沙羅妃の日記①
顔を合わせた紫雲さんは、拍子抜けするほどいつも通りで、昨日家にいた妓女(仮)のことは一切口にしなかった。
私が家に行ったことを知らないのか、それともあえて黙っているのか───。
そんなモヤモヤを抱えたまま、私は彼のあとについて仏具倉庫へ向かっている。
謎の幽鬼こと沙羅妃に再び会うためだ。
ちなみに返すはずだった『蘭王妃伝』はさっき手渡した。
たった数秒で済むことなのに、なぜ昨日の私はわざわざ家にまで行こうと思ったのだろう。
その理由は……今は考えたくもない。
「トウコさん、今日は何かイライラしてますね」
私の前を歩きながら、紫雲さんが言った。
「はい?」
若干トゲのある声で返したものの、のんきな声が返ってきた。
「もしや寝不足ですか?昨日お休みだからって遅くまで遊んでたんじゃ────」
「……」
────お楽しみだったのは自分のくせに!
今は紫雲さんの発する全てが煽りのように聞こえてしまう。
私は視線を床に落とし、ふてくされたようにこたえた。
「ああすいません、ちょっと生理で」
男を黙らせたい時の決まり文句だ。
……が、女慣れしている男の反応は違った。
「あ、そうだったんですね?もし体調悪ければ無理せずに……」
急に立ち止まって振り返った紫雲さんは、左手を私の肩へ置き、腰をかがめた。
「ちょっとっ……!」
私はあわてて手を払いのけ、パシンと高い音が鳴る。
何でこの人は、こういう時までムカつくくらい親切なんだろう。
しかも一番ありえないのは、一昨日あの妓女の色んな所を触っていた(かもしれない)手で、私に触れたことだ。
「……?」
そんな私の気持ちに気づく様子もない当人は、叩かれた自分の手を不思議そうな顔で眺めていた。
私は大きなため息をつく。
────いや、ありえないのは私だ……。
彼女でも何でもないくせに、勝手に嫉妬して当たるなんて。
まさに痛い女の典型ではないか。
オタク失格だ。自分で自分が気持ち悪い。
「ごめんなさい」と私はひとりごとのように呟いて、叩いてしまった紫雲さんの手をとった。
「もう大丈夫になりましたから、行きましょう」
両手で包み込み勝手に仲直りの握手を交わすと、ひとり置いて歩きだす。
「……ほんとに大丈夫ですか?」
……うん、若干引かれてる。
やっぱりこの人、押されると引くんだな。
かまわず進むが、「熱でもあるんじゃ……」と背後から小さく聞こえた。
* * *
「今日もいませんね……」
仏具庫に入るなり、紫雲さんはそう言って肩を落とした。
沙羅妃は私と対面したあの日から、ぱったりと現れなくなったという。
まだ幽鬼への恐怖心が抜けない私は、扉の前で紫雲さんの背中を見つめながら問う。
「成仏してしまった、という事ですか?」
「いえ。幽鬼というのはいつも姿を現すわけではなく、ふだんは物に宿っているんですよ。だからこの部屋のどこかに彼女の依り代があるはずなんです」
「その依り代を見つければ、また彼女に会えると?」
「可能性は高いです。なので今日はそれを探しましょう」
“依り代”だなんて、幽鬼というより神様みたいだ。
そんなことを思いながら、紫雲さんに続いて倉庫の奥へ進んでいく。
ここは仏具庫という名の部屋だが、じっさい保管されているのは仏具だけではない。
供養すべき故人の遺品で行き場のない物たちが、半ば押し付けられるような形でおさめられている。
「彼女が蘭王の時代の妃であれば、遺品はおそらくこのあたりかと」
示された先は、この倉庫の中でも特に古いものが集まっているようだ。
エリアは絞られたものの、それでも私が両腕を広げたくらいの棚3つ分ある。
そこには書物やアクセサリー、衣やガラクタまでがぎっしりと詰め込まれているのだ。
「この中から、沙羅妃のものをどうやって見つけるんですか?」
途方のない作業を覚悟した私に、紫雲さんはほほえんだ。
「依り代となった物体は、魂が宿った瞬間から時が止まります。つまり何百年経っても劣化しないんですよ」
紫雲さんは棚に並んだ品を、端から順番に指でなぞっていく。
表面についたホコリやクモの巣が剥げて、元の色があらわになった。
物体の時が止まるなんて、そんなことあるんだろうか。
半信半疑ながら私も真似して、目の前にある書物の背表紙をなぞっていった。
10分ほどたった頃───
「───あ……紫雲さん、これ見てください」
濃い茶色に黄ばんだ書物の中に一冊だけ、きれいな水色を発見した。
取り出してみると、表紙は普段私たちが手にする書物と遜色ない鮮やかさで、中のページも白い。
「これは……日記みたいですね」
中を開くと、ページごとに日付と簡単な文章がつづられている。
1ページ目は「10月3日」という中途半端な日から始まっていた。
裏表紙にはご丁寧に「沙羅」の記名が。
ビンゴだ。
「ひょっとして、これも……?」
紫雲さんがそう言って棚に手を伸ばし、先ほどの日記の左隣にあった書物を手にする。
こちらはかなり劣化し表紙は黒ずんでいる。
中のページには茶色い染みが点々とあり、めくったそばからぼろぼろと崩れそうだった。
「変色してますが、こちらも同じ表紙を使っていますよ」
かつて水色であったであろう裏表紙を確認すると、こちらにもうっすらと「沙羅」。
1ページ目には「5月9日」という日付とともに「今日から日記をはじめる」という旨が書かれていた。
「じゃあその劣化した日記は、この綺麗なものの前に書かれたんですね、きっと……」
2冊とも同じくらいホコリを被っていることから、同じ期間この場所にあったことは間違いないだろう。
しかしいったいどんな技術を駆使したら、このひどい環境で300年、1冊の本だけを劣化させず保てるというのか。
「沙羅妃の魂は、その綺麗な方に宿っているようですね」
紫雲さんに断言されたとたん、手の中の日記がずっしりと重くなった気がした。
「これが、依り代……」
しかし、肝心の沙羅妃は私たちの前に現れる気配がない。
「とりあえず、この日記を調べてみませんか?何かわかるかもしれませんし」
紫雲さんにうながされ、私たちは2冊の日記をもって仏具庫を出た。
さっそく執務室に戻ると、まずは劣化した1冊目を開いてみる。
日記と言えども、中身はSNS程度の短文ばかりだった。
紫雲さんも読めるというから、覇葉語で書かれているらしい。
我羅国出身の沙羅妃が、まだ慣れない覇葉語で一生懸命に書く様子が頭に浮かんだ。
最初のページにはこう書かれていた。
『5月9日 わたしははじめて友ができた。なまえはレイカという。レイカはとてもかしこい。でも、わたしは覇葉語がへた。レイカから日記をかくべきと言われた』
「……レイカって、蘭王のことですよね」
「おそらく」
沙羅妃が日記を書くきっかけになったのは、のちの蘭王こと蘭令華だったらしい。
さらに読み進めると、2人の関係性がうかがえる。
『7月27日 レイカから氷菓子をもらった。でも、レイカは昨日からおなかを壊してしまったようだ。溶けてしまうので羊と食べた。とても冷たくておいしかった。レイカと食べられなくて残念だ』
少しずつ上達する覇葉語と、蘭令華との友情が育まれるさまが見てとれた。
1冊目最後の記述はその1カ月後だった。
『8月27日 夏が終わり、少しずつ涼しくなってきた。そのせいか、もう眠たくなってきた』
この日は眠くて書くことが思いつかなかったようだ。
「沙羅妃はかつて、蘭王と仲の良い友人だったんですね」
昨日読んだ『蘭王妃伝』のファンブックによれば、沙羅妃はこの翌年の4月ごろ、妊娠中に蘭王の手の者によって惨殺される。
さらに蘭王はその直後にも、沙羅妃に仕えていた宦官を1人殺していたそうだ。
隣で紫雲さんが口を開く。
「まあ、友人と思っていたのは沙羅妃の方だけだった、という可能性もありますが」
「……確かに」
蘭王の悪女ぶりを知っていれば、それも否定はできない。
日記を読む限り、沙羅妃はとても素直な少女だったようだ。
そのうえ覇葉語も不得意なら、誰かの策略にハマりやすい面もあったかもしれない。