赤い花鈿②
桃華宮に戻り寝台に腰を下ろすと、とたんに両肩が重くなって背中から倒れた。
まぶたの裏には、あの散らかった部屋と女性の妖艶な眼差しがよみがえってくる。
少し冷えた頭のなかに、疑問がいくつも浮かんできた。
────どうして先客がいるっておじさんは教えてくれなかったの?
部屋に女性がいるのは日常茶飯事なの?
それとも、もう家族同然の仲ってこと?
考えだすとキリがなくなって目を開ける。
視線の先には、返し損ねた『蘭王妃伝』の本がシーツの上に置かれている。
そういえば昨日、街からの帰り────
“『明日はお休みをいただいて良いんですよね?』”
紫雲さんは休暇を気にしていた。
あれは、あの人を呼ぶために?
────駄目だ……。
目を閉じても開いても、同じことばかり考えてしまう。
推しのスキャンダル。
経験がないわけではないが、さすがに自分で目撃するのはダメージが深い。
最新の推し(ハルちゃん)はプライベートが謎すぎて、そういう心配がなかったせいもある。
「もう……担降りしよかな」
寝返る勢いで、誰にも通じない独り言がこぼれた。
「────“タンオリ”って何ですか?」
芯のある女性の声が部屋に響いて、慌てて身体を起こす。
「あれ道子さん……何でここに?」
寝台のそばで不思議そうな顔をしていたのは、東櫻宮で通訳をしている道子さんだった。
道子さんは私の顔を見て、すずしげな目を丸くする。
「いやですわ。午後からお茶しましょうって、昨日トウコさんがお誘いしてくれたんじゃありませんか」
「あ……そうだっけ、ごめんね」
どうやらショックで記憶まで吹き飛んでいたらしい。
私が寝台から降りると、鈴玉ちゃんを先頭に女官がぞろぞろと入室し、卓の上にお茶の準備をはじめた。みな部屋の外で待機していたのだろうか。
「────紫雲さまが女と寝ていたぁ!?」
「しー!声抑えて!」
ことの経緯を話すと、道子さんは身を乗り出して食いついてきた。
彼女はこういう話、絶対好きだと思っていたのだ。
道子さんはこちらの世界の日本人で、かつ私の秘密を知る数少ない人物。
好奇心旺盛な彼女とは何かと馬が合うようで、能力喪失の一件から私たちは仲を深めていた。
給仕をしていた鈴玉ちゃんも紫雲さんのファンのひとりだ。私たちの話を耳にし、驚きのあまり盆をひっくり返しそうになっている。
「相手とどういう関係かは、わからないんだけどね……」
そう言って2人をなだめたつもりだったのだが、私の顔はそんなに悲壮感に満ちていたのだろうか。
逆に道子さんが私を励ますように言った。
「……トウコさん、こういう時はたいてい『実は妹でした』というのがオチですよ」
物語に精通しているのは知っていたが、なぜ平安女性がその手のパターンを知っているのか。
今の私にはツッコむ気力もない。
「妹だとしても、一緒に寝てるのはおかしいでしょ」
部屋の状況から考えても、家族やただの友人というのは考えにくい。
それに彼女の勝ち誇ったような表情としぐさが、いまだに目に焼きついて離れないのだ。
「娘娘、お相手の方はどのような女性でしたか?まさか女官……ではないですよね?」
鈴玉ちゃんもこらえきれなくなったのか、急須を手にしたまま不安げな声を漏らす。
推しの相手が自分と同類なのは許せないという、この複雑な感情は万国共通らしい。
「黒髪で、細くて、色白で……20代くらいの色っぽい感じの人だった」
女官というよりも、妃でもおかしくないレベルの美人だったし、正直紫雲さんにはお似合いだと思う。
「それだけでは、どこの誰かわかりませんねぇ」
顎に手をやって考え込む道子さん。
彼女は紫雲さん自身よりも、こういうゴシップに興味があるようだ。
私はもう一度女性の顔を思い出してみる。
「目尻に赤い紅をさしてて……あとおでこにも、赤い花の模様が描いてあったよ。あのメイクってたしか花鈿って言うんだよね?」
これといった特徴はないものの、いかにも中華美人という艷やかな風貌が印象深い。
「赤い花鈿、ですか……」
鈴玉ちゃんがつぶやいて眉をよせた。
「どうしたの?」
「赤い花鈿はひと昔前の流行りなので、最近はあまり見かけないのです」
今の女性は、上品で洗練されたものを好む。
だから宮中で流行っているのは、もっぱら真珠をあしらった白い花鈿だという。
言われてみれば、私も赤い花鈿はこれまで絵画でしか見たことがなかった。
「では例の方は、時代遅れな女ということ?」
道子さんの問いに鈴玉ちゃんは首を横にふった。
「いえ。今でもしてる方はいらっしゃいますよ。たとえば妓女や踊り子なんかは」
「妓女……」
私たちの表情がいっせいに硬くなる。
つまり赤い花鈿は、芸事や身を売る女性の象徴というわけだ。
そういえば紫雲さんは妓楼出身だと言っていたから、昔からそういう店にはツテがあるのかもしれない。
さらに道子さんがたずねた。
「それにしても宦官が、妓楼からわざわざ女を呼べるものなのでしょうか?」
たしかに紫雲さんの屋敷は宮城の中だ。街の邸宅に呼ぶのとはわけが違う。
鈴玉ちゃんは少し困ったような顔でこたえた。
「普通の妓女なら難しいですが……教坊司の官妓なら可能かもしれません。彼女たちは宮中の宴にも呼ばれますから」
教坊司というのは宮廷直属の芸能機関で、主に宮中行事の音楽や舞踊を運営し、その演者らが所属するところ。
ただそれは表向きで、普段は官僚相手に妓楼のようなこともやっているらしい。
所属する妓女は主に罪人の娘や親族らだそう。
彼女たちなら宦官とこっそり逢引することも可能だ。
もっとも売れっ子はほとんどが高官のお気に入りなので、相当モテる男でないと深い仲にはなれないというが。
道子さんは興味津々な様子で話を聞き終えると、ほっとした顔で言った。
「まあ何にせよ、妓女が相手ならただの“お遊び”なんでしょう。よかったですね」
鈴玉ちゃんも安心したようにほほえんで、お茶のお代わりを注いだ。
「よかっ……た……?」
2人ともまだ10代なのに、考え方がいやに達観している。
やはり一夫多妻制の国で生まれ育つと、男性観も違ってくるのだろうか。
ひとりモヤモヤし続けている自分が、だんだん恥ずかしくなってきた。
「まあ、あの人もただの男だってことだね……」
そう自分に言い聞かせて、茶に口をつける。
よく考えれば、あれだけイケメンで独身なのだ。
性格も基本的には優しい(たまにヤバイけど)。
遊びだろうが本気だろうが、そういう相手がいない方がおかしいというものだ。
「ところで、どうでしたか?東京の街とお芝居は」
道子さんは紫雲さんの件にはすでに興味を失ったようだ。
彼女にうながされ、私は昨日のお忍び外出の話をした。
幽鬼の件を隠すため、昨日は「陛下の行楽」の付き添いで街へ出て、共に芝居を楽しんだということになっている。
美味しいお菓子をつまんで談笑しながらも、私は推しの肖像画が視界に入るたびに視線をそらした。
道子さんが帰ったあとは何もやる気が起きず、また寝台に仰向けになる。
ひとりになるとついあの妓女(仮)のことが頭に浮かんでしまう。
額に赤い花を咲かせた彼女は、今頃どこかの宴で踊っているのだろうか。
それともまだあの部屋に?
……そういえば彼女は、私が来たことを紫雲さんに伝えたのだろうか。
頼むから言わないでいてほしい。と切実に思う。
推しの女と鉢合わせて逃げ帰ったオタクのことなんて、知ってほしくない。
────明日、紫雲さんと顔合わせづらいな……。
あの顔を眺めたくて、この世界にいるようなものなのに。
推しと知り合いになることの厄難を、今さら思い知らされた。
次回から(やっと)謎解きに入ります