再会
国随一の美女を集めた鳥籠に、美しい雄鳥たちが加わって、後宮はいっそう華やかさを増した。
あちこちで宴が催され、毎夜どこからともなく管楽の音色が漏れている。
そんな光景から目をそらすように、レイカはますます政務へ打ち込んだ。
朝議がおわるといつも執務室に籠り、赤い表紙のノートを開く。
【女性大臣の採用】【纏足の禁止】など、若き日の自分が描いた夢が、汚い字でつづられていた。
「……どうして『選挙制度』なんて書いたのかしら」
今になれば顔を覆いたくなるような政策もあり、思わず苦笑する。
あの頃は、この世のすべてが民主主義であるべきだと思っていた。
「王妃さま」
顔を上げると、扉の前に瑠璃が立っていた。
彼女がここにいる光景を見るのは久しぶりだ。
今や主要な官僚の一人である瑠璃。レイカと一度も顔を合わさずに一日を終えることもざらだった。
「例の男をお連れいたしました 」
「例の……」
思わず聞き返そうとして思い出す。
『どうしても会ってほしい人がいる』
昨日そう告げられていたことを。
開かれた扉の向こうから、ふたりの男がぎこちない歩調で入ってきた。
ひとりは灰色の頭をした年配の男で、もうひとりは麦色の髪をした若い青年。
年配の男はレイカの前に立つとすぐに床へひれ伏し、若い方もそれにならって膝をついた。
丈の合わない茶色の官服に身を包んだ男たちに、レイカは見覚えがない。
「面を上げてちょうだい」
ひとまず眺めていた書物を手にしたまま、レイカは彼らの顔を交互に見やる。
年配の方の男と目が合うと、驚き息をのんだ。
「もしかして……」
とっさに口から出かけた言葉を、飲み込んで周囲を見まわした。
ここは鳳凰宮の最奥。室内には彼らと瑠璃以外にはおらず、扉は閉まっている。
レイカは書物を置き、震える声でたずねた。
「……羊くん、なの?」
年配の男はエメラルドグリーンの瞳を大きく開いた。
数秒レイカと見つめ合ったあと、白髪混じりの頭をゆっくりと縦にふった。
「ああ────」
レイカはすぐさま立ち上がって駆け寄る。男の目前で腰を下ろし目線を合わせた。
「本当に、あなた……」
「……お久しぶりです」
はじめ彼の姿を見たとき、4、50代だと思った。レイカ自身よりずいぶん年上に見えたのだ。
その印象は間近で見ても変わることがなく、少年の面影はほとんど残っていない。
多くの白髪や顔に深く刻まれた皺は、彼がこれまでたどった苦節の日々を物語っている。
「よくぞ生きて……っ……」
レイカは胸がいっぱいになり、うまく言葉が出ない。
およそ20年前、赤子を抱えてこの宮廷から逃げ出した少年と、こうして生きて再会できるとは夢にも思わなかったのだ。
「今までどこにいたの?」
「しばらくは王都の移民街に。息子を引き取ってからは、高州の方へ逃れておりました」
少し離れたところにいた瑠璃が、こちらへ歩み寄る。
「高州にある富農の屋敷に、緑色の目をした使用人親子がいるという噂を聞きました。王妃さまから聞いた男の特徴に似ていると思い、訪ねてみたのです」
羊は瑠璃を見上げ、困ったように表情をゆるめた。
「はじめ王宮からの使いだと聞いたときは、『もはやここまでか』と死を覚悟し、息子だけは見逃してほしいと頼み込みました。ですがよく話を聞くと、レイカさまの侍女だと……。沙羅さまや私のこともよく知っておられた。それでも今こうしてあなたのお顔を拝見するまでは、騙されているのではと半信半疑でしたが」
罰せられるのを覚悟していた羊は、自分ひとりで参内するつもりだった。
しかし話を聞いた息子が「父上に何かあっては困る」と言ってきかないので、こうして共に王都へやってきたらしい。
かつては覇葉語が不得手なせいで口数少なかった羊だが、おそらく今は覇葉人と遜色ないほど流暢に話せるのだろう。
すべて日本語に聞こえるレイカの耳では、その上達のほどは不明だが、話しぶりからは余裕を感じられた。
「ではこの子が……あの時の?」
かたい表情でうつむく、鼻の高い青年の横顔をレイカは見る。
「はい。成人したので別の名を与えましたが、あの時の宝珠です」
“宝珠”────それは沙羅が命がけで産んだ我が子に与えた名だ。
「よく見せてちょうだい」
レイカはまるで幼子にするように、青年の頬に両手を伸ばして引き寄せた。
されるがままの青年は宝石のような目を大きく瞬かせたあと、恥ずかしそうに視線をそらす。
その仕草がかつての羊少年に重なった。
「沙羅に似ているわ。鼻の形なんか特に」
目の色こそ同じだが、中東寄りの顔立ちをした羊に対し、息子は北欧系の美男子だ。
色素の薄い髪や肌、ほっそりとした輪郭や高い鼻はすべて母親譲りなのだろう。
「やはりそう思われますか」
懐かしさに涙ぐむレイカへ、羊はほっとした顔で返した。
「この20年、無我夢中で生きてきました。情けないことですが、時がたつにつれ、過去の記憶はどうしても薄れてゆきます。あの方の面影を、息子の中に見つけては懐かしんでいました。けれど最近は、本当に似ているのかすら自信がなくなってしまって……」
「そうね……。姿絵のひとつも持たせてやれなかったから」
写真すらない世界で生きる人間は、亡き人の顔をいつまで覚えていられるだろうか。
「沙羅の姿絵と遺品、少し銀子も用意するわ。これまでさぞ大変だったでしょう」
赤子を寺へ預けたあとの羊少年が、どこかで野垂れ死んでいるのではないかと、レイカはずっと心配していた。
「生きてこられたのは、レイカさまのおかげです」
「え?」
「あなたが王妃になられたとき、王都周辺にたくさんの寺を建立されたでしょう。急ごしらえの事業だったため、現場には多くの浮浪人が投入されました。私もそれで日銭を稼ぎながら生き延び、この子を迎えにいくことができたのです」
寺院の建設は、かつて黒翠が鳴り物入りで進めていた事業だ。
レイカを菩薩に見立てて崇めさせるという、型破りな計画の一環だった。
それが結果的に、遠い場所で暮らす羊を支えていたとは、レイカは思いもしなかった。
今思えば黒翠には、最初からそういう魂胆があったのかもしれない。
「……あなたは聞いたかしら?沙羅の死の真相について」
「はい」
レイカは少しためらいながらも、単刀直入に切り出した。
瑠璃が彼をここへ連れてきたのは、レイカに再会の涙を贈るためではない。
「その……黒翠の言ったことは本当なの?あなた達に何があったのか、知っていることを教えてほしい」
レイカは内心、わずかに期待していた。
真実が、あの男が語ったほど残酷ではないと。
「……」
羊は神妙な顔をしながら、必死に言葉を探していた。
「ご子息さま、あちらへどうぞ。お茶をお淹れしましょう」
気をきかせた瑠璃が、宝珠を奥の応接席へと案内する。
息子の背を目で追ったあと、羊はようやく重い口を開いた。
「たしかにあの年の夏……とても暑い日でした。師兄(黒翠)が『レイカさまからの差し入れだ』と言って届けてくれた氷菓子と茶を、沙羅さまと一緒にいただきました。どちらも初めて口にする味でしたので、変なものが入っていたかどうかはわかりません」
「そう……」
レイカは落胆した声をもらす。
その返答は、期待したほど真実を覆してはくれなかった。
「沙羅さまは身ごもってから、私と距離を置くようになりました。その代わり師兄を頼りにしていたように思います。当時の私は無知で幼く、自分の犯した罪をどう償えばいいのか分からず、ただ……師兄に命じられるまま動くことしかできませんでした。すべてあの方の陰謀だったなんて、今でも信じられません」
羊は拳を握り唇を噛みしめる。
その感情の矛先は、無力だった頃の自分に向けられているようだった。
赤子の父親とはいえ、当時の彼はまだ14歳。この件に関してほとんど蚊帳の外であったことだろう。
「責められるべきなのは、このわたしよ。黒翠の側にいながら何ひとつ気づけなかった。わたしと出会わなければ、沙羅は……あなたもこんな目に合わずにすんだ。今でもこの後宮で、幸せに暮らしていたはずだわ」
レイカは床に両手をついてうなだれた。
「あなた達に、どう詫びたらいいか……」
肩を震わせるレイカに、羊は慌てた様子で腕を伸ばし上体を起こさせる。
「あなたは悪くない。 沙羅さまにとってあなたはかけがえのない親友で、恩人。 その事実は変わりません」
浅黒い腕が、レイカの肩を力強く掴む。
まるで神に手をさしのべられたような心地がして、レイカは涙をこぼした。
「ごめんなさい……沙羅……」
そして気づいた。
これほどまでに自分は『許されたい』と願っていたのか、と。
* * *
そのあと、レイカは鳳凰宮で羊たちと食卓を囲み、沙羅の思い出話に花を咲かせた。
「沙羅は本当に優しい子だったのよ。冬の寒い日、いつも餌をやっている猫が庭にいないからって、雪のなかひとりで外を探しまわっていたの。けっきょく猫は屋敷の中にいて、あの子は風邪をひいてしまった」
レイカは酒杯をかたむけながら、正面に座る親子を眺める。
そろって豪快に肉へかぶりつく様子はそっくりだ。
その光景をほほえましく思いながら、羊に「覚えてる?」とたずねた。
「はい。その沙羅さまを探すために、使用人たちも必死で宮中を駆けまわりましたから」
「わたしも話を聞いて心配したわ。だってその時の沙羅は身重だったのよ。あの子はちょっと抜けてるところもあって、羊くんはいつも振り回されていたわね」
沙羅という女性が、誰よりも素直で慈愛に満ちた人間だったことを、宝珠にも知ってほしかった。
「父上が、振り回されていたのですか……」
しかし当の宝珠は顔も知らぬ母親よりも、いま隣にいる男が父親の顔をしていないことに興味があるようだ。
「あの時は、沙羅さまをひとりで出歩かせた上に風邪をひかせてしまって……。師兄にもずいぶん叱られました」
羊は頬を赤らめながら、懐かしそうに語る。
「……」
その様子にレイカは一瞬目を見開いたあと、ぎこちなくうなずいた 。
ただ驚いたのだ。
彼がすべてを知ってもなお、親しみを込めて「師兄」の話をすることに。
親子が宮中を出る馬車に乗ったのは、その日の日没前だ。
ふたりの手には沙羅の形見の宝飾品と、宮中に残っていた姿絵が握られている。
心ばかりの銀子は、最後まで受け取ってもらえなかった。
「どうして恨まないの?黒翠のこと……」
馬車へ乗り込もうとしていた羊の背中に、レイカは思わず問いかけた。
羊はこちらをふり返り、沙羅の遺品が入った箱に視線を落とす。
そしてゆっくりと顔を上げると、目元を潤ませながら答えた。
ふたりを見送ったあと、レイカは城門の楼閣へと上がった。
民への夜間外出禁止令は、いまだ撤廃されていない。
いつかこのひっそりとした夜の王都が、赤い灯に彩られ、人で溢れる日が来るのだろうか。
遠い昔に愛した、あの渋谷の街のように。
そんな光景を思い浮かべながら、レイカの頭には羊の言葉が浮かぶ。
『人生は、憎しみだけで歩めるほど易しくはありません』
彼らとはもう二度と会うことはないのだろうと、静かに悟った。