幽鬼の通訳①
「トウコさんは、ここに入るの初めてでしたっけ?」
「はい。外からのぞいたことはありますけど」
最近の仕事といえば相変わらず仏殿の雑務だが、今日はいくつかの書類を仏具庫から執務室へ移動させるらしい。
紫雲さんが仏具庫の鍵を開け、目の前で扉が開いた。
点々と設置された燭台に火を点けると、ほのかな明かりが雑然とした物品たちを照らしだす。
「っ、……すごいホコリ」
私は袖で鼻と口を覆った。
そこはまるで屋外の物置小屋のような匂いで、空気に靄がかかっている。
「すみません。ふだん誰も掃除しないので」
ちなみに仏殿の最奥にあるここは、私が初めて書いた後宮BL小説『仏具庫の秘密』の舞台になった場所でもある。
小説ではたしか、紫雲さんに迫られた青藍さんがあの棚に手をついて、後ろから────……
そんな事を考えながら部屋の中央まで進むと、突然ガチャンという音が響き、辺りがいっそう暗くなった。
振り返ると、紫雲さんが閉まった扉に向かって立っている。
「あれ、どうして閉めるんですか?」
作業をするのに燭台の明かりだけでは心もとないし、このホコリっぽい空間をわざわざ閉め切る理由がない。
たとえばBL小説のように、ここで“秘密の逢瀬”をするのならまだしも────
「……逃がさないためですよ」
こちらをふり返った紫雲さんの笑顔に、嫌な予感がした。
私は無意識に左足を一歩引く。
「な、何を?」
紫雲さんは笑顔のまま、すたすたとこちらへ迫ってくる。
私の眼前まで来ると、人差し指で私のおでこを小突いて言った。
「あ・な・た♡」
頭から血の気が引く。
────騙された!
この人の罠に、また引っかかってしまった。
しかも語尾にハートマーク……だと!?
これはまさか、今度こそ本当に死亡フラグではないだろうか。
「……もしかして私……罰を受けるんですか」
「おや。何か後ろめたいことでも?」
紫雲さんは私の凍りついた顔をのぞきこんで、嬉しそうに言った。
私は顔をふせる。
……後ろめたいことは、ある。3つほど。
①聖人のふりした一般人
②陛下とお忍び外出
③外出先で陛下にはたらいた数々の無体
④紫雲さんの肖像画より陛下のフィギュアを愛でている
……だめだ。3つどころじゃなかった。
全てひっくるめたらとんでもない大罪である。
「……」
いっそこの人には告白してしまおうか。
そう思ったとき、頭に陛下の顔が浮かんで、開きかけた口を閉じた。
私は意を決して顔を上げ、自分の置かれた状況を確認する。
出口は紫雲さんの背後。自力で逃げるのは不可能だ。
……ここで大きな物音を立てれば、誰かが気づいてくれるだろうか。
あわよくば助けが来てくれるかもしれない。
私は隙をみて、仏具の陳列された棚の方へダッシュ────が、瞬発力は相手の方が勝っていたらしい。
紫雲さんに背中を向けた瞬間、両の肩に男性の重い腕がのしかかった。
「逃げないで」
「───っ!?」
背後から抱きすくめられ、全身に鳥肌が立つ。
「あの……っ」
「騙してすみません。でもあなたにどうしても……お願いしたくて。通訳を」
耳に触れた唇から囁かれたのは、この状況に全くもってそぐわない、ただの業務事項だった。
「……つ、つーやく!?」
どういう意味なのかさっぱりわからない。
通訳の依頼なら普通に言ってくれれば良いのに、なぜこんな場所で拘束されなければならないのか。
必死で身じろいだが紫雲さんは力をゆるめない。
「……お願いします」
そればかりか、甘い声でまた懇願されてしまう。
耳に吐息がかかるたびに、私の心臓は爆発しそうになった。
「~~っ!何だか知りませんけど、わかりましたよ!通訳でも何でもします!」
そう叫んで首を後ろに回すと、顎をつかまれ強制的に前に戻された。
「今、ここでしてください」
「はい!?な、何を……」
「だから通訳です」
「誰の……?」
「そこにいます」
「へ?」
背後から伸びた紫雲さんの手が、指し示す方を見た。
床の上に、濃紫の布で包まれた仏像がいくつも置かれている。
その間に、白い衣を着た人が1人立っていた。
小柄な女性だ。
ゆるくウェーブのかかった金髪ロングヘアを飾りけなく垂らしていて、白い着物は寝巻きのようだった。
うつむいているので、顔や年齢はよくわからない。
それにしても、おかしい。
さっきまでそこには仏像しかなかったはず。
そもそもこの部屋には鍵を開けて入ってきたわけだし、当然室内は真っ暗だった。
「だれ……ですかあれ?」
目を凝らしながら紫雲さんにたずねた。
「幽鬼です」
幽鬼というのは、つまり幽霊のことだ。
「……」
私は10秒ほど思考停止した。
「……ほんとに?」
「ほんとほんと」
紫雲さんは私の顎をつかんだまま、頬をふにふにとつぶしながら答える。
なぜこの状況で、こんな軽い調子でいられるのか。
「……えっと、この世界には、幽鬼が出るんですか?」
「はい」と答える代わりに2回揉まれた私の頬。
「『この世に未練のある死者の魂は、現世をさまよう』と話したのを覚えてますか?その魂がこうして姿を現したものを、我々は幽鬼と呼んでいます」
「で、でも!この世界に来てから幽鬼なんて見たことないですし、誰からもそんな話聞かないですよ?」
「そうですね。よほど遺恨の強い幽鬼でない限り、普通の人間には見えません。トウコさんもいま私がこうして触れているから、見えているんですよ」
そう言って紫雲さんは私の身体からぱっと離れた。
立っていた白い衣の女性はこつぜんと消える。
そしてまた抱きつかれると、同じ場所に同じ女性が現れた。
しかし彼女の様子は少し変化がみられる。
顔を上げ、こちらを向いていたのだ。
真っ白な肌に瞳は薄いブルーグレーで、鼻は小ぶりだがつんと尖っている。北欧系だろうか。
フランス人形のように可愛らしいが、眉間にしわを寄せた表情は悲壮感に満ちている。
「ひいいーーっ!!」
時間差で襲ってきた恐怖に私は叫んだ。
抱きつかれた時とは別の寒気が、全身をつきぬける。
慌ててその場から逃げようとするが、腰と肩をがっちりホールドされてしまい身動きが取れない。
せめてと目を閉じて、幽鬼を視界から追い出すしかなかった。
そんな私の肩に紫雲さんは顎を乗せて、のんきに言う。
「意外と怖がりなんですねえ。虫とか平気なのに」
「───あ、あなたは何で平気なんですか!?“見える”体質だから!?」
「体質というか、僧侶はふつう見えるんですよ。ふだんから死者の魂を扱うので。むしろ見えない者は修行が足りないのです」
「はあ……」
話を聞いても「なるほどそうですか」とはとても言えなかった。
この世界の人間にとって“死”は、良くも悪くも身近な存在だ。
子供や病人はあっさり死んでしまうものだし、亡骸を見ることに抵抗のない人も多い。
だから死者に対する恐怖はあまりないのかもしれない。
ただ彼らは呪いや祟りが現実の厄災をもたらすと信じているので、死者の怒りをかうことだけは恐れているようだ。
「彼女、何か訴えているみたいなので力になってあげたいんですけど、異国の方みたいで言葉がわからなくて。トウコさんならわかるんじゃないかと」
「……」
つまり今日起こった全ては、ここで私に彼女の通訳をさせるためだったらしい。
私は全身の力が抜けていくのを感じた。
……ありえない。
幽鬼の通訳なんて願い下げだ。
しかし「逃がさない」と言って私を閉じ込めた紫雲さんは、今の状況をはじめから予想していたのだろう。
この任務を遂行しない限り、きっと逃れられない────。