悪夢⑥
「まってくださ……」
むなしく伸ばされた瑠璃の手から、すり抜けるようにレイカは進んだ。
石張り床に剣先を擦らせながら、室内扉を抜けて隣室へうつる。
鋭い視線の先では、鎖に繋がれた悪鬼が待ちかまえていた。
───沙羅、咲羅、韋王妃……それに陛下
守れなくてごめんなさい。
わたしが今、敵を討つわ……。
今ここでせずとも、あの端正な顔は明日にでも首から斬り落とされ、城外に晒されていることだろう。
だからこそ、レイカはここでやらなければならなかった。
あの男の息の根を止めるべき人間は、自分しかいないのだから。
黒翠は、レイカが目の前まで来るとゆっくり面を上げた。
静かな瞳でレイカをとらえると、覚悟を決めたようにまぶたを下ろす。
レイカは剣の柄を両手で握りしめる。
もはや未練も情もない。
ふたりの悪縁を今、ここで断ち切るのだ────
「ははうえ……」
背後で息子が呼ぶ。
まるで幼子にかえったような、不安げな声で。
気持ちがゆらがぬよう、前を向いたまま応えた。
「大丈夫よ、青冥……」
あなただけは守ってみせると決意を固める。
母として、この国の王妃として、大罪人に鉄槌を下さねば。
しかしその瞬間、目の前で黒翠がはっと瞳を開いた。
レイカの声に反応したのだ。
その表情には、驚きと動揺が浮かんでいる。
「あっ……」
視線が交わり、レイカの手から剣がすり抜けた。そのまま金属音を響かせ床に転がる。
思い出してしまったのだ。
目の前の男と息子をつなぐ、誰にも言えない“秘密”を。
そして悟った。
この縁は断ち切れない。
たとえここで黒翠の四肢を斬り落とそうと、他人には戻れない。
息子には、この男の影が一生つきまとうのだから。
「ごめん、なさい……っ」
その場で膝をつき涙声を漏らすレイカ。
「青冥……」
「母上、どうしたのですか?」
心配した青冥がレイカのもとへ駆け寄ってきた。
愛しい息子の背にレイカは両腕を伸ばし、すがるように抱き締めた。
「許して……青冥……」
いつかその時が来たら、真実を告げるはずだった。
しかしその“いつか”は永遠に失われたのだ。
「許す?いったい何のことですか」
すべてを知ったらこの子は、愚かな母を許しはしないだろう。
その前に自分自身を呪うだろうか。
「あなたの……」
レイカが言いかけたとき、そばで椅子のきしむ音がした。
ふたりが視線を移すと、目の前で大きな男の背が立ちふさがっている。
その向こうでは、黒翠が前屈みになって床へ転げ落ちていた。
「まさかお前に裏切られるとは。誰よりも信頼していたのに……」
男は肩で呼吸しながら、低い声をもらす。
「父上────……」
声の主は、病床にいるはずの正憲であった。
床から抜け出してきたのだろうか。髪は下ろしたままで、白い衣には赤い飛沫が点々と染みている。
その視線の先には、床に膝をついてうずくまる黒翠。
長い髪が顔を覆い、左腹部からは金装飾の剣の柄が突き出ていた。
正憲はこちらをふり返り、息を切らしながら告げる。
「……レイカ、青冥。すまなかったな。もう大丈夫だから、お前たちは離れていなさい。もう、見なくていい」
やわらかな口調であったが、瞳の奥には確かな怒りと失望が見てとれた。
それに顔は土気色で、体調が芳しくないのは明らかだ。
なおも気丈にふるまう正憲は、腰を下ろしてレイカの肩に手を置く。
「陛下……」
血に汚れた顔と力強い腕は、いつもの夫とはまるで別人だった。
すべてが一瞬の出来事で、理解が追いつかない。
「立ちなさいレイカ」
強く命じられたレイカは放心状態のまま立ち上がり、夫に背を押される。
出口へ向かって歩きはじめるが、血の匂いに足が止まった。
気づくと足元を、赤黒い血が這うように流れている。
たまらずふり返れば、黒翠の周囲はすでに血の海と化していた。
「────っ!」
呼吸が止まり、身動きができなくなった。
黒翠は苦しげに背を上下させ、顔は色を失っている。
「……(レイカさま)」
声はなかった。
ただ唇がそう動いていた。
「黒翠っ……」
レイカは反射的に正憲の腕から逃れ引き返す。
理性を置きざりにして、本能で走っていた。自分の人生を破壊した悪鬼のもとへ。
血だまりの中に両膝をつくと、黒翠はようやくレイカに気づいて顔を上げる。
荒い息の狭間で、うわ言のようにつぶやいた。
「あなたに……誰よりも、尽くしてきました。私たちの絆は……血より、濃い……」
「何が言いたいの……」
レイカは問いながら、困惑の海に溺れた。
この期に及んでなぜ、そんなことを思い出させるのか。
ふたりが共にあった20年もの月日が、亡き親友や娘とは比べ物にならないことを。
「許して……くれますか?」
「……」
レイカの胸に押し寄せていた悲しみが、潮のようにひいた。
────ああ、最期までこの男は、わたしを弄するつもりなのか……。
この悪鬼を一瞬でも許す道を探した事を恥じ、首を強く横にふった。
「この恨みは忘れない。いずれわたしがこの世界からいなくなっても、絶対に……」
憎しみの涙をこぼしながらレイカは誓う。
いつか生まれ変わったら、今度はわたしが、この手でお前を地獄に落としてやる────と。
「……」
黒翠はふっと口角を上げ、薄い笑みをうかべた。
そしてレイカの両手をとって、自分の腹に刺さった剣へ置く。
上から自分の手を重ね、力を込めた。
「やめて……」
意志に反して、剣はゆっくりと押し進んでいく。
血管が切れ、臓器をつき破り、時おり骨をかすめる感覚が、掌を通して生々しく伝わった。
まるで自分の身が引きちぎられるような痛みだった。
「わすれ……ない……」
かすれた声でレイカの言葉をくり返したあと、黒翠は力なく手を放す。
ぐっと嗚咽を吐き、唇の端から血をこぼした。
すでに光を失った瞳が閉じられると、体は前方へ倒れ込み、頭がレイカの肩に乗る。
レイカは後ろへのけぞりながら、重い体を必死に支えた。
「……」
耳元でしていた呼吸音がしだいに弱くなり、そのうち何も聞こえなくなる。
「黒、翠……?」
レイカは黒翠の頬に触れる。体温は無かった。
血で濡れた唇を指でぬぐうも、息を感じない。
「……」
まるで母の腕の中で眠るような顔を、レイカは無言で見つめる。
美しく花開いたまま生涯を終える、白椿の花が落ちるさまを彷彿とさせる。
これだけの惨状のなかでも損なわれぬ美貌は、むしろ哀れに映った。
「王妃さま。もう……」
瑠璃がそう言ってレイカの背に触れる。
そのうち3人の兵士がやってきて、黒翠の亡骸はレイカから引き剥がされた。
そして部屋の外へと運ばれていく。
その様子を呆然と眺めたあと、レイカは視線を落とし、真っ赤に染まった自分の両手を見た。
いつかの昔、血で汚れた黒翠の手を洗ってやったことを思い出す。
『あなたが、ここまでなさるとは思いませんでした』
そう言って不思議そうな顔をしていた黒翠。
あの血まみれの手をすすぐことなど、最初から不可能だったのだ。
その上で踊らされていた自分もまた、引き返せないほど汚れきっているのだろう。
『……王妃さまっ!大丈夫ですか?』
暗闇のなか、遠くで声が聞こえた。
『レイカ、レイカ────』
何度も呼ばれているのに、声の主がどこにいるのかわからない。
レイカの視界からは一切の光が消えていた。
────まだなの?
────朝はいつ来るの?
────この悪夢から、わたしはいつ目覚めるの?
ようやく視界が開けたとき、レイカはこの悪夢を天から見下ろしていた。
そこは石壁に囲われた血の湖。
赤黒い水面には、糸の切れた一体の傀儡が浮かんでいた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
黒翠はこれにて退場です。
それにしてもレイカの人生がハードモードすぎるのですけど、実はそれなりに楽しい日々もありました。
話の本筋と関係ないので書けなかっただけで。
六章が終わったタイミングで、その辺の小話を番外編として上げようかなと計画中です。(もちろん黒翠も出てきます)
五章ももう少し続きますので、引き続きよろしくお願いいたします。