こころの距離
「で、ここからが本題なのですが───トウコさんならもう分かりますよね?」
紫雲さんは目尻を下げ唇の端に笑みをうかべる。
艶美な顔で、これまでの話が長い前置きにすぎなかったことを告げた。
それにちょっとムカついた私はあえて質問で返す。
「これまで陛下が鳳凰宮をたずねたことは?」
「ありません。一度も」
────やっぱり。
紫雲さんによると二人はいわゆる仮面夫婦状態。新年の祝賀会など、公的行事の際に顔を合わせるだけだという。
避けているのは陛下だけではない。王妃の方もめったに表には出ず、前夫の子である王女とともに鳳凰宮に閉じこもっているらしい。
「いがみ合っているわけではないのです。ただ、夫婦という形を築くのが難しいのかと」
これまでの経緯を聞けば、それも仕方ないとは思う。
かつて二人は幼馴染みで、義姉弟でもあったのだから。
『王妃には、これ以上迷惑をかけられない』
かつて陛下がこぼしたその言葉の意味を、私はようやく理解した。
「要するにお二人の間に言葉の壁はないけど、ある意味とても大きくて、なおかつ繊細な壁があるんですね」
私が言うと、紫雲さんはうなずいた。
「ええ。それをぜひトウコさんには取り除いていただきたいのです」
するすると流れるように私たちの会話は動く。いや、“流される”というべきか。
「………」
話をせき止めるように黙りこんだ私に、紫雲さんは首をかしげた。
「どうしました?」
「……最初から言って下さいよ。依頼があるからって」
この人は結局この話をするために、今日私を家に呼んだのだ。
わけの分からない詩を詠ませたのも、ハルちゃんについて聞いたのも、壁ドンしたのも、全部依頼のためだった。
だったらあの仏殿での攻防戦は何だったのだろう。
苛立ちをこめた視線をおくると、紫雲さんはとんでもないと掌を左右に振る。
「今日は本当に、あなたと遊びたかっただけですから」
「もてあそぶの間違いでしょう」
「……モテアソブってどういう意味ですか?」
にこにこと満面の笑みが、押し売りのように近づいてくる。
「………」
────やっぱりこの人の家に来るとろくなことがない。
* * *
明るいうちに後宮を出たものだから、帰り道が真っ暗なことを忘れていた。
紫雲さんに借りた灯籠を手に、私は夜の外廷を歩く。
「それにしても、王家の人たちのことずいぶん詳しいんですね。宦官なのに」
ちょっとだけ毒を込めた問いにも、軽やかな声が返ってきた。
「ほとんど人づてに聞いた話ですよ。女官や妃の皆さんは、ときに当事者よりも詳しいですからね」
そうやって他人のことなら包み隠さず話してくれる───なんて思いながら、私は二、三歩前の背中を追いかけ隣に並んだ。
こうして近づくほど隠された部分が明確になって、よけい距離を感じてしまう。
この人のそういうところは“推し”と似ている。
私たちが屋敷を出た時分は、後宮への門が閉ざされるまでに十分余裕があった。
「城内とはいえ、男ばかりの場所ですから。夜道は危ないですよ」といって紫雲さんが門まで送ってくれるという。
……そんな危険な場所を、前回はひとりで帰ったんですけど。
という恨み言は喉元で抑え、静かな夜道を並んで歩く。
日中はずいぶん暖かくなったが、夜は冷える。
道ゆく人もまばらだった。
灯籠を掲げた紫雲さんが何の気なしにつぶやいた。
「トウコさんは、これからも後宮で暮らしたいですか?」
「……というと?」
唐突な質問に、私は隣を見上げながら問い返す。
「青藍とも話したのですが、もう四六時中あなたを監視する必要はないかと。よければ外廷の空き家を用意しますよ」
今の今まですっかり忘れていた。
私が後宮に住んでいるのは、陛下の出生の秘密を漏らさないよう見張られるためだったということを。
私が悪人でないことが、この一年弱でようやく理解してもらえたということか。(にしても信用得るの遅すぎないか?)
「えっと、外の暮らしって、今とはどう違うんでしょう?」
「聖人の住まいはおそらく王族の居住区ですから、生活はさほど変わらないかと。使用人が与えられるので、食事なんかは好きなものを作ってもらえますよ」
私はさっきまで滞在していた屋敷を思い出す。
紫雲さんの家はあの老夫婦らしき使用人が身の回りの世話から料理まで、ほとんどをこなしているらしい。
いっぽう後宮は居住者や敷地が広大なので、料理や洗濯などは専門の部署がまとめて行う。
その点、外廷の方が何かと融通が利きやすいのかもしれない。
「女性にとっていちばん大きな違いは、結婚できることでしょうか」
「ああ、そうでしたね」
基本的に後宮内の女性は全員陛下のもの。他の男性との恋愛は禁止なのだ。
私がそれに当てはまるかは微妙なところだが、堂々と誰かと交際するのは憚られる。
いずれ恋愛や結婚をするつもりなら外で暮らす方が良いのだろう。
それに、外ならばこの前の夜伽事件のようなことも起こらない。
むしろ件の事件があったからこそ、青藍さんたちは私を外で暮らせるようはかってくれたのではないだろうか。
誰だってあんな面倒事は二度とごめんだ。
なんてことをふつふつと考えていると、紫雲さんが急に足を止めた。
「────で、どうですか?今の気持ちは……」
低い声とともに真っすぐな眼差しを向けられ、私は慌てて立ち止まる。
「………」
まるで究極の選択を迫られるような状況に、私はその場で固まった。
頬にあたる夜風がとても冷たい。
「け、けっこん……ですか?」
「……いや。家をどうするかです」
紫雲さんはすぐに表情をくずし、そろえた指を顎に添えてくすりと笑った。
「あー…」
ごまかせない羞恥に私は顔を伏せ、灯籠を見つめる。
「い、今は女官たちとも上手くいってるし、とりあえずこのままで良いかな……、と」
紙の中でぼんやりとした火が、おぼろげに揺れている。
結婚うんぬんはさておき、桃華宮以外の場所で暮らすなんて考えたことがなかった。
鈴玉ちゃんたちと離れ、また新たな家や使用人を迎えるのは気が重いというのが正直なところだ。
「そうですか」
穏やかな声が耳に届く。
そして私たちはどちらともなく、ゆっくりと再び歩きはじめ、それに関しては互いにもう何も言わなかった。
そのうち後宮と外廷を隔てる門が現れた。
両端には篝火と門番が立っている。
私は重厚な石造りを見上げながら、この内と外では世界が違うのだとしみじみ思う。
「じゃあ───っ、」
挨拶を言いかけて、私ははっと息をのむ。
「………」
「どうしたんですか?」
急に黙り込んだ私に、紫雲さんは暴漢でも出たのかと辺りを警戒する。
「あ、すみません。月をバックにした横顔がキレイすぎて、びっくりして……」
「………?」
「映画のポスターみたいで」
「私の……ですか?」
きょとんとした顔の紫雲さんが自分の顔を指さしながらたずねる。
「はい」
私が大きくうなずくと、三秒後に紫雲さんは笑い出した。
「やめてくださいよっ、不意打ちは────」
「え、な、何で?」
何がツボに入ったのか分からないが、彼は腹を抱えてひとりゲラゲラ笑っている。それに合わせて手に持った灯籠がぐわんぐわんと大きく揺れる。
そばでは門番の男が私たちを怪訝な目で見ていた。
「ちなみに、えいがのぽすたーというのは褒め言葉ですか?」
笑いがひと段落した紫雲さんは、目元を指先でぬぐいながら問う。
「まあ、はい」と答えると、紫雲さんはこちらに手を伸ばし私の袖を引っ張った。
「どういう意味?」
急な距離感に戸惑いつつ、私は顔を上げる。
「そ、そうですね……」
空には灰色の薄雲をまとった白い月が浮かんでいた。
映画もポスターも存在しない世界で、どう説明したものか───
「ひと目見ただけで、頭のなかに壮大な物語がよみがえるような。かつて流した涙や、座っていた椅子の感触、空気の温度や匂いまでが漂ってくる。それは何十年間たっても色あせない。映画のポスターというのは、そんな美しさの例えです」
何となくで説明すると、翡翠色の瞳が深く揺れた。気がした。
視線はすぐにそらされ、私と同じように月を見上げる。
「尊敬しますよ。なぜ毎回そんなに新鮮な反応ができるのか」
「なぜでしょうか」
さっきまでさんざん褒め言葉を強いていた人とは思えない。至極まっとうな意見だった。
門番がまたしても不審な眼差しをこちらに向け、ごほんと大きな咳払いをした。
待って。これじゃあ私の方が変態みたいじゃない?
私は慌てて魚符と外出許可書を取り出す。
それを受け取った門番は篝火に照らして確認し、魚符だけをこちらに返して道をあける。
「ではトウコさん、おやすみなさい」
「あ、おやすみ……なさい」
軽く頭を下げてから、私は背を向けて歩く。
この人と「おやすみなさい」を交わすのは初めてだ。
それに気づいた時、なぜか心臓を撫でられたような心地がして、顔が見られなかった。
門を抜けてから、後ろを振り返る。
月明かりの下、来た道をもどる長髪の後ろ姿が見えた。
まだ笑ってるよ、あの人───
男の手元で、灯籠の明かりがぐらぐらと揺れ続けている。
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