赤い花鈿①
観劇に行った翌日、私は紫雲さんの家をたずねた。昨夜借りた『蘭王妃伝』のファンブックを返すためだ。
本当は明日仏殿で渡す予定だったのだが、幽鬼の件は極秘任務。人目のない休日の方が安全だろう。
そういうわけで今回は、急遽アポなしでお邪魔することにしたのだ。
いつもの手順で後宮を出て屋敷に着くと、炊事場で使用人夫婦がせっせと昼食の準備をしていた。
私に気づいたおじさんが手を止めて声をかけてくれた。
「まだ部屋で寝てるんじゃねえかな」
「え、こんな時間まで?」
「昨晩アレだったからさ」
おじさんは呆れたような笑みを浮かべながら、手で酒杯をかたむける仕草をした。
驚くことに紫雲さんは昨日牡丹棚で酒を飲んで、さらに帰宅後も飲んでいたらしい。
彼は月に1日しか飲酒しないというルールを己に課している。
なので一度酒を口にしたら、その日は日付が変わるまでたらふく飲むのだそう。
まったく意識が高いのか低いのかわからない人だ。
勝手に入って良いと許可をもらったので、私はひとりで2階へ上がる。
────もし寝てたら、そっと置いて帰ろう。
形だけのノックをしてから、部屋の扉を慎重に押した。
中は物音ひとつなく、窓のすき間から吹き込んだ風が、寝台の帳を揺らしている。
薄絹の帳は半分開いており、寝台の上で布団が大きく盛り上がっているのが見えた。
紫雲さんはやはり寝ているようだ。
私は忍び足で部屋に入る。
机の上には酒器や食器が転がり、床では衣が脱ぎ散らかされている。
相変わらず外面は良いが家では粗雑な人だ。
おじさん達のためにも少し片づけてあげたい気持ちを、私はぐっと堪えた。
机の上に倒れた酒器をそっと起こし、空いたスペースに持ってきた本を置こうとした時────。
寝台の布団がもぞもぞと動き、人がゆっくりと起き上がった。
「……?」
私は本を手にしたまま固まった。
こちらに顔を向けたその人は、どこからどう見ても紫雲さんではない。
長い黒髪を垂らし、赤い襦袢をまとった女性だったのだ。
「……」
彼女は顔にかかった髪を手で無造作にかきあげ、眠たげなまなざしで私を見る。
切れ長な目尻にさした赤い紅が、アンニュイな雰囲気を醸し出していた。
その向こうにはもうひとり、まだ横になっている男性の背中が見えた。髪色からしてあちらが紫雲さんだ。
「あ……」
────見てはいけない。
そう直感して顔をふせると、床でぐしゃぐしゃになった濃紅色の衣が視界に入る。
それはどう見ても裙(ロングスカート)で、そばには牡丹をかたどった黄金の簪も落ちている。
そこにいたるまでの情景が鮮明に浮かんで、顔が熱くなった。
視線を感じて顔を上げると、まだこちらを見つめている女性と目が合う。肌は透き通るようにまっ白で、おでこには鮮やかな赤い蓮の花が描かれていた。
彼女は私に向かって目を細め、人差し指を唇にあてた。
まるで猫でも迷い込んだような、そのしぐさと表情からは余裕がにじみ出ている。
「……お、おじゃまでしたぁっ!」
変な日本語を言い残して、私は部屋を飛び出した。
扉を開け放ったまま階段をかけ降り、使用人夫妻に無言で頭を下げる。
そして顔をふせたまま、逃げるように屋敷から離れた。
真昼の外廷。
宦官たちが行き交う小路を走りながら、心のなかで叫ぶ。
────何いまの!?
────誰あの人!?
走ったところで行くあてもなく、足は自然と来た道を戻るしかない。
後宮への門では通行許可の割符を見せずに通過しようとして、門番に止められてしまった。
「あ、すみません……」
慌てて割符を取り出そうとしたら、置いてきたはずの本が手に握られていることに気づく。
大きなため息をついた。
────何しに行ったんだろう……。
朝からわざわざ外出許可をとって、着替えて化粧して────。
弾む気持ちでくぐった門の下を、今は重い足をひきずって歩く。
今回短いので②は明日投稿します