海陽殿下
窓の外が暗くなり、火を灯したロウソクの本数が増えた。
紫雲さんが宦官になったのは、今から21年前。先王(憂炎陛下のお父さん)の時代だったそう。
私たちの話題は自然と、その頃の後宮の“影”の部分へとうつる。
「異常なまでに人が死ぬんですよ。特に王子たちが。だれも衣食住には困らないはずなのに、まるで貧民街みたいに子供が亡くなっていく」
かすかに酒の残る、なめらかな口調で紫雲さんは語る。
私が先王時代の話を聞くのは、太后様と康氏の手紙を読んだとき以来だった。
「そういえば陛下の前の王太子も、亡くなってるっていってましたね」
王子たちの死因はみな病ということになっているが、後宮という場所柄、権力争いに巻き込まれた可能性も高いという。
今の後宮とはまるで別世界だ。
しかし結果として今、六王子だった憂炎陛下が国王になっているということは、兄弟の多くが幼いうちにこの世を去っているのだろう。
「前の太子が亡くなった時、残った王子はのちの陛下と、腹違いの兄である海陽殿下の二人だけだったんです」
「海陽殿下、ですか」
初めて聞く名前だった。
「……ここだけの話ですが」
そう言って紫雲さんは顔をこちらに近づける。
めずらしく真剣な表情が灯りに照らし出され、胸がどきりと鳴った。
この世界はLEDどころか白熱電球すら存在しない。いま私たちがいる部屋は、間接照明だけなのだから仕方ない。
夜が深まるほど相手との距離が近くなる。それは自然なことだと心の中で言い聞かせた。
「はい」
「本来ならば次の太子は兄の海陽殿下になる予定でした。しかし先王がその勅命を、直前になって弟の方へ変えてしまったんです」
「………なぜ、ですか?」
私がたずねると、思いがけず紫雲さんは首をかしげた。
先王は太子を変えた理由について沈黙を貫き、本人たちにすら告げなかったという。
少なくとも兄の方に何か問題があったわけではないようだ。
海陽殿下は幼少期から勇敢かつ聡明で、国を導くべく生まれたような人だったらしい。
「先王は劉氏をとくに寵愛していましたから。彼女のために息子を太子に立てたのではという噂もありますが……」
先王は劉氏の立場を守るため、侍女の産んだ赤子を劉氏の子と偽った。
子を太子にしたのも、その愛情の延長だったと言われればうなずける。
しかし紫雲さんの見解は違うらしい。
「実際はその逆で、むしろ海陽殿下を守るためではないかと」
「それって……優秀なお兄さんが殺されないように、あえて弟を太子にしたってことですか?」
言葉で肯定するのは気が引けるのか、紫雲さんはただうなずいた。
「息子を次々と亡くし、先王は悲観に暮れていました。運悪くその時期は天災も続いていて、これで海陽殿下まで失えば、この国はさらに混乱に陥ると懸念していた。そこで苦肉の策として、殿下にあえて王位は継がせず、王の側で国を守らせようとしたのでは、と」
先王は息子ふたりを天秤にかけ、兄を選んだ。
それは父としてではなく、王としての苦渋の選択だったのだろう。
「まあ。いくら優秀な人でも、亡くなってしまえば意味ないですからね」
理屈は分からないでもない。
しかし、それでは憂炎陛下があまりにも不憫だ。太子に即位したとき陛下はまだ13歳。
幼い弟が兄の身代わりにされるなんて。
「でもそれ、海陽殿下は納得されたんでしょうか。王位を弟に奪われたんですよね?」
「殿下は日ごろから玉座に座るよりも戦場に出たいとおっしゃるような方で。喜んで譲ったようですよ」
海陽殿下はさっぱりした性格で、根っからの武人タイプ。
弟のことも幼い頃から可愛がっていたそうだ。
「先王が崩御され、太子だった陛下がそのまま即位し、海陽殿下は北部の国境にある嵋州の王へ封ぜられていました。しかしすぐには赴任せず、一年ほど王都にとどまって陛下の補佐をしていたんです。これは陛下のたっての希望だったそうですが、海陽殿下も弟が心配だったのでしょう」
「へえ、そんなに仲が良かったんですね」
この国に来てずいぶん経つが、陛下にそんなお兄さんがいたなんて知らなかった。
王兄といえば国にとっても超重要人物のはずなのだが。
「じゃあその海陽殿下は、今は嵋州にいるんですか?」
いつか会ってみたいと思いながらたずねると、紫雲さんは静かに首を左右に振った。
「……亡くなられてしまったのです。ようやく嵋州に渡った矢先、水害に巻き込まれて」
「………そう、だったんですか」
驚きと同時に、胸につかえていた違和感がすとんと落ちた。
後宮で海陽殿下の話題を聞いたことがなかったのは、すでに亡き人だったからなのだ。
先王は聡明な息子を守るため、あえて権力を奪い、闘争うずまく王都から遠ざけた。
しかしその息子は、大雨によって氾濫した川によってあっけなく命を奪われたという。
当時赴任したばかりの殿下は、みずから水害復興の前線に立ち、崩壊した堤防の修復にあたっていたそうだ。
私は会ったこともない殿下の、勇ましく暖かい人柄を想像した。
「本当においたわしいことでした。夫人を残して……」
「それは……奥様も、さぞお辛かったでしょうね」
殿下は亡くなったとき、王都から連れ立った婚約者と婚儀をあげたばかりだったらしい。
見知らぬ辺境の地で、結婚したばかりの夫を亡くした夫人の心痛を想像するとこちらまで胸が重くなる。
目の前の紫雲さんも、憂うように視線を落とした。
「……そうですね。太后様もそれをとても気に病んでおられて」
「劉太后が?」
「はい。夫人は有力大臣、蔡氏の令嬢で、海陽殿下や陛下とも幼馴染みでしたから」
「ああ、なるほど」
息子を可愛がっていた兄の妻で、そして幼馴染みならば、若くして未亡人となった夫人を心配するのは当然だ。
「……ですから太后様は夫人を、今度は陛下の妻として後宮へ迎えてしまったのです」
「ええ!?」
思いもよらぬ展開に、私は今日一番の大声を出してしまった。
「王家では夫を亡くした妻は仏門へ入り、生涯喪に服さねばなりません。しかし当時夫人は、身ごもっておられたので」
「……あれ。それって、もしかして……」
話の中の夫人が、私の知る人物と重なる。
「ええ。それが今の王妃様です。戸籍上、王妃と陛下の間には子がいますが、陛下は本当の父親ではありません」
「正確には……叔父、と」
「そうですね」
状況を飲み込むごとに鼓動が速くなる。
「えっと、この話は……」
図らずも、とんでもないスキャンダルを聞いてしまったと思い私は声を低くする。
そんな私に紫雲さんはやわらかく笑った。
「国の者なら皆知っていることですよ。陛下の実子でないとはいえ、王女様もれっきとした王家の血筋ですし」
生まれたのが男子だったら、事態はもっと複雑になっていただろうと紫雲さんは言う。
いずれ他国に嫁ぐ王女だからこそ、難なく受け入れられたのだと。
とはいえ、おおっぴらにして良い話題ではなさそうだ。
だからこそ、紫雲さんは今日私をここへ連れてきたに違いない。