愛傷②
私と紫雲さんは桃華宮を出てすぐに楊婉儀の宮を訪れた。
寝台の上にいた楊婉儀は白い寝間着のような格好で、トレードマークだった華やかな装飾品の一切を外し、髪を下ろし化粧も薄い。まるで病人のようだった。
彼女は私たちの顔を見るなりふらふらと寝台から降り、侍女とともに「申し訳ありません」と土下座した。
私たちは慌てて彼女を立ち上がらせ椅子に座らせた。
「おっしゃる通り、私と尚順儀は御花園で言い争いをしておりました。それがだんだんと激しくなり、私が彼女の衣を掴もうとした時、背後から男性が止めに入ったのです。でもそれがまさか陛下だと思わず…」
ただの宦官が仲裁に入ったのだと思い、それで抵抗するように手を振り上げたら彼の顔に当たった。そこで初めてそれが陛下だと知ったという。
「男性にいきなり近づかれて驚いたのでしょう」
私が言うと楊婉儀はコクリとうなずく。
医官以外の宦官は基本的に妃の身体に触れてはならないルールなので、彼女の気持ちは分からないでもない。
「あの、陛下のお怪我は……」
楊婉儀は今にも倒れそうな様子でたずねた。
「大したことありませんよ」
紫雲さんが答えると楊婉儀は身体を縮ませるように頭を下げた。
「私はどのような罰でも受けます。ただ家だけはどうか……」
楊婉儀の声が震える。彼女の実家は宮中御用達の調度品をいくつも扱う商家だという。彼女が多くの装飾品を持っていたのはその影響のようだ。
紫雲さんは叱る気も失せたという表情で言った。
「陛下は怒るどころかあなた達を心配しておられます。いったい何が原因で言い争いを?」
「……」
たずねられた楊婉儀は、口を開きかけて一旦閉じる。
そしていっしゅん私の方をチラリと見てから声を漏らした。
「あの、『桃蜜』を……」
「……トウミツ?」
首をかしげる紫雲さんの隣で私は「あ」と声を漏らした。
「ま、まさか『桃蜜』って、あの……?」
私は頭から血の気が引くのを感じながら楊婉儀にたしかめる。
「ええ、桃聖人の……」
「何なんですかトウコさん」
気まずそうに顔を伏せる私たちに紫雲さんが詰め寄る。
『桃蜜』は、私が書いた紫×憂の新作BL小説だ。
異国の妃のために書き始めた私のBL小説は、今や覇葉人の妃や女官にも広まっている。
最近は新作が出来るとまずは4冊ほど用意し妃嬪の宮へ順番に回す。本が回ってきた宮では女官らがそれを筆写し、各々で保管し楽しんでもらう、という形だ。
しかし『桃蜜』に関しては"ある事情"のため本を2冊しか用意せず、1冊は私が保管、残り1冊を各妃嬪へ回している。侍女による筆写も禁止しているため、1冊を回し読みするスタイルだ。
「尚順儀が『桃蜜』を受け取ったのを聞いて、次に読む私は楽しみにしていたの。だけど彼女は3日経っても5日経っても回してくれない」
なかなか順番が回ってこないと妃嬪の何人かからクレームが来ていたのだが、ここで止まっていたのか。
「だから彼女を御花園へ呼び出して、早く貸してよと言ったの。そうしたらはぐらかされた上に、あろうことか『こういう話だから』と自慢げに内容を語り始めたのよ!?ずっと楽しみにしてたのに!私悔しくて悔しくて……」
子どものように怒りを表す楊婉儀。
「ああ……」
私はため息と同時に声を吐き出す。つまり楊婉儀はBL小説のネタバレに怒り口論となったようだ。
「私達は陛下にお目通りする機会も滅多にないから、あの物語が唯一の楽しみだったのに────」
「………」
紫雲さんは驚いているのか呆れているのか、とにかく言葉を失っていた。
妃を争わせた末国王の顔に傷を負わせた原因がまさかBL小説だとは夢にも思わなかったのだろう。もちろん書いた私だって。
「───申し訳ございません!!」
私はその場に跪き、楊婉儀以上に深く土下座しながら紫雲さんに事の次第を説明した。
「……事情はだいたい分かりましたが、なぜ今回の本は1冊しか回さなかったのですか?」
「その、内容が……ちょっと」
言いよどむ私と、顔を赤らめる楊婉儀の様子からだいたいを察したのか紫雲さんは「尚順儀のところへ行きましょう」と屋敷を出た。
私は重い足取りで後をついていく。
『桃蜜』
《ある夜、妃から贈られた桃饅頭を口にした憂炎陛下。その饅頭には媚薬が仕込んであった。急な身体の火照りに戸惑いひとり身をよじらせる陛下に、紫雲が気づいて駆け寄る。彼は巧みな手つきで陛下を慰めると自らも桃饅頭を口にし、最後は陛下を丸ごといただいてしまう───》
というストーリーは正直あってないようなもので、いわゆるR18のエロ小説だ。
後宮の淑女が読むにはあまりに内容が過激なため、1冊のみを18歳以上の妃限定で回し、内容が外部へ漏れないよう書き写すことも禁止したのだ。
「私、こんな過激な話初めて読んだわ。しかも陛下たちがモデルなんて……手放すのが惜しくって。内緒で書き写してしまおうかと思っていて回すのが遅くなったの……」
楊婉儀と同様深く反省しやつれた様子の尚順儀。彼女からの聞き取りの結果、口論の原因や陛下が怪我をした背景についてはおおよそ楊婉儀の証言と一致していた。
日頃から多くの装飾品を持つ楊婉儀を羨ましく思っていた尚順儀。今回はそんな彼女よりも自分が先に物語を知っているという優越感もあって、ついネタバレを語ってしまったのだという。
「まさか男色小説がこれほど女性たちを狂わせるものだとは思いませんでしたよ」
紫雲さんは尚順儀の手元にあった『桃蜜』を取り上げる。
「ふむ。私が《目前に晒された憂炎の、白桃のごとく瑞々しい尻に》……」
「ああああ」
深夜テンションで書いた部分を当人みずから朗読されてしまい、私はただ両手を上下に振って狼狽する。
何度も読み込んでいただろう尚順儀も、顔を真っ赤にして「お許しください!」と土下座した。
「陛下の名前をそのまま書いてますし、内容も完全に不敬罪。……トウコさん、あなた自分の命がいくつあるとお思いで?」
刺すような視線を向けられると、私は尚順儀と並んでその場に土下座した。
もはや誰よりも罰を受けるべきはこの私なのだ。
「処罰は受けます。ただ命だけはどうか…」
顔を伏せていると頭上から紫雲さんのため息が聞こえる。
「まぁ私もこれまであなたの創作を見逃してきましたし。いろんな意味で勉強になりました」
紫雲さんは『桃蜜』の書かれた紙を巻いて私の頭をポンと叩く。
そして私たちを残したまま『桃蜜』を片手に屋敷を出て行った。
* * *
「────喧嘩の原因は私の書いた物語でした。申し訳ありません」
私は青藍さんがいない時間を見計らって清龍宮を訪れ陛下に謝罪した。
紫雲さんも私の執筆を黙認していたことを打ち明け、隣で一緒に頭を下げてくれた。
「……そんなに面白いのか。あの2人が取り合って喧嘩するほど」
相変わらず怒る様子が微塵もない陛下は不思議そうな顔で私たちを見下ろし、興味深げな声を漏らした。
「トウコさんの物語は妃たちの心の慰めとなっています。我々の説法よりよほど有能かと。ただ今回はそれが仇となった次第です」
紫雲さんが粛々と述べた。
「強すぎる娯楽は時に人を狂わせる、ということか」
そう呟いて陛下は一人うなずく。
「故意ではないにせよ、我々が陛下のお怪我の原因を作ったも同然。よって陛下、妃と共に私達にも罰をお与えください」
紫雲さんは顔を伏せたまま言い、私ももう一度頭を下げる。
「ふむ。そうだな…」
小説の内容については決して知られぬよう紫雲さんと打ち合わせ済みだったが、幸い陛下がそれ以上追求することはなかった。
しばらくの沈黙ののち「2人とも顔を上げよ」という声が聞こえ、私達は頭を上げる。
「紫雲、この怪我は猫のせいにする。あの場にいた者には決して口外せぬよう取り計らってくれ。それがお前の処罰だ」
「かしこまりました」
「妃たちとトウコは五日間の謹慎とする。謹慎中、楊婉儀と尚順儀には『女訓』を書写するよう伝えろ」
『女訓』とは女性の在り方について説いた書である。妃たちはこれで貞淑さを身に着けろという事だろう。
「トウコは…」
「はい」
陛下の顔が私の方を向く。
「トウコはその間に新しい物語を書いて、謹慎明けに2人へ渡してやれ」
「………」
てっきり物語を書くことを禁止されるかと思っていたので、私は驚いた。
謹慎する2人への労い……というより仲直りのきっかけを用意したかったのだろう。何とも陛下らしい采配だ。
この人はただ優しいわけじゃない。
目の前の状況を冷静に見極め慮る姿勢に、私は再度深く頭を下げる。
「陛下の寛大なお心に感謝いたしm」
「ついでにわたしも読みたい」
「え」
言い終わる前に放たれた言葉に、私は反省している事も忘れ耳を疑う。
隣の紫雲さんも肩をびくんと揺らした。
「読みたい」
顔を上げると、陛下のわくわくした表情が目に入る。綺麗な顔に大きな膏薬(貼薬)を貼っているのが何とも痛々しい。
この傷も、元をたどれば私のせい……
「……かしこまりました」
もはやそう答えるしかない私に陛下は「楽しみだ」と言いながらうなずく。
「これでこの件は仕舞いだ。安心したら腹が減ったな」
そして私たちの前でおやつの桃饅頭をぱくりとほおばった。
私は慌てて紫雲さんの方を見ると、彼も驚いた様子で首を左右に振る。
桃饅頭は元から陛下の好物なのでおそらく偶然だろう。
【こぼれ話】
今さらですが、覇葉人のセリフでもカタカナ語が普通に出てきます。これは彼らが実際に「モデル」とか言っているのではなく、トウコの耳に入る過程で彼女が一番理解しすい言葉に翻訳されるためです。