秘密のいとなみ②
「トウコさん。この国でいちばん美しいのは?」
頬杖をついた魑魅魍魎が、その美貌をかたむけながら今度は質問タイムをはじめた。
“アレ”は終わったんじゃなかったのか、と面倒に思うが、逆らえばこの場で取って喰われそうな勢いだった。
仕方なく私は魔法の鏡となって「あなた様です」と答える。
「……では”ハルちゃん ''とやらと、どちらが?」
顔を傾けたまま再度たずねる紫雲さん。
「……」
意地悪な質問に魔法の鏡はあっという間に曇る。
期待した答えが得られなかった女王様の表情も曇った。
「べつに好き嫌いを聞いてるんじゃありませんよ。どちらがより美しいかを訊ねているんです!」
紫雲さんは卓の上にバンと両手の拳を乗せた。頬は赤く、目が完全に据わっている。
「でも私……ハルちゃんの素顔を知らないので」
委縮しつつこぼした私の言葉を、紫雲さんが繰り返す。
「素顔?」
「……、」
私はこの日はじめて酒をあおった。
空になった盃を置くと、胃から喉にかけてじんわり熱がこみ上げる。
斜め下を向いたまま私は口を開いた。
「……ハルちゃんは2.5の役者なので、基本カラコン+ウィッグでゴリゴリメイクだし。すっぴんは役者仲間のSNSで見れるけど、ハルちゃん謎に写真写り悪いし。ブログに載せる自撮りも下手くそで。画質もガラケーかよってくらい荒いし、私服ダサいし。おじさん構文だし……」
無駄に早口になる私を前に、紫雲さんは唖然とした顔で固まっていた。
「……すみません。九割がた何言ってるかわかりませんでしたけど、愚かな質問をしたことだけは理解しましたよ」
まるで魑魅魍魎でも目の当たりにしたような眼差しを向けられた。
何はともあれ、彼はようやく正気を取り戻したらしい。
「そういえば、彼はトウコさんと同じニホンの方なんですよね」
「はい」
紫雲さんは盃の代わりに茶器をとってお茶を淹れる。あたたかで、果実のような甘い香りがたちこめた。
「ニホンにはこういう顔が多いのですか?この国では似ている人ってあまり見ないので」
「いやいや!」
私は慌てて手を左右に振る。
こんな顔の人があちこちにいたら大変だ。
「ハルちゃんはクオーター……えっと、お祖父さんが異国の人だったそうです」
紫雲さんはこちらに茶杯を差し出すと、自らもお茶をひと口含んだ。
無言で味わったあとようやく口を開く。
「じゃああの人も……異国の血が混ざっていたのかもしれませんね」
「あの人?」
紫雲さんは視線を伏せて卓の端を見つめる。
翡翠色の目の中で、ロウソクの火が揺れていた。
「母親ですよ。顔は知ってますけど、ろくに話した記憶はなくて」
「……そう、なんです?」
深追いして良いものか迷っている私に
「妓女だったんです。今は何処にいるのか、生きてるのかすら知りません」
と、あっさりと己の出自を告げた紫雲さん。
「私、正確な年齢が自分でもわからないって前に言ったでしょう?妓楼で生まれた時、生年月日を誰も記録していなかったせいで」
笑い話のように語った。
私にとっては妓女も妓楼も、物語の中の存在でしかない。
そんな世界で生まれた人間が、いま目の前にいるのは何だか実感がわかない。
「それは、何とも……」
正式な届け出のされない子供は王都にも多い。そういう子は読み書きもできないまま、どこかの家の奴婢として生涯を終えるらしい。
ただ記録されていなくとも、記憶している者はいるはずだ。
少なくとも、己の腹を痛めて産んだ者が。
私は頭の中で、紫雲さんに似た美しい妓女の姿を描いた。
紫雲さんは茶杯の縁を指でなぞりながら、口元にうすく笑みを残したままつぶやく。
「……仕方ないですよ。私はハズレだったので」
形の良い唇から紡がれるには、似つかわしくない言葉だった。
「ハズレ、ですか?」
妓女の子となれば、少なくとも望まれてできた子ではなさそうだ。
そういった様々な事情で親元から離れた子が、宦官には多いと聞く。
けれど紫雲さんの“ハズレ”にはもっと、底知れぬ怒りと自嘲が込められている気がしてならない。
私は黙って、彼がその意味を明らかにしてくれるのを待った。
「……ええ。それで幼い頃に、人買いを通して後宮へ流れてきたんです」
けれど紫雲さんは手元の紙を見つめながら、ハズレという言葉を無かったことにした。
ということはきっと、本来は言うつもりがなかったのだろう。少なくとも私には。
”素顔”を知りえないのは、何もハルちゃんだけではない。
その事実を突きつけられた私は、口内の苦い酒を腹へ飲み下す。
そして空の盃をあたたかい茶杯に持ちかえた。
「……でも仏殿の人たちって、もともとどこかの寺の子かと思ってました」
僧侶は他の宦官とは生活様式が異なる上に、一度外の寺で修行をする必要がある。寺から派遣した方が効率的だと思うのだが。
「そういう者もいますよ。ただ、それだけだと少々問題がありまして」
私が顔を上げると、紫雲さんはいつものしたり顔で微笑んでいた。
「宦官は妃に気に入られるのが第一ですから、見目の良い者を加える必要があるんです」
「ああなるほど」
やけに目立つのがいるせいで気づきにくいが、仏殿の僧侶さんもイケメンが多い。剃髪した人でさえオシャレ坊主かと思うほどキラキラしている。
「宦官は容姿が第一で、次が愛嬌ですね。結局のところ我々も、妓女とそう変わらないんですよ」
笑いながら、言葉の端にわずかな毒がにじんでいる。そんな気がするのはさっきの会話のせいだろう。
私は気づく。
この人がいつも物腰柔らかなのは、生まれ持った気質のせいだと思っていた。
だけど本当は、生きるためにそうならざるを得なかったのかもしれない。
後宮という特殊な環境にいなければ、この人はもっと素直に怒ったり悲しんだり、今とは異なる表情を見せてくれたのだろうか。こうして酒なんかに頼らずとも。