秘密のいとなみ①
電灯のない世界では、人の活動時間が早い。みな夜が明けぬ頃から働きはじめ、夕食は明るいうちに済ませてしまうことも多い。
元の世界では夕方とよばれる頃に、私は紫雲さんの屋敷をたずねた。
2階の部屋に招かれると前回同様、卓の上にはすでに料理や酒が並んでいる。
私が席に着くと紫雲さんも「よっこいしょ」と声を上げて椅子に腰を下ろした。
いつもは中性的で上品なこの人も、家では割と年相応の男性……というかオッサンぽい時がある。
やはり色んな意味で開放的になるからからだろうか。
「まず確認したいのですが……」
席に着くなり紫雲さんは両肘をついて神妙な顔を寄せた。
「はい」
急にはりつめる空気に、私は緊張気味にうなずく。
ちなみに前回の失敗をふまえ、後宮へ帰るための入門許可証はすでに私の手の中だ。
「……"オシヘン"してませんよね」
「………?」
その言葉の脳内変換には五秒かかった。
「……してませんよ。ていうかどこで覚えてきたんですか推し変て」
「でもあなたの匂いがちょっと、変わったような……」
紫雲さんは鼻の下に人差し指を添え、眉をひそめて疑いの表情をつくる。
私は堂々と身を乗り出して言った。
「やっぱり男と寝た(広い意味で)せいでしょうか」
「………」
『スン』という幻聴とともに紫雲さんの表情が"疑"から"無"に変わる。
そして何も聞こえなかったかのように、右手で卓上の酒器をとった。
静まり返った部屋にコポコポと酒が注がれる音が響く。
「………」
喪女が放った渾身のボケだったのに……。
まさかのスルーにちょっと傷ついた私だが、今は物申せる立場ではないことを思い出す。
小さな盃から酒がこぼれる。紫雲さんは袖が濡れるのも気にせず、それを一気にあおった。
ああ、またそんなことをしたら……なんて小言をはさむ勇気はない。
彼の顔には大きく『不機嫌』という文字が貼りついているからだ。
「ではさっそく始めましょうか。アレを」
紫雲さんは空になった盃を目線に掲げ、鋭い視線で私を射抜く。
「……わかりました」
私がため息まじりに答えると紫雲さんは立ち上がり、酒器を持ったまま部屋の隅にあるソファへ移動した。
二人きりの空間で、ついに"アレ"が行われるのだ。
もう、逃げられない───。
私は覚悟をきめて上着の袖をまくった。
* * *
「はぁ……」
窓から差し込むオレンジ色の夕日。そして蝋燭の火がゆらめくなか、低く甘い吐息がひびいた。
「やっぱり……良いですね」
ソファに浅く腰掛けた紫雲さんは、背もたれに身体をあずけ呆けた顔をしている。
翡翠の瞳で壁と天井の境をぼうっと見つめ、品のあるふくらみをもった唇は無防備に開いたままだ。
「はあ、不得手で恐縮ですが」
ゆるみきった推しの顔を前に、私はただ粛々と手を動かすのみ。心の中で早く終われと願いながら。
「初心者とは思えませんよ。やっぱり天性のものが……あるかと」
「………」
私は手を止めて軽く息を吐いた。
褒められて悪い気はしないが、この営みの珍妙さを思えば素直に喜べるものではない。
こんな状況、もし他人に見られたら一体どう説明するつもりなのだろうか。
「続けて?」
「ああハイ」
強欲なモンスターにうながされ、私はふたたび筆を握る────。
「え~っと、"その微笑みに月は涙を流し、吐息は花びらとなって私の頬を撫で……"」
小さな紙に書いたばかりの言葉を私が読み上げる。
すると紫雲さんはソファの上でしなやかに身体をよじらせた。唇の隙間からは吐息とも喘ぎ声ともつかない声がこぼれる。
「ずっと欲しくてたまらなかったんですよ。コレがないと私、気持ちよく酔えなくて……」
老若男女誰もがうらやむ美貌をもつ男。
そんな紫雲さんは日頃からその容姿を褒められることに、たまらない悦びを覚えるらしい。
よって今私は彼の前で、その美しさを讃える詩を即興で詠まされているわけだ。
実は"こういう事"は今日が初めてではない。
以前この家で、彼の顔がどストライクであると私が告げた日からそれは始まった。
『────トウコさん。今ちょっと疲れているので、私の顔を褒めてくれませんか』
『???』
紫雲さんと二人で妃の屋敷をたずねた帰り、突然そう言われた時はわけがわからず困惑したものだ。
ここで彼の名誉のためにも言っておくが、紫雲さんの褒めるべき点は容姿以外にもたくさんある。
けれど彼の耳には、顔以外への称賛が世辞にしか聞こえず、至極の悦楽は得られないのだという。
だからこうして栄養剤代わりに賛辞を所望し、私が応えるという謎行為がひっそりと行われているわけだ。
「"天上人は雲から顔を覗かせ、夜ごと地上の夢を見────"」
正直自分でも何を言っているのかよく分からない。
これが詩と呼べるものなのかも。
「……んふっ」
けれど紫雲さんは口元を手で押さえ、鼻から息を漏らし笑った。満足しているらしい。
一体この人の神経回路はどうなっているのだろう。
ところで、この国ではとにかくキレイな言葉でイイ感じの詩を詠むことが尊ばれるようだ。
詩が上手ければモテるし官僚にもなれるのがこの覇葉国。
その辺の感覚の違いもあるのかもしれない。
「今日はここまでにしましょうか。これ以上は……戻れなくなりそうなので」
自己肯定感の湯船に浸かって、瞳を濡らした紫雲さんが言う。
「へい。お疲れした……」
私は筆を置く。肩にはどっと疲れがのし掛かった。
筆記具を片付けながら、私の中にある疑問が膨らんでくる。
文人でもない私の詩が、果たしてこんなに人を魅了するものだろうか。
思えば後宮でBL本があんなに流行っているのもおかしい。
小説は元の世界でもたまに書いていた。けれど旬ジャンルの二次創作であろうとブクマは三桁いったことがない。私の文才などそのレベルだ。
もしかして私の書いた文章は、翻訳される過程でものすごい名文に変わっているのではないか?
────これこそが私の、聖人の力?
* * *
「そういえば、そもそも紫雲さんってお酒飲んで良いんですか?」
私は改めて円卓の席に腰を下ろすと、目の前で盃に口をつける僧侶にたずねた。
「だめですね。表向きは」
僧侶には「不殺生戒」をはじめとした戒律が沢山ある。
飲酒、肉食、女人との接触も厳禁。
「我々は寺で暮らしているわけではないので。みな隠れて楽しんでますよ」
ちなみに"肉"とは命あるもの全てのことなので、魚や玉子もダメ。
紫雲さんの場合、肉食は月に三度、酒は一度までと決め、普段は豆や野菜を食べているらしい。
その理由は戒律というよりも美容のためだそう。
「才ある者は常にそれを知り、磨き、恩恵を与える義務がある。強者ほど努力せよということですね。美しさも同じことです」
そう言って紫雲さんは高野豆腐の煮物を箸でつまみ上げた。
ふだん飲んだくれているのかと思いきや、意外にストイックな人のようだ。
「紫雲さんの若さは努力の賜物だったんですね」
私がそうこぼすと、目の前に大輪の笑顔が咲きほこる。いつもとはうって変わって分かりやすい。
「美の秘訣は日ごろの節制と、こうして摂取する心の栄養ですよ」
紫雲さんは私の書いた詩を掲げ、うっとりと眺めたのち紙面に口付ける。
「……っ!?」
そのまま紙を丸めて飲み込んでしまいそうな迫力に、私は背筋がぞくりと震える。
この世の魑魅魍魎を目の当たりにした気分だった。
……もしかしてこの人、節制のしすぎで性癖が歪んでしまったのかもしれない。
そう思うと憐れみの感情さえわいてくる。
ただでさえ宝具であそこを抑えているのだから、動物性タンパク質くらい好きに摂った方が良いのではなかろうか。
【こぼれ話】
普通の宦官は結婚できますが、僧侶は戒律のためできません。
認められていないがゆえ結婚のために還俗(僧侶をやめる)する人も結構います。