沙羅妃の日記②
次に私たちは2冊目、沙羅妃が宿っていると思われる方の日記を開く。
こちらは1冊目よりもずいぶんページが少ない。
『10月3日 今夜は初めて陛下がいらっしゃる。朝から湯あみに衣装選びに忙しいけれど、緊張がまぎれる。早く夜が来てほしいような、永遠に来てほしくないような。不思議な気持ちだ』
最初のページには、初めての夜伽を控えた少女の想いが赤裸々につづられていた。
当時の沙羅妃は16歳くらいだろうか。
2~4日おきに書かれていた日記のペースは、そこからがくんと落ち、10日に一度くらいになった。
忙しかったのか、それとも何か心境の変化があったのだろうか。
しかし月末頃からまたペースは戻った。
『10月28日 朝からめまいがあり、食欲がない。香の匂いも何だか気持ちがわるい』
『11月1日 侍医に診てもらった。月のものがすぐに終わってしまったと伝えたら、妊娠かもしれないとのこと。もう少し様子を見るようにと言われた』
彼女は妊娠による心身の変化を日記へ細かく書き記していたようだ。
『11月4日 明日、離宮へ移る』
沙羅妃の懐妊を知った蘭妃は、嫉妬心から彼女を離宮へ追いやったと言われている。
そこは後宮の端にある、管理の行き届かないさびれた場所で、身重の沙羅妃は不安な毎日を過ごしていたようだ。
最後のページはこう締めくくられている。
『12月2日 この子が無事に産まれてくるのか、生きていけるのか、とても不安。この気持ちはお腹の子にも伝わってしまうのだろうか。だけどすべてがうまくいったら、どんなに幸せだろう。愛する人の子を産むなんて、一生叶わないと思っていたのだから』
この日以降、沙羅妃は日記を書くのをやめてしまったようだ。
これで最後にすることを決めていたのだろうか。いつもより叙情的な文章になっている。
1冊目には頻繁に登場していたレイカの名前は、この2冊目のどこにもなかった。
やはり沙羅妃の懐妊をきっかけに、2人の中は険悪になったのだろうか。
そしてこの最後の日記から5ヵ月後、沙羅妃は離宮にて惨殺された。享年は17歳。
腹が大きく裂かれた彼女の遺体のそばには、小さな命が無残な姿で転がっていたという。
鬼畜としか言いようのない犯人が誰かは不明だが、指示したのは蘭王だと言われている。
紫雲さんが、読み終えたばかりの日記をもう一度開いた。
「この2冊目、1冊目と筆跡が微妙に違いますし、文字の間違いがやたらと多いですね」
「あ。やっぱりそうですか?」
「トウコさんにもわかります?」
「筆跡はわからないんですけど……頭の中で理解するのに時間がかかったんです。ただ、日記を書き始めた頃の文章も同じくらい読みづらかったので、特別おかしいとは思わなかったんですけど」
私の目にうつった外国語は、基本的にはすぐ頭の中で日本語へ変換されてしまうので、字の書き間違いや筆跡に気づくことは難しい。
しかし紫雲さんの目には、1冊目と2冊目の文章に明らかな違いが見えたようだ。
「筆跡もそうなんですが、何より書き間違いが妙なんです。形は似ていても、意味の全く異なる文字が書かれていたり、存在しない文字になっていたり」
日本語で言えば「秋田犬」を「秋田太」と書いてしまうようなものだろうか。
「まるで覇葉語に不慣れな人間が、お手本をまねて書いているような感じでしょうか」
「あ、そういうことか……」
私がつぶやくと、紫雲さんは顔に疑問符を浮かべた。
「私の言語能力って、ちょっと特殊なんですよ。書き手がその文章を理解していなければ、読んでも理解できないんです」
たとえば覇葉語を全く読めない人間が、覇葉語の文章を意味も知らずに書き写したとする。
その文章を私が見ても、頭の中で日本語には変換されない。
これは会話に関しても同じだ。
つまり私は、言葉を発した者の理解力を超えることができない。
発信者が意図していないことは、決して伝わらないようになっているのだ。
「とするとやはりこの2冊目は、読み書きが不得意な者が書いたんでしょうか……?」
徐々に覇葉語が上達していた沙羅妃が、後になってこんな書き間違いをするはずがない。
誰か別人が書いたと考えるのが妥当だろう。
だけど2冊目に書かれているのは、主に妊娠にともなう心身の変化だ。こんなデリケートな内容を、他人が想像して書けるとは思えない。
「さっき紫雲さんが言ったとおり、お手本をまねて書いたんだと思います。沙羅妃が書いた本物の日記が別にあって、それを誰かが急いで書き写した。そんなところじゃないでしょうか」
なるほど、と紫雲さんはうなずく。
しかし一体なぜ、誰がそんなことをしたのか。
「たとえば……我羅人の侍女が日記を汚してしまって、沙羅妃に見つかる前にこっそり写して差し替えたとか?」
私がまず思いついたのは、そんなところだ。
「日記を“差し替えた”というのはその通りかもしれませんね。現状、沙羅妃が書いた『本物の2冊目』が見つかっていませんから。でも“こっそり”はどうでしょうか。沙羅妃に見られた一発でばれませんか?」
「……そう、ですね」
他人の私たちでさえ気づいたのだから、書いた本人に隠し通すことなんて不可能だ。
「じゃあ沙羅妃が亡くなったあと……いや、それだと彼女の魂が宿ることはないか。むしろ沙羅妃本人が、書き写すよう頼んだとか……」
「あえて書き写させたと……?」
「写すというより、書き直させたのかもしれません。沙羅妃は自分で日記を書き終えたあとに、何かを修正したくなったんです」
やや強引な推理に、紫雲さんもはじめは疑心を浮かべていた。
自分の日記を他人に書き直させる事情は、正直私にもよくわからない。
しかし他の考えを除外していくと、その線はむしろ濃くなっていく。
「とりあえずトウコさんの説を採用するとして、沙羅妃は日記の何を変えたかったんでしょうか」
私たちはその「何か」を見つけるために、もう一度日記を読み込んでみる。
書き直しといっても、あらかじめ沙羅妃が書いていた日記をもとにしているのだから、内容自体に大きな変更はないはずだ。
その些細な変更点はどこにあるのだろう。
「そういえば彼女は2冊目の、まるごと全ページを書き直させたんですよね。それも不思議……」
何か修正をしたい項目があるのなら、該当ページだけ差し替えれば良い。
この日記は紐でとじただけなので、製本後であっても簡単に差し替えられるのだ。
しかも日記は毎日欠かさず書かれていたわけでもないから、どこかが抜け落ちていても違和感はない。
果たして全ページを、わざわざ他人の手を借りてまで書き直させる必要があったのだろうか。
「ところで、1冊目は全て沙羅妃の筆跡で間違いないんですか?」
「沙羅妃と断言はできませんが、筆跡は統一してますね。覇葉語に不慣れで、かつ教養のある若い女性の字に見えます。裏表紙の『沙羅』の記名とも一致しますし」
となると、1冊目はいっさい書き直さなかったということだ。
「2冊目は全て修正したのに、1冊目は変更すべき点が何もなかったと。それも妙ですよね」
私たちは2つの日記を並べ、見比べてみる。
1冊目は、春から夏。友人のレイカや気の合う側近と過ごす楽しい日々がつづられている。
2冊目は、秋から冬。身ごもった喜びと不安、離宮でひとり耐える日々が吐露されていた。
沙羅妃の幽鬼は2冊目に宿っているから、こちらに思い入れが強いのだろう。他人が書き直したものにもかかわらず。
「書き直した理由、やっぱり蘭王がらみのような気がするんですよね……」
沙羅妃と蘭王の関係性を考えれば、沙羅妃が日記から「レイカ」の話題を消したくなったと考えられる。
しかしそれならば、やはり全ページを書き換える理由にはならないし、何より1冊目には2人の思い出がしっかりとつづられている。
沙羅妃が日記の中で変更したかったもの。
1冊目にはなくて、2冊目の全てにあったものとは何だろうか?