花海棠
「ここに仕えて50年ちかく経ちますが、宦官を描くのは初めてですな」
宮廷画家の宋先生は、輿から降りるなり、仏殿のシンボルでもある龍柱(龍が絡みつくデザインの柱)を見上げて言った。
先生は歴代国王の中でも特に芸術を愛したという先々代(憂炎陛下の祖父)の頃から活躍しており、これまで数多くの王族の姿を描いてきたという。
例の秋月楼にあった陛下の肖像画(イケメン俳優風)も、元絵は先生が描いたらしい。
白髪に長い顎ひげをたくわえ、いかにも巨匠といった風貌だが、物腰は柔らかいお爺さんだった。
「何かすみません……。でも、モデルは妃に負けないくらいの美貌の持ち主ですから!」
私が自信をもって告げると、先生は乾いた笑い声をもらした。
────ことの発端は、数日前にさかのぼる。
東京の街から宮城へ帰る牛車の中で、陛下が私に言ったのだ。
「そういえば、トウコへの恩賞がまた滞っていたな。何が欲しいか考えておいてくれ」
妃との問題を解決するたびに、陛下から下賜されていた褒美の品。
思えば去年の秋に宦官服をもらったのが最後だった。
いろいろ考えた末、今回は推し(にそっくりな人)の肖像画をもらうことにした。
ポスターでもブロマイドでも、卓上カレンダーでもない。
推しの絵画を手に入れるなんて、あの陛下の絵を見るまで思いつきもしなかっただろう。
だから正直、画家は誰でもよかった。
しかしそんなオタクのよこしまな欲望に、陛下が派遣したのはなぜか国一番の神絵師だった。
そんなわけで、今日はその肖像画制作のため、モデルのもとへと向かう私たち。
高齢の宋先生は、宦官らに両脇を支えられながら低い石段をのぼって本殿へ入る。
回廊を渡って、いつもの執務室の前へ到着した。
「失礼しま……」
扉を開けたとたん、薔薇の香りがむわっと立ちこめる。
部屋を見た私はがく然とした。
そこはもはや、“いつもの執務室”ではなくなっていたからだ。
執務机や来客用の長机は、すべて部屋のすみに寄せられている。
部屋の中央には、妖しげにゆらめく赤いロウソクに囲まれるかたちで、木製の大きな長椅子が1つ置いてあった。
座面には赤いクッション、背もたれやひじ掛けの細かな装飾部分は大理石付きで、さながら玉座のようだ。一体どこから持ってきたんだろうか。
そして何よりおかしいのは、そこに鎮座する人物にほかならない。
「ちょっと、何やってるんですか紫雲さん……」
紫の法衣に黄金色の大きな袈裟を重ねた今日のモデルは、ひじ掛けにしなだれかかるようにして私たちを待ち構えていた。
その両脇に立つのは仏殿に仕える小坊主くんたち。
ただの修行僧にすぎない彼らが、今日は花を挿した幞頭と化粧で彩られている。
そして大きな団扇で椅子の上の主(という設定らしい)を優雅にあおいでいた。
「宋先生に描いていただけるなんて、一生に一度の誉れですから。相応の準備を」
紫雲さんは自信満々にほほえんで言う。
「それは分かりますけど……もうちょっと普通にしてくださいよ」
「これが平常運転ですが?」
「いやいや!」
私は慌てて椅子のそばへ駆け寄った。
「まずその薔薇は何です!?咥えないで!」
紫雲さんの唇の間から薔薇の花を抜き取る。
よく見れば足元にも深紅の花びらが散っていた。
……一体どういう世界観なんだろうか。
宋先生は扉の前で「悪いが、わしは西洋画は描けんぞ」と苦笑しながら入室した。
その背後からは画院仕えの女官たちが現れ、いそいそと絵描き台や画材の準備をはじめる。
先生は壁際にもたれ、モデルを眺めてひとり構図を練りはじめた。
私は急いでホウキを持ってこさせ、小坊主くんたちには赤いロウソクを撤収させる。
「先生、そのまんま描いてくださいね。この人“素材は”良いんですから!」
床を掃きながら、“素材は”を何度も強調した。
せっかくの美貌なのに、陛下の肖像画みたく鬼加工されてしまったら台無しだからだ。(すでに台無しにされつつあるが)
「はいはい。分かっております」
顔を動かさず宋先生は答える。
その視線の先では、紫雲さんが何食わぬ顔で、小坊主くんに持たせた鏡を覗き込み髪を整えている。
私が「その袈裟も……」と言って派手な袈裟を外そうとすると、「これは譲れません!」と慌てて自分の胸元を握りしめた。
そして「(黒い佩玉を隠したいんです)」と耳打ちしてきた。
「……ああ、なるほど」
黒い佩玉とはつまり、彼らを宦官たらしめている宝具のことだ。
その装着を証明する佩玉は、上から袈裟を着ければ全て隠れてしまう。
だからこそ彼らは、ふだん袈裟の装着を禁じられているのだ。
男として宝具を描かれたくない気持ちは、理解できないわけじゃない。
意外と人間らしいところもあるんだと思いながら、私は手を離す。
紫雲さんはほっとした顔で、再び体重をひじ掛けにあずけた。
「……先生、写しで良いので私にも1枚いただけないでしょうか。この部屋に飾りたいんです」
「一番弟子に写させましょう」
「紫雲さん、もうあんまり喋らないでください」
なおも続く大女優のようなふるまいに、私はため息をついた。
普段は顔の良さでごまかされている、この人のヘンテコな部分がここまで出てしまうとは……。
「では先生、よろしくお願いいたします」
準備を終えると、女官たちはそう言い残して部屋を出ていった。
小坊主くんたちもいそいそと後をついていく。
絵描き台の前に、宋先生がゆっくりと腰を下ろした。
私はその背後から、プロデューサーとしてモデルの姿を監視することにした。
アナログ絵画は修正がきかないのだ。
神絵師が私のために描く、世界に1枚の絵。不満を残したくない。
私は胸の前で腕を組み、椅子の上でほほえむモデルに声をかける。
「そういう『私は誰より美しい』みたいな表情はダメです!何かうるさいから!もっと普通の顔してください」
紫雲さんは頬杖をつきながら、疑うような視線をよこした。
「……トウコさん、本当に好きなんですか?私の顔」
「もちろん」
「あなたの愛が信じられませんよ、私は」
哀愁のこもった声をもらすと、およよと袖で口元を覆う。
……そういうのがいちいちうるさいんだよなぁ。と、ちょっとイラついた。
「そうだ。この花を添えてもいいですか?」
私は用意していた海棠の花を出す。
真っ赤な薔薇に囲まれるのはいただけないが、これならば彼の美しさを引き立ててくれるだろう。
宋先生は口元をゆるませた。
「ほう。『海棠睡り未だ足らず』ですな」※
「あ……いや、そういう意味では」
海棠は春の花として親しまれている。
ピンク色の花は桃や桜に似ているが、花弁はもうひと回り大きくて、艶やかで華々しい。
「……美人薄命、ですか」
「あなたはちょっと黙っててください」
チョイスを間違えたかもしれない。
ただ似合いそうな花を選んだだけなのに、先生には私たちが酒を飲み交わす仲だとバレてしまい、紫雲さんは楊貴妃になったつもりでおかしなポーズをとりはじめた。
海棠を手渡すと、紫雲さんにちょいちょいと手招きされた。
腰をかがめ顔を寄せると椿油がふわりと香る。
懐から紅い薔薇が取り出され、私の髪に挿しこまれた。
首をかしげる私に、紫雲さんは無言でほほえむと、私の腰をポンと叩いて戻るよう促した。
「……そのまま、動かないように」
先生がようやく筆を手に取り、真剣な顔つきで言った。
部屋の空気が引き締まる。
それからは紫雲さんも口を閉じたまま、細かい指示に素直に従った。
私と視線が交わってもニコリともしない。
その顔は、描かれるために造られた精巧な人形そのもので、ぞくっとするほどの美しさだった。
そうそう、その表情ですよ。やればできるじゃん。と私は心の中で満足する。
良い緊張感のなか、宋先生は静かに筆を動かす。
といっても、描くよりモデルを観察する時間の方が長かった。
部屋に着くまでの道中で、先生はこう語っていた。
『描くということは、そっくりそのまま写すことではありません。平面の紙の上に、対象のまとう空気や匂い、息づかいを漂わせる。そのため、時には目に見えぬ、心の内を暴き出す必要があります。それができる者を芸術家というのです』
そんな先生の視線に紫雲さんは応え、自らの魅力を一時も損なわぬよう、指先まで注意を払っている。
後方で眺める私も、その儀式のような営みに自然と引き込まれていった。
ふと、陛下から聞いた先々王の話が頭をよぎった。
かつてこの宋先生とともに数々の名画を生み出した彼は、宮廷画家の女性と秘密の恋をしていたという。
芸術を生むための、神聖で濃密な空間────こうして無言で見つめ合う中で、国王と画家は恋に落ちてしまったのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は髪に挿さった薔薇に触れた。
※【海棠睡り未だ足らず】
《玄宗皇帝が酔後の楊貴妃を評した言葉から》美人が、眠り足りないときのように、酒に酔って目もとをほんのり赤くしているさまをいう。────デジタル大辞泉より
【こぼれ話】
海棠の花は咲いてから散るのがとても早く、桜より早いと言われています。
紫雲はその命の短さを、楊貴妃にもなぞらえ「美人薄命」と言いました。
ちなみに花言葉は「温和」「艶麗」「美人の眠り」「友情」などです。