愛傷①
「……トウコ」
桃華宮の自室でBL小説を練っている最中、ふと背後から声がして振り返る。
「え……陛下?」
部屋の入口にいたのは黒い衣の青年。およそここにいるはずのない人物で私は慌てて椅子から立ち上がる。
「どうしたんですか一体?」
相変わらず感情の読めない陛下は、側に青藍さんはおろか一人の宦官も付けず、なぜか左手を頬に当てながら立っていた。
「ちょっと……怪我をした。血が出たから手巾を貸してくれないか」
そう言って目線を左右に動かし、陛下は顔に添えていた手を下ろす。
白い頬には細い筋状の赤い血がにじんでいる。手で押さえていたせいか、顎や手も薄く血で汚れていた。
「大変!侍医を呼ばないと」
陛下の体は玉体とも呼ばれる。少しの怪我でも一大事だ。
私が慌てて部屋を出ようとしたら腕を掴まれた。
「侍医は呼ばないで良い。青藍たちにも言うな」
「え……何で」
「……大した傷ではないから」
真剣な表情で私を引き止めた割には、陛下は曖昧な返事しかしない。
とりあえず彼を寝台の上に座らせ、女官に飲用の水と未使用の手巾を持ってきてもらった。
屋敷の庭にいた女官が言うには、陛下は側仕えの若い宦官たちの制止を振り切るようにして一人この宮へやって来たらしい。初めからその場に青藍さんはおらず、宦官らは屋敷の前で皆帰らされたそうだ。
「陛下、これで手を洗ってください」
水を入れた桶を置き、私は濡らしたハンカチを陛下の頬に当てる。
傷は浅いようで血は既に止まっている。
「痕にならないと良いですけど」
陛下はとてもキメ細かな肌をしている。髭どころか毛穴も見えない。傷がつくなんて勿体ない。
目の前の顔をしげしげと観察しながら拭いている中、陛下は何も言わず瞼を下ろして座っている。
「目は閉じなくて良いですよ」
そう言うとハッとしたように目を開けた。
血はキレイに拭けたので、あとは絆創膏代わりの膏薬(貼薬)を貼れば良いと思うが、素人の私が治療を施すわけにいかない。
「陛下、侍医がダメなら後宮の医官はどうですか?」
「まぁ……それなら良いが」
ということで、急遽橙さんを呼んできてもらった。
「────おや、陛下じゃないですか」
女官に連れられてきた橙さんの背後からひょっこり現れたのは紫雲さんだった。
「橙医師が慌ててここに入っていくから、トウコさんに何かあったのかと思って」
「………お前は呼んでない」
何故か紫雲さんには不満げな声を漏らす陛下。
ひとまず橙さんが私と交代して陛下の隣に座る。
「これは引っ掻き傷のようですが……どうされたんですか?」
「………」
橙さんの質問に五秒ほど沈黙したあと、陛下は「ねこ」と小さな声を漏らした。
「猫に……ひっかかれた」
後宮には野良猫ならぬ宮中猫がそこら中にいる。その子らにやられたということだろう。
何だ猫か、と安心する一方で橙さんの表情はすこし曇る。
「猫ならば感染症の恐れもあるので、消毒と念のため膿出しの…」
「いや、いい」
橙さんが持参した薬箱を探る手を、陛下が掴んで止める。
「なぜですか?」と橙さんがたずねるも陛下は顔をそらすだけで何も答えない。
「陛下」
紫雲さんがそう言ってこちらへ歩み寄ると寝台の前で膝を着き、陛下にぐっと顔を寄せる。
私以外があの顔面攻撃をくらうのを初めて見た。
「……陛下、猫は嘘ですね?本当であれば侍医や青藍に秘密にする必要なんてありませんから」
「………」
陛下は顔を横に向けたまま何も答えない。
「何を隠してるんですか?何かやましいことが?」
紫雲さんは顔を傾け、陛下のそらした顔の方に近づける。
また別の方にぷいと向かれると、とうとう紫雲さんは手を伸ばして陛下の顎を指で掴んだ。いわゆる顎クイである。
2人の顔がどんどん近づき、このまま口付けでもしてしまうんじゃないかとハラハラする。
物理的にも精神的にも逃げ場を失った陛下は、観念したように息を吐いた。
「……楊婉儀だ。楊婉儀にやられた」
陛下の口から出たのは意外な名前。
それに一番驚いていたのは他でもない紫雲さんで、口元に手をやり目を大きく開いた。
「いつの間に楊婉儀の宮へ行かれたんですか?」
楊婉儀というのは後宮の妃。四夫人の下の位の十八嬪のうちの一人で、覇葉人だ。とてもオシャレな女性で同じ衣を二度着てるのを見たことがないし、国内外から買い付けたという煌びやかなアクセサリーをいつも身に着けている。
「会ったのは御花園だ。楊婉儀と尚順儀が言い争っていて……」
「尚順儀まで!?」
尚順儀も同じく十八嬪のうちの一人。たしか楊婉儀とは仲が良かったはずだが。
そんな二人が言い争った末楊婉儀が陛下に手を上げた、ということは────
「花園で女の争い!引っ掻き傷!これは陛下を巡っての愛憎劇ですね!?」
ここにきてようやく後宮らしいスキャンダルを目の当たりにし私は興奮した。しかも小説のネタになること間違いなしの展開だ。
「まあまあトウコ殿、落ち着いて」
そう言って私をなだめる橙さん。
陛下は気まずそうな表情でうつむく。
紫雲さんは呆れたようにため息をついて床から立ち上がった。
「2人の間で、一体何やらかしたんです?」
「何もしてない」
陛下は顔を伏せたまま答えた。
「たまたま御花園を通ったら、妃同士が大声で言い争っていたのを見かけて。女官たちでは抑えられそうになかったゆえわたしが止めに入ったのだ。そうしたら偶然楊婉儀の手が顔に当たって、爪飾りで……」
「あ、あの尖ったやつですか?……痛そう」
私は想像して背筋がぞっとする。
爪飾りとは正式には指甲套と呼ばれる、指先にはめるアクセサリーだ。この世界のネイルアートとして高貴な女性の間で流行っている。
金色に宝石がはめ込まれた美しいものだが、その先端はカギ爪のように尖った凶器である。
「かすっただけだ」
「でも目とかに当たらなくて本当に良かったですよ」
ほっとする私を尻目に紫雲さんはまだ厳しい目をしている。
「では陛下は、彼女達の失態を隠す為にここへ逃げ込んで、あげく猫のせいだと言ったのですね?」
妃といえども陛下に怪我を負わせたとなれば降格や処罰は免れない。下手すれば冷宮送りだ。
陛下は叱られたような顔でうなずく。
「……大事になったら可哀想だろう。わざとでもないのに」
「お優しいのは良いことですが、締めるところは締めないと。他の妃に示しがつきませんよ?」
紫雲さんが珍しく青藍さんのようなことを言う。彼がこの場にいないせいだろうか。
「手を上げる以前に人前で言い争うなど、妃として有り得ません。2人にはそれなりの処罰を与えましょう」
後宮の妃たちは国中の女性の憧れで、見た目の美しさはもちろん日々の振る舞いや言動さえ皆の模範となるよう求められる。
貞淑な女性が良しとされるこの国では、楊婉儀たちの行動は許しがたいのだろう。
「でも……こんなかすり傷で」
陛下は口を尖らせ反論する。
「腕や足ならまだしも顔ですよ?大臣たちも一体どうしたのかとあれこれ思案するでしょう」
「だから猫のせいにすればいい」
拗ねた子供のような陛下の物言いに紫雲さんは語気を強めた。
「だいたい楊婉儀たちとろくに話したこともないのに、何故そのようにかばうのですか」
「相手が誰かは関係ない。そもそもお前が妃をしっかり管理していないせいだ」
2人の言い合いはだんだんヒートアップする。
さすが高貴な方だけに怒鳴り合うような事にはならないが、何だか兄弟喧嘩のようになってきた。
「───あ、あの!そもそも楊婉儀たちははなぜ言い争いを?」
口論を止めるため私が声を張り上げると、陛下がこちらを向いて答えた。
「喧嘩の理由は知らぬ。妃たちは誰にも見つからぬようすぐ宮へ帰らせたのでな」
「そうでしたか……。2人とも陛下に怪我させたと分かって、今ごろ気が気じゃないでしょうね」
私が言うと紫雲さんが続く。
「元来2人とも気性の荒い人ではないはずですが。何があったのか気になりますね」
陛下はうなずく。
「何か深刻な問題が生じたのかもしれない。処罰を決める前にまずは原因を調査せよ」
陛下が言うと紫雲さんは「かしこまりました」と揖礼する。
「トウコも一緒に行ってくれ」
まっすぐ向けられた眼差しは、叱責するであろう紫雲さんと妃の間の緩衝材になってほしい。と訴えているようだった。
「分かりました」
陛下の想いに応えるよう私も拱手し、紫雲さんの隣で揖礼した。
【こぼれ話】
今回の話も仁宗(北宋四代皇帝)が妃同士の喧嘩を止めようとして怪我したエピソードから拝借しました。