ゆれる帳(とばり)④
「────ということで、トウコさんはこれからも聖人としてお仕えしてくださいね」
ひと通りの経緯を聞いた私は胸をなでおろした。
「よかった……」
最悪の場合、身体検査でもして潔白を証明する覚悟だったのだが、その必要はなさそうだ。
仏殿の執務室で私と向かい合う紫雲さんは続ける。
「まあ、トウコさんを妃にしたいという陛下のご意向があれば覆る可能性もありますが」
今のところ覆っていないので、陛下にその意向は無いのだろう。
本当に妃にされるんじゃないかと正直この数日間は気が気でなかった。
ようやく冷静になれた今、ふと素朴な疑問がわいてくる。
「そもそも聖人って妃になれるんですか?」
いくら国際色豊かな後宮とはいえ、異世界人の血が王家に加わるのは如何なものだろうか。
「……少例ですが、過去にあったみたいですよ」
紫雲さんはそう言って立ち上がると書棚の方に移動し、一冊の書物を取り出してきてた。
表紙には『国史』。覇葉国の公式の歴史書だ。
中でも紫雲さんが持ってきたこれは特に【人物】について記されているらしい。
「ここです。この……聖人愛羅」
紫雲さんが机の向こうから、書物をこちらへ向けてページをめくった。
私は身を乗り出して、彼が指した文字を目で追う。
"───聖人愛羅は歌が大変上手な少女で、その天使のような歌声に老若男女誰もが心を奪われた。
彼女の歌声は戦火を沈め、天から恵みの雨をもたらした。"
「当時の国王が彼女に惚れこみ、貴妃に召し上げたとのこと。彼女との間に5人の子供をもうけたそうです」
文章が硬くてうまく読めない部分は紫雲さんが読んでくれた。
「へえ」
私が驚いたのは妃云々よりも、そこに書かれた聖人の能力。あまりに超人的で、いかにもファンタジーの「聖女様」という感じだった。
雨乞いさえできない私とは雲泥の差だ。
「聖人って、後宮だけじゃなく国全体へ影響を及ぼす存在だったんですね」
「ええ。元はそうですよ。時代や、その聖人の能力によって役割は変わってきます」
……そんなすごい力を持った人物が、本当に私と同じ聖人なのだろうか。
「さすがに聖人の子が王位を継ぐことはなかったようですが。しかし今も王家のどこかにはこの聖人の血が流れているのでしょうね」
そう言って紫雲さんは書物を閉じ、話題を本筋に戻した。
「ともかく今回の騒動で李親子も反省したようですし、今後は陛下が後宮をさまようなんて事はないかと」
そして唇の端に笑みをうかべる。
「そもそもあの陛下がそう簡単に夜伽するわけないんですよ」
「ははは……」
"あの陛下"の意味するところがだんだん分かってきた私である。
「とりあえず、私は以前と変わらない生活ができそうで良かったです」
そう返すと紫雲さんは、微笑んだまま無言でうなずく。
「………」
そして、わずかに首をかしげこちらをじっと見つめてきた。
聖母の笑みはそれだけで絵になる美しさだが……どうも何か言いたげである。
いや、むしろこちらに「何か言うことがあるでしょう?」とうながしているようだ。
そんな顔をされても「良かったです」以外に何も言うことは無いのだが。
私はひとまず、目の前の美貌を真似るように首をかしげてみる。
「………」
紫雲さんはピクリとも動かない。
私たちの間に白けた空気が流れた。
「……あ、これ返してきますね」
気まずくなった私は『国史』を持って立ち上がり、部屋の奥へ小走りに向かう。
書棚の前で立ち止まる。
整然と並んだ書物の中、ちょうど私の身長くらいの高さに大きな隙間を見つけた。
私は持っていた『国史』をそこへ差し入れる。
「────ん?」
「トウコさん」
視界が暗く陰るのと、背後から名を呼ばれたのは同時だった。
反射的に右足を後ろに引くと、背中に大きな何かがぶつかる。
「……はい、何ですか」
いやな予感がした私は足を戻し、前を向いたまま返事をした。
その人がいま、私の背中に触れるか触れないかの距離にいるからだ。
「久しぶりに家で呑みませんか」
背後に立つ紫雲さんは右腕をゆっくりと上げる。
その手は私の頭の横を通り、さっき戻したばかりの『国史』に触れた。
「え……ええ。ぜひ」
私はその腕に触れないよう肩を丸め、当たりさわりのない返事をする。
目の前には書棚、背後は男性に挟まれている。これは何だ?ニュータイプの壁ドン……?
「じゃあ今夜いかがです?」
紫雲さんは本の背表紙を指で撫でたり、たわむれに引き出したり。いっこうに腕を下ろす気配がない。
すぐそばで紫色の直綴が揺れるたびに、焚きしめられた沈香が鼻先へ漂ってきた。
「また……急ですねぇ」
右側をふさがれた私は、ガラ空きの左サイドから抜け出そうと試みる───が、今度は左手が私の肩を掴んで引き止める。
「……っ」
その力は"掴んだ"なんてものじゃない。肩に重石でも乗せられたかと思った。
それでも逃れようと身じろぐ私と抑える紫雲さんの、静かな攻防戦。
その拍子に紫雲さんの袖が捲れて腕があらわになった。
手の甲から肘にかけて太い血管が浮いた腕は、繊細な顔立ちからは想像つかないさまでぎょっとする。
「なっ、なんで───何でそんないきなり!?」
前後左右、完全ホールドされてしまった私は苦しまぎれにたずねる。
前回もそうだったが急すぎるのだ。
来週とか、せめて明日とか。いろいろと心の準備をさせてほしい。
「……欲しくなっちゃったんです。トウコさんの"アレ"が」
肩を後ろに引かれ、背中が胸板に密着する。
甘えるような声と吐息が耳に触れて動悸が高まった。
「あれ……とは……」
心当たりが無いわけではないが、念のため私はおそるおそる背後を振り返る。
そこでは目尻を垂らした菩薩の笑みがこちらを見下ろしていた。
「ふふふ」
「………」
背中を何かがぞわぞわ這い上がる。
この人はなぜ笑っているのだろう。
明らかに不機嫌なのに顔だけ笑っている。
そしてなぜ一ミリも表情が動かないのだろう。
まばたきすらしないなんて、精巧な蝋人形みたいで怖すぎる。
「夜が駄目なら、今ここでいただだいても?」
人の心を持たない蝋人形は、なお笑顔で私のパーソナルスペースを奪っていく。
「ひっ……」
私はあわてて前を向く。
いま背中に押し付けられた感触は腰に巻いている帯だろうか。
少しでも接触を避けるため、私は前方へ倒れ込み書棚に身体を押しつける。紙と埃の匂いが立ち込めた。
「こんなに渋るなんて、トウコさん忙しいんですねえ……"今夜は誰と寝るんですか?"」
悪意の塊のようなセリフが、いたわしげな声でささやかれた。
それが全ての元凶だと言わんばかりに。
「いやいやいや!!とんでもない語弊が!!」
押し潰されながら、私は壁の向こうに誰もいないことを願う。
────しくじった。
この人のあしらい方は分かってきたつもりだったのに。
おぞましいほどの執念。もしくはアレに対する執着。
でも今はそんなことより────このままだと押し潰されて死ぬ!圧迫死!
「いきまふ!今日いきまふから!」
歪んだ唇の隙間から何とか声を漏らすと、背中の圧迫がふっと消えた。
後方によろめく私の身体は、さっきまで死闘を繰り広げた腕によって受け止められる。
「………トウコさん」
「………はい」
「今夜はお赤飯ですよ♪」
紫雲さんは背後から私の顔を覗き込み、今日いちばんの笑顔を見せる。
「な」
もう昼すぎだ。あと3時間ほどでこの人の家に向かわねばならない。
誰か……今すぐ「赤飯_意味_覇葉国」 でググらせてくれ。
とにかく早く帰って風呂に入るべく、私は執務室を飛び出した。
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