東の都、夢の街③
酔っぱらうという状態は、何も意識を失うわけではないらしい。
むしろ感覚は過敏になっていて、ちょっとしたことで大きく感動したり、ひどく悲しくなったり。
だからだろうか。普段心に引っかかっていても決して話せないような事を、つい口走ってしまうのは。
「……何で誰とも夜伽しないんですか?」
頬杖をついたまま問うと、陛下は胃の中身を吐き出しそうな勢いで咳き込んだ。
「私も紫雲さんも、青藍さんだってめっちゃ頑張ってるのに~」
「それは……分かっているが」
手巾で口を拭いながら、かすれた声で答える陛下。
「あれだけ色んなタイプの美女が集まってるのに、ちょっと贅沢すぎません?」
「ぜいたく……か」
茶杯を片手にくだを巻き続ける私に、陛下は実直に答え続けた。
人をぞんざいに扱うということを知らないのだろう。
「とか言って、王妃様が好きなんでしょう?」
泳ぎ続けていた陛下の黒目が止まった。
……駄目だ。こんな失礼なことを言ってはいけない。
そう理解してはいるけれど、心の中で理性という堤防が決壊し、濁流が押し寄せている。
「……子どもの頃の話だ」
「じゃあ今は違うの?」
さっきまで猫扱いしていた目の前の青年を、今度は地元の後輩か何かだと勘違いしているらしい。
言葉の代わりに無言のまばたきが返ってきた。
「前から思ってたんだけどさぁ~、くろまるってもしかして……」
向かい合う青年の、胸から頭までを視線でゆっくりたどる。
喉仏が大きく動いた。
「……男が好きなんでしょ」
「────ちがう!!」
陛下は聞いたことがないくらいの大声を上げ、その場で立ち上がった。
その姿を私は呆然と見上げる。
それから間髪入れず陛下は「あっ、」と小さな声をもらすと、慌てて席に着く。
そして私の頭を低く押さえた。
「ど、どうしました?」
「2階に……青藍がいる」
「ええっ!?」
「李宰相の声もした。間違いない」
陛下は人差し指を唇にあてて声をひそめる。
思わぬ事態に私の酔いは一気に醒めていった。
「しくじった。会合はこの店でやっていたのか」
人気店だとは思ったが、まさか李家も御用達だったとは。
よりにもよって一番見つかってはいけない人たちに遭遇してしまった。
「どうしましょう?」
「まだ向こうは気づいていない。店を出よう」
陛下が女給さんを呼んで支払いをすませる。
その間私は手巾を広げ、皿の上の饅頭と干し棗をまとめて包んだ。
皿に残した料理に心で詫びながら、私たちは逃げるように店をあとにした。
* * *
大急ぎで往来へ出たが、陛下はもう少し街を歩きたいらしい。
私たちは牛車には乗らず宮城と反対へ向かっていた。
「あの……さっきはすみませんでした。失礼なこと言って」
陛下は小さく咳払いする。
「よい。……皆の“本音”を聞くのが目的だったのだから」
しかし私の本音なんか聞いたって、何の役にも立たないだろうに。
「民の話は聞けました?」
「ああ。近ごろ横暴な地主が増え、税が重いこともあって農民らの不満がたまっているようだ」
あんな慌ただしい中でも、陛下の耳はしっかりと役目を果たしていたようだ。
「ところで、ラン王?って聞こえたんですけど……誰ですか」
耳にした会話の中で、陛下と並んで出てきたその名がずっと気になっていた。
陛下は雑踏を器用に避けながら答える。
「蘭王はわたしの先祖で、300年ほど前にこの国を治めていた女性だ。正確には蘭王妃だが」
「女性だったんですね。女王ではなく王妃?」
「ああ。病がちだった国王の代理をしていたのだ。王妃でありながら暴君だったらしく、それを揶揄して“王”と呼ぶ者が多い」
覇葉国で史上最悪の女傑と恐れられていた蘭王は、自らがのし上がるため他の妃を殺めたり、我が子を手にかけたこともあったという。
朝廷を牛耳るようになってからも、反発する者へは容赦なく粛清を行ってきたとか。
『咳払いしただけで処刑』などと言われていたのはそういうわけか。
「そんな恐ろしい妃がいたんですね」
今の後宮はいたって平和なのに……。
しかもそんな女性が、この温厚な陛下の祖先とは更に驚きだ。
話しながら歩くうちに、周囲は大変な人出になってきた。
夜風と人々の熱気が合わさって独特の匂いがする。
大通りから一本外れた細い路地に入ると、小さな屋台が並んでいた。
それぞれ「麺」「酒」「茶」など簡潔な文字が書かれた小さな幕を看板代わりに吊るしている。
「この辺りは貧しい民も多い。さっきの店とは違った話が聞けるだろう」
まだお腹に余裕があった私たちは「麺」を食べることにした。
屋台の横には低い座席が、全部で4席。
奥の席では、小さな男の子と母親らしき女性が一杯の麺を分け合っていた。
席につき、ほどなくして運ばれてきたのは、端の欠けた器に入った具なしラーメンのようなものだ。
シンプルな見た目は、子供のころ某ドーナツ店で食べた「汁そば」を思い出す。
箸は卓の真ん中にまとめて立ててある。陛下は箸を抜くと手巾で丁寧に拭いた。
そして共に麺を口に運ぶ。
「……」
味は正直微妙だった。麺は柔らかすぎて、スープは塩っぽいだけでコクがない。
学生時代に食べた激安スーパーのPBカップ麺の方がまだマシだ。
元の世界に思いを馳せていると、向かいに座る陛下が箸を浮かせたまま口を半開いてこちらを見ている。
「なんだ……その食べ方は」
「はい?」
「いま、すごい勢いで麺を吸い込んだではないか」
「……これですか?」
ためしに麺をもう一度すすってみると、陛下はまた目を丸くした。
「そんな食べ方見たことがない。一体どうやって……」
どうやら麺をすする文化はないらしい。
「───そうです、そのまま息を細く吸うように……」
私に教わった通り、陛下は麺をくわえたまま、頬がへこむほど口をすぼめる。
ちゅる、と音を立てて麺が5ミリくらい動いた。
しかしそこから微動だにせず、しまいにはむせた勢いで麺はポチャンと器の中に落ちてしまった。
「今日は……普通に食べる」
口惜しそうに、顔にかかった汁を拭く陛下。
私は笑いながら、卓の上に包みを広げた。
「これもありますよ」
さっきの店の饅頭と棗だ。
「いつの間に」
「食事を残すのはマナー違反なので」
「そうか……」
陛下は好物の饅頭を手にとって眺める。
そして立ち上がり、饅頭を包みなおして奥の席の母子のもとへ向かった。
戻ってきた陛下は、口の端を上げたぎこちない表情をしている。
「何て言って渡したんですか?」
「これは……モチモチして……わたしの口に合わぬからと」
不器用な言い訳に、また笑いがこみ上げた。
「……わたしが見るべきなのは万民であり、目の前の1人ではないと、李宰相によく叱られる。だが1人を見ずして万民を知ることはできない」
そう語る視線は、口いっぱいに饅頭をほおばる少年に注がれている。
陛下がこの街で見ている景色が、最初から、私とは決定的に違っていたことに気づいた。




