沙羅妃の日記④
「日付です。沙羅妃は2冊目の日付を後にずらして書き直させたんです」
「日付……?」
日記を指さして言うと、紫雲さんが疑わしげに眉を寄せてこちらを見た。
「はい。ずらしたのも1日やそこらじゃない。1ヵ月……いやもっと、2ヵ月かもしれない。たとえば9月にあった出来事を11月のこととして書き直した。だから空白の1ヵ月が生まれたのだと思います」
「なぜそんなこと……」
なおも疑問の消えない3人に、私は日記を再度読みあげた。
「『10月3日 今夜は初めて陛下がいらっしゃる』『10月28日 朝からめまいがある』『11月1日 妊娠かもしれないと』…… 」
紫雲さんの目がしだいに丸く大きく開いていく。
「まさか……妊娠した日を……?」
私は慎重にうなずいた。
証拠がないのだから、断言するには正直心もとない。
しかしこの推測通りに考えれば、この日記にある違和感のほとんどに説明がつくのだ。
「青藍さん。お渡りの日は房中録に記録されるから、日記に嘘の日付を書くことは不可能ですよね?」
いきなり話をふられた青藍さんがはっとして口を開く。
「……そ、そうだな。たとえ日記に偽りを書いたとしても、あとからいくらでも調べはつくが……」
「だから少なくとも『10月3日 今夜は初めて陛下がいらっしゃる』は事実だったんでしょう。でもその前後の体調については彼女しか知りえませんから、嘘を書いたとしてもばれません」
「ではもし妊娠の兆候が、お渡りの前からあったとしたら……」
紫雲さんの言葉に、陛下と青藍さんが目をみはった。
2人も気づいてくれたようだ。
「はい。それが1冊目と2冊目の間に約1ヵ月の空白があった理由です」
性行為から妊娠の兆候が出るまで、どのくらいの期間があくものなのか、私は経験がないので知らない。
ただこの日記に書かれているように、ひと月弱で出るのものだと考えれば────。
私たちはパズルを埋めるように、空白だった8月28日から10月2日までの期間に、2冊目の内容をあてはめていく。
沙羅妃にはじめてつわりの症状が出たのは『10月28日』と書かれている。
しかし実際にはその2ヵ月前の『8月28日』の出来事だったとしたら?
それは沙羅妃が国王と初めて夜を共にする1ヵ月以上前のことだ。
「聞くまでもありませんが、もし一度もお渡りのない妃が身ごもってしまった場合、どうなりますか?」
「それは……」
言葉を詰まらせる青藍さんに変わって、紫雲さんが答えた。
「特に規定はありませんが、妃の処分は基本的に王妃や太后に委ねられます。不義があった証拠ですから、母子ともに死罪になることも十分ありえますね」
最後の一言は陛下に向かってのべられた。
陛下は居心地悪そうにうなずいてから、しぶしぶといった様子で口を開く
「もちろんやむを得ない事情があれば考慮される……と思う。ただ異国の妃がそうなってしまえば、理由はどうであれ、母国と我が国の間に大きな軋轢は避けられないだろう」
陛下が断言したおかげで、私たちは確信した。
これこそが日記に隠された、“命に関わる”秘事。
沙羅妃にとってこの予期せぬ妊娠は、絶対に隠さねばならなかったのだ。
私は改めて自分の推論を整理する。
「沙羅妃は国王との初夜を迎える前に、別の男性の子を身ごもってしまった。処分を恐れた彼女はそれを国王の子と偽ることにしたんです。でもある日、書き続けていた日記から、その嘘がばれてしまう危険性に気づいた。だからこうして日付を変えて書き直したのではないでしょうか」
日記を処分することを選ばなかったのは、逆に怪しまれると思ったからなのか。
それとも、何か残しておきたい理由でもあったのだろうか。
いずれにせよ、今彼女の魂がこの日記に宿っているのは、ここに重大な秘密が隠されている証拠だ。
私は机の上で、日記の最後のページを開き指さした。
「これ、『12月2日』と書いてありますけど、本当はその2ヵ月前の10月2日、国王との夜伽の前日に書かれたものだとしたら……」
そこには本来、離宮へ追いやられた厳しい境遇と、出産への不安がつづられていたはずだった。
しかし日付を変えただけで、その文章のもつ意味は全く異なってくる。
『この子が無事に産まれてくるのか、生きていけるのか、とても不安。この気持ちはお腹の子にも伝わってしまうのだろうか。だけどすべてがうまくいったら、どんなに幸せだろう。愛する人の子を産むなんて、一生叶わないと思っていたのだから』
この最後の一文に対する違和感の正体に気づいた。
『愛する人』
10代の沙羅妃が、父親ほどの年齢の国王を果たしてそう呼ぶだろうか?
そこにはまるで密かな恋心が実ったような、ささやかな情感が感じられる。
「……」
日記に隠されていた罪の重さに、清龍宮が沈黙につつまれた。
青藍さんが額に手を当てて言う。
「つまり沙羅妃は自分の不義を隠すため、妊娠の兆候が出た8月末から10月頭にかけての日記を、10月末から12月頭の出来事として書き直した……ということか」
「はい。2ヵ月うしろにずらしたので、実際の空白期間も2ヵ月あったんです。10月の日記のペースが落ちているのは、そのせいかと」
夜伽のあった『10月3日』からいきなりひと月ほど空白期間があっては、さすがに不自然だ。
だから10月の内容の大部分は、空白を埋めるため適当に書いたのだろう。
「お渡りの日もそうですが、離宮へ移された『11月4日』もおそらく事実でしょう。沙羅妃が妊娠を公にしたのは日記の通り11月だと思いますから」
屋敷の移動にはそれなりの準備が必要なうえ、多くの注目を集めたはずだ。これも偽るのは難しい。
「日記によると、まだ懐妊したかどうか定かでない時期に離宮へ移ったことになっていましたが、実際は最初のつわりから2ヶ月以上経っていた。お腹も膨らみはじめた頃じゃないですかね」
そうなると、妊娠の時期を偽るのがこれまでより難しくなってくる。
であれば沙羅妃にとって、人目に付かない離宮へ移されたことはむしろ好都合だったのかもしれない。
「……まさかこの後宮で、そんな不義がおこっていたとは」
青藍さんは額を押さえたまま顔をしかめる。
沙羅妃をなじるべきか憐れむべきか。葛藤が声色にもにじみ出ていた。
今この部屋にいる全員が、おそらく同じ気持ちだ。
こうして日記の秘密を暴いてみれば、私たちが沙羅妃に抱いていた印象はがらりと変わってしまったのだから。
そして新たな疑問が生まれてくる。
沙羅妃はなぜ不義を犯してしまったのか?
お腹の子の父親は誰?
しかし最も気になるのは、離宮での彼女の死についてだ。
史実と風説によれば彼女はその後、嫉妬した蘭王によってお腹の子と共に殺された。
しかし実際には、殺されたのは国王の子ではなかったのだ。
私は日記をとじて、語気を強めた。
「沙羅妃と親しかった蘭王は、この秘密を知っていたんじゃないですか。彼女が沙羅妃を離宮に移したのは、嫌がらせなんかではなく、むしろ守るためでは?」
「でも、蘭王は後に沙羅妃を……」
「────本当に殺したのか?」
紫雲さんに続いて口を開いたのは陛下だった。
「蘭王は、本当にその妃を殺したのだろうか……」
「……」
不安げでありながら芯をついた問いに、返す言葉のない私たち。
史実によるれば沙羅妃を殺した犯人はわかっていない。
蘭王自身も関与を自供こそしていないが、否定もしていなかったそうだ。
うつむいていた陛下の顔がゆっくりと持ち上がる。
「やはりわたしは……蘭王があの芝居のように残虐な人間だとは、どうしても思えぬのだ。民のための政をいくつも成し遂げた彼女が……」
そう語る陛下の横顔に、東京の街で見た陛下が重なった。
ひとえに国と民を思いやり、それゆえ葛藤する強い眼差し。
「陛下……」
蘭王はこの国で最も恐れられ、忌み嫌われた女性だと、誰もが噂する。
そんな蘭王に憧れを抱き、唯一信じ続けていたのが憂炎陛下だ。
ひとつひとつに重みのある陛下の言葉には、彼の信念が見え隠れしていた。
「私も……そう思います。沙羅妃に秘密があったように、蘭王にも別の顔があったんじゃないかと」
人は強烈な印象を受けた時ほど、視野が狭くなる。
これまで私たちは蘭令華という女性の、切り取られた一面を見ていたにすぎないのではないか。
そして私は確信した。
あの時陛下が言っていた『彼女の本当の顔を見てみたい』────それを叶えるときが来たのだと。
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