××喪失①
私が大事なものを失ったのは、あの清明節からわずか2日後のことだ。
巳の刻の合図はまだ聞いてなかったから、朝8時くらいだろう。朝食のお粥を食べ終えた頃だった。
急須を持った鈴玉ちゃんが私の側へ来てこう言ったのだ。
「娘娘、※〇△%◇×…?」
「……はい?」
娘娘以降の言葉が全く聞き取れなかった。
いつもなら「お茶のお代わりはいかがですか?」とたずねてくれるはずなのに。
「〇△?、◇§〇※」
もう一度耳を傾けるが、やはり理解不能だった。
声が小さいとか滑舌が悪いとかいうレベルではない。全く聞いたことのない発音の言葉なのだ。
「え、全然わかんない。何て言ってるの?」
首をかしげつつ私がたずねると、鈴玉ちゃんも同じように首をかしげる。
もしかして───
「まさか、鈴玉ちゃんも私の言葉がわからない?」
「◆×◎%!」
鈴玉ちゃんは驚きに満ちた顔をだんだん青くして、しまいには急須を持ったまま部屋を飛び出してしまった。
「えー……何で?」
鈴玉ちゃんと入れ替わるように、部屋には他の女官がやってくる。しかし案の定、互いに通じていない模様。
ということは───言語能力を失ってしまったらしい。
この世界に来て1年が経とうとしているが、私はこの言語能力のおかげで覇葉語を学ぶ機会がなかった。というか勉強しようにも、全ての言葉が日本語に聞こえてしまって不可能だったのだ。
初めて耳にした覇葉語は、響きからして中国語っぽいけど何か違うような気もする。そもそも私はニーハオくらいしか中国語が分からない。
つまり今私は、誰とも意志疎通ができない。
スマホも辞書もない環境で───
だんだんと事の重大さを理解して、体から血の気が引いていく。
「どうしよう」
一体なぜ突然、能力喪失したのか。この時はその理由まで考える余裕はなかった。
ただ、このまま能力が戻らなかったら───身寄りのない私がどうやって生きていくのかを想像すると、絶望で涙が出そうだった。
「娘娘!」
部屋の扉が勢いよく開いて鈴玉ちゃんが帰って来た。
その背後から息を切らしてやって来たのは紫色の衣の、長身の男。
「紫雲さんっ!」
私は椅子から立ち上がると同時に、すがるように駆け寄った。
「×Δ%□……?」
紫雲さんは困惑した顔で私を見下ろす。
「わかんないですよぉ」
私を召喚したこの人なら通じるのでは、という謎の希望は見事に打ち砕かれた。
私が涙声で窮地を訴えると、紫雲さんはうなずいて私の肩に手を置く。たぶん分からないなりに私の心情を察してくれているようだ。
次に紫雲さんは顔を扉の方に向けて、強い口調で何かを言い放った。
扉の向こうからは女官の短い返事が聞こえる。
扉が閉まりふたりきりになると、紫雲さんは寝台を指さした。とりあえずあそこに座れということだろう。
私が寝台に腰を下ろすと、紫雲さんは軽く息を吐き一冊の書物を開いて私の前に差し出した。
受けとってみると、そこに書かれているのは漢字だけ、いわゆる漢文だった。知っている字もあれば見たことのない字も結構ある。
いつもならばすぐに紙面の漢文は、ひらがな混じりの日本語に変化するが、何も変わらない。
私は首を左右に振る。
やはり文字も読めなくなっているらしい。万事休す。
「何でいきなり、こんなことになっちゃったんでしょうか」
通じないと分かっているが、嘆かずにはいられない。
紫雲さんは書物を寝台の脇に置いて、少し悲しそうに首をかしげた。
そして私の隣にゆっくりと腰を下ろす。
「朝起きた時は普通に通じてたのに……」
この嘆きすら通じていない。
分厚い防音壁に四方を囲まれた気分だ。
話しながら鼻の奥がつんと痛くなる。
あ、やばい泣きそう。
私は鼻をすすりながら下を向いた。
不細工な泣き顔は見せたくない。
「……っ」
シーツを掴む自分の手の甲を見つめていると、肩を掴まれ身体がぐらりと前方に倒れる。
紫色の布地に鼻をぶつけて、目を開けると直綴の合わせ目があった。
「……え?」
胸と背中が温もりに挟まれている。
甘い蘭の香りに一瞬、一昨日の出来事が脳内に蘇った。
「トウコ、」
私の名を呼ぶ声がいつもより少し低く聞こえた。わざとそうしてるようには聞こえず、もしかしたらこの人の声は、本当はこういう音だったのかもしれない。
他にも何か言っていたが、私が分かるのはそれだけだった。
「……」
頭の中で、自分の置かれている状況を分析した。
────私は今、推しに抱き締められ、その腕の中で優しく名を呼ばれている。
この状況はもしかして────
人人人人人人人人人人_
> 圧倒的死亡フラグ <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
分かった。
私が言語能力を失った理由は、聖人としての役目を終えてしまったからに違いない。
この世界での私の任務は、陛下と妃たちの間にある壁を取り除くこと。
それが先日の王妃との一件で全て解決してしまったらしい。
その証拠に陛下は「父親になりたい」とはっきりと口にした。
きっとこの調子で自分の妻たちとも仲を育み、子宝にも恵まれるだろう。
つまり、もはや私はこの世界に用無しというわけだ。
役目を終えた聖人の行く先は……死、もしくは元の世界への帰還だ。
どちらにせよ、私はもうすぐこの世界から去るのだろう。
紫雲さんはきっとその事を分かっていて、餞別として「推しからの抱擁」をプレゼントしてくれているのかもしれない。
唐突なお別れではあるけど、まさか推しの腕の中で逝くなんて───
まあ悪くないとは思う。贅沢な最期だ。
そう自分に言い聞かせうなずいていると、頬を両手で挟まれて、顔が持ち上がる。
毛穴の見えない白い肌に、薄桃色の唇────息をのむ美貌が目の前に迫っている。
───え、そこまでするの?
いくら何でも、そこまでは望んでな……まあいいか。だって私はもうすぐいなくなるのだから。
そもそもこの世界の人間でない私には、恥も遺恨も残らない。
こうやって最期の時を前にすれば、人はいくらでも恥を捨てられるらしい。
万が一今この場で紫雲さんが衣を解いて、あの宝具とかいう珍秘の品を見せれたとして取り乱さない自信があった。
ともかく私は覚悟を決めて目を閉じ───いや、見逃してたまるか!推しのキス顔を!
元の世界でも推し(ハルちゃん)のキスシーンは見たことがなかった。ここで目を閉じるのは勿体なさすぎる。
私はカッと目を開いた。
これには紫雲さんも驚いたらしく、同じように目を見開いた。彼は元から大きい目をしているし鼻も高いので、漫画みたいな顔になって少し面白い。
そしてくすりと笑いながら私の頬を親指の腹で擦った。
見たことないくらい優しい顔と、猫を撫でるような仕草。
……何だか急に顔が熱くなってきた。
放り投げたはずの羞恥心が戻ってきてしまったようだ。
「……あの、やっぱり……いいです。何か申し訳ないし」
私は紫雲さんの胸を押しのける。
手のひらに伝わる鼓動が思いのほか強く感じるけど、そんなこと気にしていられない。
自分の心臓の方が、痛いくらいに高鳴っている。