沙羅妃の日記③
ふたつの日記の謎について考えていると、部屋に強めのノック音が響いた。
扉はこちらの返事を待たずに開き、入ってきたのは青藍さんだった。
「ふたりとも、至急清龍宮へ来てくれ」
急いだ様子に、不安が頭をよぎった。
「陛下に何かあったんですか?」
「いや、陛下から話があるだけだ。例の……蘭王について」
私と紫雲さんは顔を見あわせ、目下の日記を腕に抱く。
そのまま青藍さんのあとをついて仏殿を出た。
清龍宮の寝殿へ上がると、陛下が執務机の前にひとり立っていた。
落ち着きのない様子で、表情からも焦りがうかがえる。
「今朝、蘭王の陵墓から使者が戻ったのだが……幽鬼に関係しそうなものは何も見つからなかったそうだ」
「……そうですか」
私たちは長机をはさんで椅子に腰かける。
「ただ……」
言いかけると陛下は視線を落として、小さなため息をついた。
「念のため、蘭王の棺の中を確認させたところ……彼女の亡骸が無かったと」
「────ええ!?」
私と紫雲さんは同時に声を上げた。
「それっていわゆる、墓荒らしとか……?」
たしか彼女の墓には棺とともに多くの財宝が眠っているはずだ。
墓荒らしや盗賊に狙われるのを防ぐため、陵墓の場所は非公開となっている。
「わからぬ。中の宝物はすべて無事で、荒らされた様子もなかったらしい。それに隣にあった夫の正憲国王の棺には、白骨化した亡骸が入っていた。ただ蘭王の棺にだけは、骨の1本も残っていなかったという」
「じゃあ蘭王の遺体だけが盗まれた、もしくは消えたってこと……」
「……」
陛下がうなだれたまま顔を上げない。
まるで自分の過ちをとがめられているようだった。
その隣に座る青藍さんが、こちらをギロリと睨む。
「この件は他言厳禁だ。陛下と、国家に対する信用にかかわる」
「あ……はい」
国王の墓から王妃の遺体が消えたとなれば、それが蘭王でなくとも不吉この上ない。
それにこのままでは、陛下は祖先を守れぬ不孝者ということになってしまう。「孝」を重視する覇葉国の君主として、この醜聞は痛い。
だから青藍さんもこんなにピリピリしているわけだ。
「今度は蘭王が消えるなんて……。まだこちらの問題も解決していないのに」
紫雲さんはため息をついて、持っていた沙羅妃の日記を長机に置く。
「あ……」
急に陛下が顔を上げ、私たちのいる方向を丸い目で凝視する。
「どうしました?」
たずねると、陛下は目線を動かさずつぶやいた。
「誰だ……」
私は後ろを振り向き、はっと息をのんだ。
書棚の前に、白い衣をまとった金髪の少女が立っていたのだ。
『レイカ……』
少女はつぶやいた。
その顔は先日と同じように紫雲さんの方を向いている。
私は机の上を確認した。水色の日記が変わらぬ姿でそこにある。
彼女はいつの間にここから出てきたのだろうか。
「何だ、あれは……」
警戒して立ち上がろうとする青藍さん。
それを制止するように、紫雲さんが腕を伸ばして言った。
「沙羅妃の幽鬼です」
普通の人間には見えないはずの幽鬼が、私たちの目にもはっきりと映っている。
それは遺恨の強さゆえだ。
思えば彼女がこうして姿を現すのは、決まって蘭王の話題を口にした時だった。
「これが……幽鬼なのか」
陛下は沙羅妃を見つめたまま、感嘆の声をもらした。
その瞳に恐れはなく、ただ未知の者に出会った驚きに満ちていた。
『どこへ行ったの?……レイカ……』
何度も聞いたその言葉の意味が、ようやく私の中で腑に落ちる。
「……“いない”って……そういう意味だったの?」
私が問いかけると、はじめて沙羅妃がこちらを向いた。
涙をいっぱいためた青い瞳がゆれている。
『おねがい……レイカを、さがして……』
沙羅妃はそうはっきりと私に懇願した。
「あなたは蘭王の遺体がなくなっていることを、知らせるために……」
沙羅妃がしきりに探していたのは生前の蘭王ではなく、いまも墓の中で眠っているはずの亡骸だったのか。
「蘭王の遺体を見つけない限り、沙羅妃の魂は現世をさまよい続けるでしょうね」
紫雲さんの言葉に、沙羅妃はこらえていた涙をこぼす。
そして私たちの視界から、風のように消え去った。
* * *
「蘭王の件だが、棺の中には遺体の代わりに気になるものが入っていたらしい。明後日にはここに届くはずだ」
陛下の表情はすこし明るさを取り戻していた。
はじめて幽鬼を目の当たりにしたせいだろうか。
「気になるものとは?」
「簡単な手記だと言っていた」
今朝帰還した従者は、遺体消失の一報を知らせるために早馬を走らせた者。本部の馬車は今も王都へ向かっている最中らしい。
「では先にこちらを考えてみましょうか。消えた遺体と何か関係があるのかは、わかりませんが」
紫雲さんはそう言って2冊の日記を並べ、陛下と青藍さんに沙羅妃の謎について説明した。
「これが……同じ300年前の書物なのか?とても信じられん」
青藍さんが眼鏡のふちをつまんで2冊目を凝視する。
「この新しく見える方に、さっきの幽鬼が宿っていると思われます。そしてこちらだけがなぜか、別人によって書き直されているんです」
幽鬼を目の当たりにした以上、2人が紫雲さんの話を疑うことはなかった。
陛下が首をかしげる。
「ただの日記をわざわざ書き直すとは、一体どんな事情が?」
「おそらく何かの記述を変えるためだとは思うのですが、それが何かを考えてほしいのです。この日記におかしいところはありませんか?」
2人は日記を手に取り、慎重にめくっていく。
しばらくして青藍さんが口を開いた。
「9月がない」
「……はい?」
唐突な発言に私は思わず聞き返す。
「1冊目の最後が8月27日で、2冊目の始まりは10月3日。9月の記載がどこにもない。お前たちは気づかなかったのか?」
「……すみません。文系なもので、どうも内容ばかりに目がいって……」
気づかなかったのは、ちょうど月末に1冊目が終わって、次が月初に始まっていたせいもあるのだが。
しかし青藍さんの言う通り、1冊目と2冊目の間には1ヵ月ほどの空白があった。こんなに間があくのは、他の月にはなかったことだ。
紫雲さんも「9月は怠けていたんでしょうか。それとも抜かれた……?」と言って2冊目を手に取った。
しかし、せっかく他の月は書き直しているのに、9月だけ抜くのも妙な話だ。
「陛下は何か、気づいたことありますか?」
私がたずねると、陛下は首を左右に振った。
「わたしは日記をつけぬし、女子の考えることはよくわからぬ」
そう言われてしまえば元も子もない。
300年前に異国から嫁いできた少女が、何を思って毎日暮らしていたのか、この場の誰も知る由もない。
「だが、わざわざ他人に書き直させるとは、よほど都合が悪かったのだと思う。それこそ命の危機を感じるようなことが、元の日記に書かれていたのではないか?」
「命の危機、ですか……」
日記ごときにそんな話題が載るだろうか、と思いつつも、実際に沙羅妃は殺されているのだから安易に否定できない。
仮にそう考えると、やはり彼女を殺した蘭王が関係しているのだろうか。
私はひとまず失われた9月について考えようと、1冊目の最後のページと、2冊目の最初のページを並べる。
────空白の1ヵ月
全て書き換えられた2冊目
書き換えられなかった1冊目
そして、命にかかわる話題────
「あ……」
すべてに繋がる仮説が、ひとつ頭に浮かんだ。
それを確かめるため、それぞれの日記のページをめくって交互に見比べる。
背中を冷たい汗が流れた。
もしもこの仮説が正しければ、私たちは沙羅妃という女性を大きく誤解していたことになる。
そしてその誤解は、彼女の背後にいるあの人物にも及ぶはずだ。
「……わかったかもしれません。2冊目が書き直されていた理由────」