悲しいに近い嬉しい
薫林王女と凧遊びを終えて、私たちは鳳凰宮を出た。
道中、紫雲さんがふと思いついたように言う。
「そういえばトウコさん、今回は“びーえる”使わなかったんですね」
「あ、そう……ですね」
これまで何かと問題解決の鍵となっていたBL小説(むしろ火種になることもあったけど)、今回は出番がなかった。
「そんな、何でもかんでもBLが解決するわけないじゃないですか」
王女のいる鳳凰宮であれを披露するのは憚られたのが正直なところだ。
ただ───
『宝物の数だけ“箱”は存在します』
陛下に伝えたあの台詞は、元の世界で読んだBL漫画(死んだ双子の弟の恋人が相手のタイプ)の受け売りだという事実が、私の喉元まで出かかった。
「私だって、年中そんなことばかり考えてるわけじゃありませんからね?」
私の弁明に紫雲さんは目を細めて「へえ」とだけ答えた。その眼差しには「疑」の文字が浮かんでいる。
背中に冷や汗を感じる私を横目に、紫雲さんは仏殿の門でひとり足を止めた。
「先に行っててください。すこし執務室を片付けてから行きます」
「わかりました」
追及を免れたことにホッとしながら私はひとりで歩き出す。
今は元の世界だと午後5時くらいだろうか。いつもなら桃華宮で過ごしている時分で、空は赤に近い橙に染まっている。
今夜私たちは陛下と3人で夕食を共にすることになっていた。
清明節のお祝いと、聖人としての任務が一段落した私の労をねぎらってくれるらしい。軽い打ち上げみたいなものか。
清龍殿の広間に着くとちょうど準備のまっただ中で、軽く十人前くらいはありそうな大皿が宦官たちによって続々と運ばれている。
焼いた羊肉の香ばしい匂いがただよってきた。そういえば紫雲さんも今夜は肉と酒を解禁するそうだ。
他には羽を広げた孔雀のように美しく盛り付けられた春野菜にお刺身、海老と筍の羹もある。
何となく手持ち無沙汰になって、隣の執務室を覗いてみたが誰もいない。
仕方なく執務室から外へ出てみることにした。
清龍殿は一階建てだが大きな台の上に建っている。
だから大臣たちは毎朝せっせとあの長い階段を登って参朝しているらしい。
その分外のベランダ部分からの眺めがよく周囲が見わたせるのだ。
扉から出ると赤い壁や柱に赤い日が差し込んでいる。
燃えるような景色の中で、欄干の前に黒い背中が見えた。
「ここにいたんですね」
陛下は欄干に手を置いたまま振り返る。
「……ひとりか?」
「紫雲さんは後から来るそうです」
いつも食事ギリギリまで仕事をしているという陛下。
「てっきり執務室にこもっているかと」と言ったら「少し、考えごとをしていた」と。
「考えごとですか」
たずねると陛下は正面を向いて、目前に広がる後宮を眺める。
そして呟いた。
「わたしは……父になれるだろうか」
「え?」
陛下の口から“父”という言葉が出たことに驚いたけれど、唐突すぎてその意味はつかめなかった。
陛下は続ける。
「わたしにとって父上は、どこまでも国王でしかなかった。普通の父親がどういうものか、どうあるべきなのかが分からない」
“父上”────劉太后を寵愛し、多くの息子を失ったあげく憂炎陛下を後継ぎに選んだという先王。
噂はいくつも耳にするが、父親としての人となりは不思議なほど見えてこなかった。
それは先王が常に私情を挟まず、民のために生きてきたからなのかもしれない。
民にとって良き国王が、子にとって良き父であるとは限らないからだ。
「きっとこの先、わたしは良き夫にはなれないだろう。だからせめて薫林や、いつか生まれる我が子にとって良き父親になりたい」
「………」
鳳凰宮で見た、陛下の薫林王女に向けられた愛おしげな眼差しが頭に浮かんで、胸の奥がじわりと熱くなった。
私はゆっくりと歩き出し、陛下の横に並んで欄干に手をかける。
「陛下、私には……父がいません」
「……え」
低い戸惑いの声が隣から聞こえた。
私は前を向いたまま続ける。
「物心ついた時からずっと、母と祖父母だけが私の家族でした」
私が自身について語ったのはこれが初めてだったと思う。
「……すみません。『親とは』なんて偉そうに説いておきながら、本当は知らないんです。正しい家族の形を」
私はようやく陛下の方を向いた。
つとめて明るく言ったつもりだったのに、目の前にはたった今目の前で肉親を亡くしたような、沈んだ顔があった。
「……そう、だったのか」
冷淡なようで、本当は他人の痛みを我が事のように感じてしまう。この人はそういう人だった。
「でも初めからいないんですから、恋しいとも思いませんでした。きっと、父親というものを知ってから別れるよりマシかと」
この境遇を可哀そうだとは思わない。
この世界に来てなおその思いは変わらなかった。
後宮で働く者の多くは親の罪や食いぶちのために売られてきた。ここには家族の愛を知る人間の方が少ない。
「でも今日思ったんです。陛下みたいな人がお父さんだったら良かったなって。たとえ血が繋がっていなくても、ああやって……抱き締めてくれる人が私にもいてくれたらって」
陛下の腕の中ではしゃいでいた薫林王女を思い出す。あのはじけるような笑顔に、幼い頃の自分を重ねて胸がきしんだ。
感傷に浸りたくない。
あくまでも今は陛下を励まし導くために話しているのだから。
これまでさんざん皆の心を暴いてきたくせに、私自身の心の内を晒すことはとても怖かった。
意志に反して震える喉をごまかすため、拳を握って口の端を上げる。
「もしそうだったら私はきっと、もっと幸せだっ────」
一瞬見えたのは何かを────涙か怒りのどちらかをこらえるような顔だった。
「…………」
雨でも降り出しそうな、湿った空気に頬を撫でられた次の瞬間、白檀の香りに身体を包まれた。
高貴な中にやわらかな甘さがあって、なぜか懐かしさを感じる匂い。
「……え、どうしましたか」
答えはなかった。
「私が……言ったからですか?抱き締めてくれる人がって」
「ちがう」
軽い振動とともに耳のそばで声がする。
「……これまで、お前を通して母上や妃たちの心を知った。だけど今はじめて、お前自身の心に触れた気がして、とても────……だめだ。言葉が見つからない」
もてあました感情の置き場を探すような、切実な声。
状況を飲み込めていない私は、ただ俯瞰するように耳を傾けた。
「……しいて言えば、“嬉しい”……?でもこれは悲しいに近い嬉しいだ。お前の中にわたしと同じ感情があることが、悲しくて嬉しい」
「………」
ふと思った。
今この人は、どんな言葉を発しているんだろうか。
言語能力があるかぎり私は陛下の本当の言葉を聞くことができない。
単なる言葉の壁よりもずっと厚い、決して乗り越えられない障壁が私たちの間にはある。
「それは……“切ない”、ですかね」
「切ない……か。よく分からん」
その言い方があまりにも普通の男の子みたいで、私は笑ってしまった。
同時に自分の中にも陛下と同じ感情を見つけた。
この温かさを知らなければ、自分の身体が冷えている事には気づかなかっただろう。
そんな風に、心の底に抱えた寂しさを分かち合うということは、嬉しいと同時にたまらなく悲しい。
お読みいただきありがとうございました。
連載も長くなってきたので今さら章立てをしてみました。
次話(おまけ程度の短いやつ)で二章が完結し、三章へ続きます。
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今後もよろしくお願いいたします。