牡丹棚②
「……トウコ。ちょっとこちらへ」
やっかいな人が寝落ちしたところで、陛下がそう言って自分の隣を指さした。
私は立ち上がって卓の向かいへ移動する。
腰を下ろすと、陛下は前を向いたまま固い声色でたずねてきた。
「その……くろまるというのは、一体どういう奴だ」
「くろまる、ですか?」
「そうだ。わたしのことではなく、元の世界の方だ」
言い切ると、まるでひと仕事終えたようにほっと息を吐いて、酒杯に口をつける陛下。
……なぜ今それを聞く?
さっき私が日本について力説したせいで、陛下も元の世界に興味がわいたのだろうか。
「そうですね。くろまるは……ギャップのある奴というか。普段は素っ気ないんですけど、台風とか雷の音が苦手で。そういう時だけ膝の上で甘えてくるんです」
名を呼んでもそっぽをむくし、餌やオモチャを与えてもめったに喜ばない。いつもはそんなふてぶてしい猫なのに、台風の日だけは丸くなって震えて、どこを触ろうが引っ張ろうが私のそばを離れない。
そのギャップがかわいい猫で、こうして話しながらも自然と笑みがこぼれてくる。
「……」
しかし話を聞いた陛下は何も反応せず、こちらを向きもしない。
ただゆっくりと、手にしていた酒杯を卓に置いた。
「……?」
少し怒っているような、緊張感のある空気が私たちの間に流れた。
すると、いきなり陛下の身体が横にぐらりと揺れ、私の膝の上に倒れ込んだ。
「───ど、どうしたんです!?体調悪いですか?」
突然のことに私は両手を上げながら慌てふためき、周囲を見回した。
今もどこかにいる陛下の護衛を呼ぼうとしたが、人が多すぎて一体どこにいるのかわからない。
酔ったのか、急病か?
はたまた毒か、それともスナイパーによる狙撃?
「……何でもない」
倒れたまま陛下が小声でつぶやいた。
目元は髪で隠れて見えないが血色は良く、急病という感じはなかった。
「じゃあ、起きられます?」
正座したまま恐る恐るたずねると、太ももの上で頭が左右に揺れ動く。
うわ言のような声が、唇のすき間から漏れてきた。
「わたしは……だめなのか」
「……?」
「くろまるには、許したのに……」
「……」
いつの間にか講談の声は止み、次いで琴の音が聞こえてきた。
がやがやと騒がしかった場内が、徐々にしっとりとした空気に包まれていく。
「……あ、」
私はようやく己の過ちに気づいた。
さっきから心が落ち着かないせいで、大事なことを言い忘れていたのだ。
下の階へ目をやると、琴の奏者の背後で黒子が慌ただしく動いている。
おそらくこの次が『蘭王妃伝』なのだろう。
奥で突っ伏している男をそろそろ起こさねばならない。
まさに八方塞がりな気分だったが、とりあえず両腕を下ろした。
それから紫雲さんの方を見て、動きがないのを確認する。
陛下の前髪を指でかき分けると、ぎゅっと目をつむった顔が現れた。
私は申し訳なさを込めてささやく。
「あの……猫なんですよ」
目を閉じたまま、思春期の少年のようなぶっきらぼうな声が返ってくる。
「……わたしは猫ではない」
「いや、くろまるが猫なんです」
「だから違うと」
「飼ってた猫の名前なんです!くろまるは」
声を抑えつつ語気だけ強めると、陛下はハッと目を開く。
「……」
丸い瞳で私の顔を見上げ、しばらく見つめたあと、ゆっくりと上体を起こした。
そして何事もなかったように姿勢を正し、酒杯を口へ運ぶ。
……さすが一国の主だけあって、鋼のメンタル。
「……すみません。人の名前だって嘘ついてました」
私は座ったまま軽く頭を下げてから、元の席へ戻ろうと立ち上がった。
しかし腕を掴まれる。
「……顔を、見られたくない」
視線を落とせば、うつむく陛下の前髪のすき間から小さなホクロが覗いている。
私はその場にすとんと腰を下ろした。
見られたくないという気持ちは正直、私も同感だ。
今は顔にどれだけ力を入れても、口元が不格好にゆがんでいく。
この状況で一体誰が笑わずにいられるだろうか。
「あの、どうして突然くろまるのことを?」
互いの顔を見ぬよう、私たちは前を向いたまま話した。
「わたしと……似ていると言っていたから。お前がわたしを、どういう人間だと思っているか知りたかった。それだけだ」
「そう、ですか……」
恥ずかしさで、話の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
陛下の酒杯が空になっていたので、私は卓の真ん中に置かれた酒器へ手を伸ばす。───が、持ちあげると軽い。
……おかしい。さっきまで半分くらい残ってたのに────
私はいまだ卓に突っ伏している“やっかいな人”の頭に視線を送る。
その時、場内に拍手の音が響いて下の階が少し暗くなった。
演奏が終了したようだ。
私は紫雲さんをゆすり起こす。
「……あれ、トウコさん場所移動したんですか?」
紫雲さんは顔を上げるなりそう言った。
「はい。あっちだと舞台に背中向けちゃうので、ここの方が見やすいかなと」
「じゃあ私がそっちへ行きます」
紫雲さんが立ち上がり、私たちの向かいへ移動する。
他の客の目が気になる所ではあるが、さすがに『蘭王』がはじまれば皆舞台に集中するだろう。
「……やっぱり呑んだんですね?顔赤いですよ」
紫雲さんは頬づえをつき、唇の端に笑みを浮かべながら私に向かって言った。
「まあ、少しだけ……」
この人は、私が呑んでも赤くならないことを知っている。
私が固い笑顔で返すと、下の階がぱっと明るくなった。
気づけば1階席は客でごった返している。満員御礼だ。
紫雲さんは身体ごと舞台の方へ向きを変え、私は彼の背中越しに舞台を見下ろした。
今夜の目玉公演、『蘭王妃伝』の幕がついに開く────