表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

68/146

××喪失①

私が大事なものを失ったのは、あの清明節からわずか2日後のことだ。

()の刻の合図はまだ聞いてなかったから、朝8時くらいだろう。朝食のお粥を食べ終えた頃だった。

急須を持った鈴玉ちゃんが私の側へ来てこう言ったのだ。


娘娘(ニャンニャン)、※〇△%◇×…?」


「……はい?」


娘娘以降の言葉が全く聞き取れなかった。

いつもなら「お茶のお代わりはいかがですか?」とたずねてくれるはずなのに。


「〇△?、◇§〇※」


もう一度耳を傾けるが、やはり理解不能だった。

声が小さいとか滑舌が悪いとかいうレベルではない。全く聞いたことのない発音の言葉なのだ。


「え、全然わかんない。何て言ってるの?」


首をかしげつつ私がたずねると、鈴玉ちゃんも同じように首をかしげる。

もしかして───


「まさか、鈴玉ちゃんも私の言葉がわからない?」


「◆×◎%!」


鈴玉ちゃんは驚きに満ちた顔をだんだん青くして、しまいには急須を持ったまま部屋を飛び出してしまった。


「えー……何で?」


鈴玉ちゃんと入れ替わるように、部屋には他の女官がやってくる。しかし案の定、互いに通じていない模様。


ということは───言語能力を失ってしまったらしい。


この世界に来て1年が経とうとしているが、私はこの言語能力のおかげで覇葉語を学ぶ機会がなかった。というか勉強しようにも、全ての言葉が日本語に聞こえてしまって不可能だったのだ。


初めて耳にした覇葉語は、響きからして中国語っぽいけど何か違うような気もする。そもそも私はニーハオくらいしか中国語が分からない。


つまり今私は、誰とも意志疎通ができない。

スマホも辞書もない環境で───


だんだんと事の重大さを理解して、体から血の気が引いていく。


「どうしよう」


一体なぜ突然、能力喪失したのか。この時はその理由まで考える余裕はなかった。


ただ、このまま能力が戻らなかったら───身寄りのない私がどうやって生きていくのかを想像すると、絶望で涙が出そうだった。


娘娘(ニャンニャン)!」


部屋の扉が勢いよく開いて鈴玉ちゃんが帰って来た。

その背後から息を切らしてやって来たのは紫色の衣の、長身の男。


「紫雲さんっ!」


私は椅子から立ち上がると同時に、すがるように駆け寄った。


「×Δ%□……?」


紫雲さんは困惑した顔で私を見下ろす。


「わかんないですよぉ」


私を召喚したこの人なら通じるのでは、という謎の希望は見事に打ち砕かれた。


私が涙声で窮地を訴えると、紫雲さんはうなずいて私の肩に手を置く。たぶん分からないなりに私の心情を察してくれているようだ。

次に紫雲さんは顔を扉の方に向けて、強い口調で何かを言い放った。

扉の向こうからは女官の短い返事が聞こえる。


扉が閉まりふたりきりになると、紫雲さんは寝台を指さした。とりあえずあそこに座れということだろう。


私が寝台に腰を下ろすと、紫雲さんは軽く息を吐き一冊の書物を開いて私の前に差し出した。


受けとってみると、そこに書かれているのは漢字だけ、いわゆる漢文だった。知っている字もあれば見たことのない字も結構ある。

いつもならばすぐに紙面の漢文は、ひらがな混じりの日本語に変化するが、何も変わらない。


私は首を左右に振る。


やはり文字も読めなくなっているらしい。万事休す。


「何でいきなり、こんなことになっちゃったんでしょうか」


通じないと分かっているが、嘆かずにはいられない。


紫雲さんは書物を寝台の脇に置いて、少し悲しそうに首をかしげた。

そして私の隣にゆっくりと腰を下ろす。


「朝起きた時は普通に通じてたのに……」


この嘆きすら通じていない。

分厚い防音壁に四方を囲まれた気分だ。


話しながら鼻の奥がつんと痛くなる。

あ、やばい泣きそう。

私は鼻をすすりながら下を向いた。

不細工な泣き顔は見せたくない。


「……っ」


シーツを掴む自分の手の甲を見つめていると、肩を掴まれ身体がぐらりと前方に倒れる。

紫色の布地に鼻をぶつけて、目を開けると直綴の合わせ目があった。


「……え?」


胸と背中が温もりに挟まれている。

甘い蘭の香りに一瞬、一昨日の出来事が脳内に蘇った。


「トウコ、」


私の名を呼ぶ声がいつもより少し低く聞こえた。わざとそうしてるようには聞こえず、もしかしたらこの人の声は、本当はこういう音だったのかもしれない。

他にも何か言っていたが、私が分かるのはそれだけだった。


「……」


頭の中で、自分の置かれている状況を分析した。


────私は今、推しに抱き締められ、その腕の中で優しく名を呼ばれている。


この状況はもしかして────



人人人人人人人人人人_

> 圧倒的死亡フラグ <

 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄



分かった。

私が言語能力を失った理由は、聖人としての役目を終えてしまったからに違いない。


この世界での私の任務は、陛下と妃たちの間にある壁を取り除くこと。

それが先日の王妃との一件で全て解決してしまったらしい。


その証拠に陛下は「父親になりたい」とはっきりと口にした。

きっとこの調子で自分の妻たちとも仲を育み、子宝にも恵まれるだろう。


つまり、もはや私はこの世界に用無しというわけだ。


役目を終えた聖人の行く先は……死、もしくは元の世界への帰還だ。

どちらにせよ、私はもうすぐこの世界から去るのだろう。


紫雲さんはきっとその事を分かっていて、餞別(せんべつ)として「推しからの抱擁(ハグ)」をプレゼントしてくれているのかもしれない。


唐突なお別れではあるけど、まさか推しの腕の中で逝くなんて───

まあ悪くないとは思う。贅沢な最期だ。


そう自分に言い聞かせうなずいていると、頬を両手で挟まれて、顔が持ち上がる。


毛穴の見えない白い肌に、薄桃色の唇────息をのむ美貌が目の前に迫っている。


───え、そこまでするの?


いくら何でも、そこまでは望んでな……まあいいか。だって私はもうすぐいなくなるのだから。

そもそもこの世界の人間でない私には、恥も遺恨も残らない。


こうやって最期の時を前にすれば、人はいくらでも恥を捨てられるらしい。

万が一今この場で紫雲さんが衣を解いて、あの宝具(パオジー)とかいう珍秘の品を見せれたとして取り乱さない自信があった。


ともかく私は覚悟を決めて目を閉じ───いや、見逃してたまるか!推しのキス顔を!


元の世界でも推し(ハルちゃん)のキスシーンは見たことがなかった。ここで目を閉じるのは勿体なさすぎる。


私はカッと目を開いた。


これには紫雲さんも驚いたらしく、同じように目を見開いた。彼は元から大きい目をしているし鼻も高いので、漫画みたいな顔になって少し面白い。

そしてくすりと笑いながら私の頬を親指の腹で(こす)った。


見たことないくらい優しい顔と、猫を撫でるような仕草。


……何だか急に顔が熱くなってきた。

放り投げたはずの羞恥心が戻ってきてしまったようだ。


「……あの、やっぱり……いいです。何か申し訳ないし」


私は紫雲さんの胸を押しのける。

手のひらに伝わる鼓動が思いのほか強く感じるけど、そんなこと気にしていられない。

自分の心臓の方が、痛いくらいに高鳴っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ