任務:王妃の宝物を見つけよ③
蓮の花びらのように色鮮やかな衣を盆にのせた女官たちが、回廊を慌ただしく駆けている。
春が来て、妃たちが一斉に衣を新調しているようだ。
いっぽうで陛下の衣は年中変わらない。だいたい黒の無地で、襟元からわずかに内着の赤がのぞいている。
「最近、あの龍の衣は着ないんですね」
桃が見ごろの御花園の、小橋を渡った先の東屋に私たちはいた。
風が陛下の前髪をふわりと揺らし、隙間からのぞく黒い目はこちらをちらりと見てから伏せられる。
「あれは……鎧のようなもので、己を奮い立たせたい時にだけ身につける。本当は、ああいう派手なのは好まない」
陛下の選ぶ衣は、臣下たちのそれと変わらない。位によって赤や紫を着る官吏たちの方が華やかなくらいだ。
「鎧……」
かつてそれを着ていた陛下の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。
雨竜の首の前で、清龍殿で────。
あの時の陛下は、心の内を“龍の鎧”で隠していたのだろう。
「……これ、覚えていますか?」
私は宝飾品を取り出し、目の前の卓に並べてみせる。
東屋の外に控える宦官たちの視線が、私の手元へ一斉に注がれるのを感じた。しかしこの距離ではこれが何かは見えていないだろう。
「……姉上のものか」
「はい」
これまで陛下が「姉上」と口にするのを、何度か耳に挟んだたことがある。ただその時は、文字通り陛下の腹違いのお姉さんについて話しているのだと思っていた。
それがまさか王妃のことだとは思っていなかったのだ。
「むかし王妃様がこれを失くしたとき、陛下が見つけたそうですね。なぜ探そうと思ったのですか?」
黒ずんだ木目の上で輝く二種類の石のうちから、月光のように静かな光を放つ真珠を指さして私は言った。
「兄上から……はじめて貰ったものだと聞いたから」
陛下がじっと見つめるのは大きな雫形の真珠。
その隣にあるのは、鮮血を思わせるあざやかな紅色の珊瑚玉。失くした真珠の代わりに海陽殿下が新たに贈ったものだ。
「……後からどんなに良いものを貰っても、その時の喜びは戻らないだろう」
そう呟いて真珠の黒い傷をながめるさまに、王妃のさびしげな顔が重なった。
「陛下は物よりも、そこに込められた思いを大事にされるのですね。だからこそ────」
私はもう一度真珠を指さす。
「海陽殿下が、これと同じだと?」
「………」
無垢な眼差しがゆっくりと持ち上がる。
「他の者では、代わりがつとまらないと……」
陛下は否定も肯定もしなかった。
次に私は二つの小箱を出して、耳飾りの隣にそれぞれ並べた。
「これが王妃様にとって唯一無二の宝物であることは確かです。でも陛下、宝を入れる箱は一つではありませんよ。宝物の数だけ“箱”は存在します」
私は耳飾りをそっとつまみ上げて、それぞれ箱におさめていく。
黒い漆に銀の装飾がほどこされた小箱へ真珠の耳飾りを。朱色の箱には珊瑚を。
それを視線で追っていた陛下がようやく口を開く。
「……よく、分からない。人の心にはそのように、宝箱がいくつもあるのか?それが分からぬのは、箱を一つも持ち合わせていないからなのか?」
「……それは、」
私の返事を待たず陛下は続けた。
「姉上は……昔の姉上はよく笑う人で、時にはわたしや兄上を叱ることもあった。だが後宮に来てから姉上はいつも俯き、泣いてばかりだ。わたしのせいで───」
声とともにやり場のない悲しみが、熱をもって湧き上がるようだった。
「わたしが兄上と違って、人の心を知らぬから姉上は泣いているのだろうか。だからわたしは王女の…娘の顔も見られぬ───」
拳が震えていた。
おだやかな凪の海が波打つさまに、私は息をのむ。
“龍の鎧”を脱いだこの人は、こんなにも脆かったのか────。
「陛下、」
外からの視線をいっそう強く感じて、自然と手が伸びた。
小刻みに震える白い拳に私の指先が触れたとき、いっしゅん、越えてはならない境界線が見えた気がして、手が止まる。
それでも───と自分の手を陛下の拳へ重ねた。
ひやりとした皮膚とその下の骨の硬さを感じながら、指で包み込む。
「陛下も持っていますよ。宝箱を」
震えが止まり体温がなじんでいく。
「たとえば陛下のお母上……劉太后と康氏は、陛下の中で同じ箱に入っているのでしょうか。陛下にとって本当の“母”はどちらですか?」
私はそっと手を離しながら、酷な質問だっただろうかと少し悔いた。
だけど今は取り繕う言葉を選べなかった。
卓の上に拳を残したまま陛下は答える。
「この国では……生みの親を何より尊ぶ。それに康氏はいつもわたしの傍にいて、育ててくれた。そういうのを“母”と呼ぶのだろう」
身分ある女性は、子育てにほとんど関与しない。だからこそ乳母や養育係という存在が不可欠なのだ。
ゆえに劉太后と陛下が共に過ごす時間は少なかったという。
その一方で康氏は、母という身分を隠すことで逆に我が子をその腕に抱くことができたとも言える。
「劉氏と長く語らうようになったのは私が即位した後だったが、その時にはもう母上ではなく太后と呼ばねばならなかった」
私は劉氏と会ったことがない。けれど国を治めていた彼女がどのような人物だったのか、耳に入れる機会は多かった。
彼女が周囲に見せていたのは厳格な太后としての顔のみで、その厳しさから影では“毒婦”と呼ばれることもあったという。
「だが……“母上”という言葉を聞くと、まっ先に思い浮かぶのは太后の顔だ。今はもう、そう呼ぶ理由すら無いというのに」
そう言い放った陛下の口元に、わずかな自嘲の笑みが浮かんでいる。
たしかに真実を知ったいま、太后と陛下は名義上の繋がりのみの他人であり、摂政というビジネスパートナーにすぎなかったことになる。
けれど────
あの日私が読んだ手紙の中の劉氏は、息子への深い愛と負い目の間で悩む一人の“母”に違いなかった。
私は視線を落とし、卓の上の小さな宝箱を二つ視界にとらえる。
「太后は……この世の誰よりも陛下の誕生を望み、喜んだ人。そして生涯守り抜いた人。そういう人も“母親”ではないですか」
陛下は目を見開いて私を見る。
「では……二人のどちらもが母上である。それが答えでも?」
「はい。そういう考えがあっても良いと思います。母親も、もちろん父親も」
「父も……」
それこそが、陛下へ私が伝えたかったことだった。
陛下の表情はだんだんと憑き物が落ちたようになり、ゆっくりとうなずく。
そして茶杯にこの日はじめて手をつけた。
「トウコと話すとわたしは……己という人間が一体どういう形をしているのか、だんだん分かってくる。まるで────」
そう言って顔を伏せると、前髪で目が完全に隠れてしまった。白い頬がほんのり赤くなっているのだけが見える。
「まるで、裸にされるような気分だ……」
口へ運ぼうとしていた菓子が私の手から落ちる。
この人の言語感覚に私はたまに面喰ってしまう。
「そ、その例えはやめてください!?」
もし青藍さんに聞かれたら、またゴミを見るような目を向けられそうだ。