宦官の粛清①
とある夏の昼下がり。
鳳凰宮の窓ぎわに立ち、外の景色を笑顔で眺めるレイカ。
背後に立つ黒翠がレイカの額にそっと手をかざし、強い日差しからあるじの目を守っている────
そんなふたりの日常を、宮廷画家が手遊びに描いた姿絵がある。
ゆらめく燭台の火に照らされると、あの頃の記憶が鮮やかによみがえった。
レイカは絵を持ったまま、手を燭台へとかざす。
紙に火が点くと、またたく間に燃え広がった。
炎に飲み込まれたふたりの姿はぐにゃりと歪み、溶けて混ざりあい、 灰煙となって舞い上がっていく。
「王妃さま……よろしいでしょうか」
煙を見上げていたレイカの背後で、瑠璃がためらいがちに声をかけた。
「なに?」
「袁長官から荷物が届いております。その、例の罪人……の家宅捜索で……」
「無理に言い方を改めなくてもいいわ」
そう言うと、瑠璃は緊張した面持ちをゆるめて言いなおした。
「師範のご自宅に残されていた遺品です。例の呪詛人形以外で、事件に関係しそうなものは無く、これらを処分するかどうか判断を仰ぎたいとのこと」
黒翠は都に家族がいない。
他に頼るべく親族もなく、行くあてのない遺品が、かつて仕えていたレイカのもとへと流れてきたらしい。
「ご覧になるのが苦しければ、私の方で確認いたしますが」
「いいわ。見せてちょうだい」
卓の上に運ばれてきた品は、見慣れた法衣が数着に、使い込まれた筆記具と書物、数珠などの仏具。そして小ぶりな陶器の壺と、黒漆の小物入れであった。
「これだけ?」
国随一の権力者とは思えないほどの少なさにレイカは驚く。
「はい。御史台の話によれば、捜査の際、家はほぼがらんどう状態だったそうです。しかも使用人にはあらかじめ暇を出していたようで……。近いうちに自分が捕らえられるのを見越していたのでしょう」
「すべて見越していたのに、証拠の人形は残したのね……」
レイカはため息をつく。
そこまで読めていたのなら、証拠を隠滅し、貴妃の話がすべて妄言だと言いくるめることもできただろう。
なぜそうしなかったのか。
多くの疑問は残るものの、今さらあの男の心中をはかることは、精神の無駄遣いだと諦めた。
「これは何かしら」
質素な品々の中で唯一、つややかに光る漆の入れ物に目がとまる。
それは長方型の蓋付きで、表面には花びらのような窪みが入っている。蓋の中央には赤と白で描かれた花の模様があり、どちらかといえば女子が好みそうな品であった。
レイカは蓋をそっと開ける。
「……」
現れたのは、茶褐色の動物の毛でできた細長い塊であった。
「これは……むかし王妃さまが着けておられた尻尾の佩飾では?」
レイカは神妙な面持ちで佩飾を手にとった。
なつかしい感触。それは間違いなく、かつて自分が黒翠へ贈った尻尾だ。
信頼の証として渡したが、受けとった黒翠は迷惑この上ないという顔をしていた。
「なぜ師範がこれを? 」
「……さあ。知らないわ」
首をかしげる瑠璃の隣でレイカは冷たく吐き捨てる。
そして佩飾を箱に戻し蓋をした。
「たいしたものは無さそうだし、みな処分して」
「はい……」
瑠璃は悲しそうに返事をしたきり、その場で立ち尽くしている。
「どうしたの?」
「申し上げるか迷っていたのですが、じつは……師範は亡くなる前日の夜、とつぜん鳳凰宮をたずねてきたのです」
「いったい何の用で?」
「いえ特には。ただ、『王妃さまの様子はどうか』と。夜も深かったので、すでにお休みになっていると伝えると『今後もよく仕えよ』とだけ言い残して帰ってゆかれました」
「そうだったの……」
「その夜だけではありません。師範は昔から、いつも王妃さまを気にかけておられて────」
「瑠璃」
言葉にだんだんと熱がこもる侍女を、レイカは低い声で呼んだ。
「冷静になりなさい。黒翠が本気でわたしを案じていたのなら、わたしの大切な人たちを奪ったりしない。あの男がわたしを常に注視していたのは、ただ監視して支配するためだったのよ」
彼の細かな気づかいを、心からのものだとかつてはレイカも信じていた。
だが本当はそうやってレイカを孤立させ、唯一の味方のふりをして依存させ、マインドコントロールしていたにすぎないのだ。
そんな過去の自分と、目の前で今なお黒翠を信じようとする瑠璃の姿が重なる。
気持ちは痛いほどわかるが、わかるからこそ、それに囚われ傷ついてほしくない。
「だけど黒翠は間違いなく、わたしが出会ったなかで最も賢い人間よ。あの知識量や洞察力の前では、どんな老臣たちも敵わなかった。それがどうしてあんな、復讐なんかに縛られて、身を滅ぼしてしまったのかしらね」
覇葉国では、黒翠の手腕のおかげで数々の改革が遂行され、国王の不在という窮地を忘れさせるほど発展した。
レイカにとっては極悪人でも、この国にとってはむしろ英雄だったのかもしれない。
そうして個人的な感情を棚に置けば、惜しい人材だとレイカも思う。
「あの……医学の観点から、ひとつお話ししても?」
そう切り出した瑠璃に、今度は腰をすえて向き合おうと、レイカは椅子にかけた。
「あの狂気的な行動の一因は、師範のお体にあったのではと思うのです」
「体に?」
告げられたのは、思いがけない内容だった。
「はい。師範は幼少期に宦官となりました。本来、男の身体は陽の気、女は陰の気で満ちております。しかし去勢された男は自ら陽を作り出せず、心身の均衡が崩れます。女も月の障りや妊娠によって心が不安定になりますが、宦官はその状態が生涯続くようなものです」
「ああ、そういうこと……」
小難しかった話がだんだんと腑に落ちてくる。
この場合の陰陽とは、男女それぞれのホルモンといったところだろうか。
「ですから宦官は、何かにひどく執着したり、物事を悲観したり、突然怒り狂ったり。自分を抑えられなくなることが度々あるそうです。そうした鬱憤を、普通は酒や博打、暴力など、手近なもので発散させます」
古来より宦官の間には厳格な階級が存在し、富や出世への執着も強い。嫉妬やいじめは女同士よりも酷いという噂もある。
人々が彼らを「異形の存在」「怪物」と揶揄するのは、単に身体的特徴だけではなく、その心の歪みも一因なのだろう。
「しかし師範には学があり、そういう安易なものには走れなかった。その代わりに自分を陥れた者たちへの遺恨に囚われ、暴走してしまったのでは、と」
行き場を失った憎悪は心の中で増幅し、有能さを牙へと変えた。
そうして一人の青年が、復讐に燃える悪鬼へと変貌してしまった────瑠璃はそう言いたいのだ。
「もし黒翠が男のままだったら、こんなことにはならなかった……かもしれないわね」
だとすれば彼自身も、自分の中の悪鬼を持て余していたのかもしれない。
レイカは視線を落とし、燭台の下で燃え残った絵の欠片に目をやる。
過去はやり直せない。
あの悲劇を二度と起こさせないために、自分には何ができるだろうか。