で青藍さんもしぶしぶといった表情でうなずいた。
「……」
返す言葉がない。
もしも本物の“聖人”が目の前にいたら、当然そうなるだろう。
しかし今はその“聖人”という言葉が、鉛のような重さで私の両肩にのしかかる。
これまで運よく後宮の問題を解決してきたが、それはむしろ不運だったのかもしれない。
今すぐ両手で目の前の机を叩き、「私も同じ“一般人”なんです!」と叫びたい気分だった。
「私たちはトウコさんの手足として、何でも協力しますから。落ち着いてじっくり考えてみてください」
私の葛藤など知る由もないふたりは、あろうことか私をこの場に残して去ろうとする。
「あ、あのっ……」
冗談じゃない。こんな問題、私ひとりで解けるわけがない。
私が椅子から身を乗りだそうとしたとき────視界の端に、膝の上で握られる陛下の拳が見えた。
誰よりも大きな重荷を抱える小さな拳を、私はどうしても見過ごすことができない。
「あの……がんばりま……す」
私は浮かせた腰を落とし、尻すぼみな声でそう言った。
そろって執務室を出ていくふたりの背中を、視線だけで見送る私と陛下。
「トウコ……すまない」
「いえ。いいんですよ」
痛々しいほど沈んだ声に、私は乾いた笑顔で返す。
そして頭をガシガシと掻いてから、蘭王の手記ともう一度向き合った。
────もしも本物の聖人だったら、これを見た瞬間から蘭王の居場所が分かるのかな?
そう考えるとため息ばかりが出る。
これまでの私は、自分が裸同然なことを知らずに戦場へ向かっていたようなものだったのだ。
今は勘違いでもいいから、自分が聖人だと信じていた頃に戻りたい。