東の都、夢の街①
私は“秘密”を知ったあとも、変わらず聖人として後宮で暮らしていた。
とはいえ今は大きな任務もなく、雑務を手伝いながら時おり書物の翻訳を頼まれるくらいの平穏な日々。
「────桃聖人、」
その日も仏殿での仕事を終え、桃華宮へ帰る途中だった。
私は背後から女性の声で呼び止められた。
「あ、はい」
振り返ると男女が一組、夕日を背にして立っている。
逆光のせいで2人の顔はよく見えなかったが、服装はごく普通の宦官と女官のものだった。
「お話ししたいことがございます。少し、来ていただけますか」
女は30代くらいだろうか、ちょっと硬い雰囲気の真面目そうな声色で、男の方はとにかくガタイが大きい。宦官というよりも禁軍の兵士のようだった。
どちらも私とは初対面か、少なくとも日頃から交流のある者たちではなさそうだ。
私は不思議に思いながらも彼らの後ろについて、帰り道と反対方向に歩き出した。
道中2人は一切口を開かず、ただ無言で歩き続けた。
(……まだ着かないの?)
「少し」という誘い文句に反しずいぶんと長く歩かされ、ついには後宮と外廷とを隔てる門の前まで来てしまった。
戸惑う私を尻目に、男が慣れた手つきで懐から外出許可の割符を出し、門番に見せている。
女にうながされるまま私はあっさりと後宮を出てしまった。
門の前には一台の牛車が待機していた。
背後から女が言う。
「お乗りください」
「え?な、何で……」
「お乗りいただければ分かります。お急ぎください」
「うわっ、ちょっと……っ!」
抵抗する暇もなく、私は屈強な男に抱きかかえられてしまった。
そして牛車の後方扉から中へ放り込まれる。
「いた……」
案の定床に腰を打ちつけてしまった。
中に座席は無く、いわゆるフラットシートタイプらしい。
窓に簾とカーテンがきっちりと降りているせいで、周囲がよく見えない。
「ちょっと!何ですかいきなり!?訳が分からないんですけど~」
とりあえず扉の方に向かって叫んだ。
「入ればわかる」と言われたのに、この真っ暗な空間は何一つ情報を与えてくれなかっま。
外からは返事のないまま、車内が一度大きくガタンと傾いた。それからガタガタと規則正しく揺れはじめる。
どうやら牛車が走り出したようだ。
(どこに連れて行かれるんだろう。……まさか誘拐?)
牛車ということは、さほど遠くへは行かないのだろう。
しかし困った。
もしこの牛車がこのまま城を出てしまったら、私は龍魂のエリアから外れて言葉が分からなくなるのに。
(……もしかして、聖人のふりをしていたのがバレて投獄されるとか?)
想像してゾッとする。
私はつい先日この“秘密”を知ったばかり。タイミングが良すぎて不安は大きくなるばかりだ。
ひたすら車内で怯えるなか、体感10分ほどで牛車は止まった。
扉が重い音を立てながら開いて、車内が少し明るくなる。
私が隅で身体を強ばらせていると、何とも聞きなれた声が耳に届く。
「トウコ」
「……あ、陛下?」
夕日とともに私の目に飛び込んできたのは、灯籠を手にした陛下の姿だった。
「急にすまない。今夜時間ができたので付き合ってほしい」
言いながら陛下が車に乗り込むと、すぐに扉が閉まった。
陛下の様子はいつもと違ってせわしない。
「付き合う、とは……」
「内城にある繁華街へ行く」
陛下が灯籠を床に置くと、互いの顔が確認できる程には車内が明るくなった。
固まっていた身体がほぐれ、陛下へ近づくと牛車は再び走り出した。
「────ということは、またお忍び外出ですか?」
走る牛車の中で、私は陛下の話を聞きながら状況を飲み込んでいった。
陛下は身体を揺らしながら声をひそめる。
「今日は青藍にも内緒なのだ。街で民にまぎれ込むのだからな。親政を行う前はよくこうして、民の生活を見聞きしたものだが」
庶民のふりをするためか、今日の陛下はゴワゴワした灰色の衣を着て、腰にはいつもの革ベルトではなく麻布のような細帯を締めていた。
どうやら今夜李家では会合が行われるらしく、李宰相も青藍さんも城にいないのだそう。
お忍びには絶好の機会というわけだ。
「久しぶりに出かけようと思ったところで、トウコの力のことを思い出してな」
「陛下がひとりで外に出たら私、また通じなくなっちゃいますからね」
私の言語能力が無くなるということは、何も私ひとりが困るわけではない。それによって陛下が城内にいないことが周囲にバレて、大変な騒ぎになってしまう。
だから苦肉の策として、今回私を同行させることにしたという。
「とにかく他の臣下に見つからぬため、手荒な方法をとらせてしまった」
「あの私を拉ち……連れてきた人たちは一体誰ですか?あまり見慣れない方たちでしたが」
「あれは劉宰相の息のかかった者たちだ。青藍に頼れない以上、こういう時はいつも叔父上に協力してもらっている」
劉宰相とは陛下の母劉太后の従兄弟にあたる人で、青藍さんの父李宰相とはライバル関係にある。
後宮では青藍さんを筆頭に李家が幅を利かせているので、劉宰相派はふだん息を潜めているらしい。だからあんな無骨な態度だったのだろうか。
「この牛車も歴代の王たちが忍んで使ってきたものだ」
言われてみればこの牛車、外観が質素な割に内装はやけに豪華だった。
障子の格子窓に簾、壁には書画がかけてあり、香炉や硯の乗った棚に小さな卓まで設置してある。まるで一つの部屋のようだった。
内装をここまで豪華にしたのは陛下の祖父にあたる12代目国王らしい。
彼は在位当時、宮廷画家の女性に惚れ込んでいて、城外に住む彼女のもとへ通うため度々忍んで城を出ていたそう。
秘密の恋ゆえ車中で逢瀬を重ねることもあったとか。
「ああ、だからここ───」
私は足下の床を撫でた。
ここがフラットシートになってる理由を察したのだ。
「……っ、」
しかし陛下と目があった途端、急に恥ずかしくなってしまった。
向こうも同じことを思ったのか、体育座りに足を組み直し、私たちは互いに背を向けた。
無言で揺られていると、だんだんと周囲が騒がしくなってきた。
いつの間にか牛車は城の南門をくぐり、民が行き交う市街地に出たようだ。
陛下が窓を開けてくれた。
既に日は落ち、街中には提灯がいくつも光っている。
街灯のない世界では灯籠や提灯がそれの代わりなので、とにかく数が多い。
「今日ってお祭りか何かですか?」
道沿いには店舗の他にも屋台や露店がたくさん並んでおり、いかにも中華っぽい赤い装飾品や民芸品、食べ物なんかが売っている。
道端で人形劇や大道芸も繰り広げられていて、すごい賑わいだ。
「いや。夜はいつもこんなものだ」
背後から答えが返ってきた。
宮城を出ても言葉がきちんと通じることに、私は内心ほっとする。
やはり私の言語能力は陛下の龍魂の力によって発動しているのだろう。
「城の外がこんなに賑わっているなんて思いませんでした」
かつて覇葉国では夜間外出禁止令が敷かれており、夜は店はおろか人もおらず静かなものだったらしい。
しかし近年それが解かれ、繁華街では昼夜問わず店が開いているのだという。
華やかな景色を眺めているうちに、市街地にはおよそ似つかわしくない動物が堂々と歩いているのを発見して私は声を上げた。
「え……ラクダ!?ちょっと陛下、ラクダがいますよ!あそこ!」
「ふむ。あれは西方から来た商人だろう」
陛下の言う通り、ラクダの背には大きな荷物が、二つのコブに挟まれるように積んであった。手綱を引いている男性は頭にターバンのような布を巻いている。
「ラクダってこういう普通の地面も歩けるんですね」
「……奴らも好きで砂漠を歩いている訳ではなかろう」
思えばこの国に来てから、まともに街を歩いたことがなかった。だから目に映るものに逐一驚いてしまうのだ。
「ところで、この車はどこへ向かっているんですか?」
「酒楼に行く。酒が入ると人は饒舌になるから、多くの民の本音が聞けるだろう」
ちなみに酒楼というのは、居酒屋と料亭の中間みたいな料理店のことらしい。
陛下の言う「話を聞く」とは誰かと会って話すのではなく、大衆の話を盗み聞きするという意味のようだ。
特殊な耳をもつ陛下だからこそなし得る技である。