悪夢④
「ほんとう……なのか?国師どの。そなたが本当に……咲羅王女を?」
さすがの袁長官も、慎重に言葉を選ばざるを得ない。
対し黒翠はあっけらかんとした顔で「ええ」と静かにうなずいた。
「あの日私が奥の間に入ったのは、韋氏よりも先でした。まず、部屋の外で乳母が出てくるのを確認し、こっそりと侵入したあとは物陰で息をひそめていたのです。少し経つと、予想どおり韋氏が部屋へ入ってきました。私はそのまま隠れ、韋氏が退出したのち、咲羅王女のもとへ行きました」
その冷静でなめらかな話しぶりに周囲は圧倒される。
ただレイカひとりだけは、時が止まったままだった。
「ほう。その口ぶりからして、乳母が部屋を出るのも、韋氏が入ってくるのも分かっていたのか?」
「はい。韋氏が赤子の性別を怪しむよう仕向けたのは、私ですから」
「何を吹き込んだ?」
「いえ、話してはおりません」
「ではいったいどうやって」
あの日黒翠は、レイカたちがいた居間を韋氏とほぼ同時に退出したが、その後の動きを知る者はいない。
「あ……」
ひとつ思い当たる節があって、レイカは声を漏らす。
『レイカさまによく似てきたと思います』
まだ居間で談笑していたとき、黒翠は咲羅の顔を見てたしかにそう言った。
いつもは赤子に一切の関心をよせない彼が、珍しいことを言うものだと印象に残っていたのだ。
『ふつう、母親に似るのは男の子と言いますでしょう』と語った元侍女によれば、咲羅の顔がレイカに似ていたことが、韋氏の足を奥の間へ向かわせたという。
つまり黒翠はあの時、韋氏の目の前で、咲羅が母親似であることをわざと印象付けたのだ。
その後の韋氏がどう動くか、全て読んだ上で。
「では念のために聞くが、殺害方法は、その……絞殺で間違いないのか?」
後宮という場所では、子どもの他殺が珍しいとは言えない。
しかしその手段は毒殺が大半で、まれに事故を装って井戸に突き落とされることもある。
子どもの苦しむ顔を目の前にしては、どんな極悪人も気の迷いが生じるというもの。
ましてや黒翠は、咲羅が生まれた時からそばで見守っていた。そんな子の首を絞め続けることが、果たしてできるのか。
「はい。寝台をのぞいた際、咲羅王女は衣の前が左右に開いており、その首に私は右手をかけました。当初は右手で首を絞め、左手で口を塞ぐつもりだったのです。ところが王女は予想外に声を上げず、ただ口からよだれを垂らすばかり。そのため、途中から両手で絞めました。手を放したのは、顔色が次第に赤から紫へと変わった頃。そして完全に息が絶えたのを確認したのち、部屋を出ました」
「……」
苦しみあえぐ赤子の顔が目に浮かぶような、ひどく生々しい証言に、袁長官も言葉を詰まらせる。
「────母上っ!」
ぐらついたレイカの身体を、青冥がとっさに抱き止めた。
黒翠の言葉はまるで、この世の憎悪をかき集めた呪いのように、レイカの心を蝕んでいった。
「────王妃さま!聞こえますか!?」
ほんの一瞬、目の前が真っ暗になって、レイカは意識を失った。
しだいにゆっくりと視界がひらけ、遠くのほうから瑠璃の声が聞こえる。
ただ体には力が入らず、全身の血が外へ流れ出てしまったような感覚だ。
「貴様!なぜ赤子にそのような惨いことを!」
朦朧とするレイカの肩を抱いたまま、青冥は怒声を響かせる。
「貴妃さまがおっしゃった通り、韋家へ復讐するためですよ。まあ、恨んでいたのは韋宰相ひとりですが」
黒翠は動じない様子で、むしろ誇らしげに語る。
「しかし韋宰相は、あらゆる陰謀や策略を経験している猛者。ですから、先に娘の韋氏を破滅させようと考えたのです。とはいえ王妃であった韋氏も、めったなことでは罪を問われません。例えば女官のひとりやふたり殺したところで何の咎めもないでしょう。王妃を断罪するには、陛下の子を殺させるのが得策だと」
「では、貴妃を脅して呪詛人形を作らせ、鳳凰宮に隠させたことも認めるのか?」
「はい。すべて事実です」
その後も袁長官によって尋問が続く。
明らかになっていく用意周到な手口は、耳を塞ぎたくなるようなものばかりだった。
「王妃さま、ここを出ましょう。これ以上は、もう────」
心がもたないだろうと、レイカの脈を触りながら瑠璃が涙声でうったえる。
立ち上がろうとする瑠璃の手首をレイカは掴み、無言で制した。
まだ、ここを離れるわけにはいかない。
「────なるほど。貴殿はみずから咲羅王女を殺し、貴妃を使ってその罪を韋氏に着せた。その結果、韋家は失墜し宰相も追放。のぞみ通り復讐を果たしたというわけか……」
あらためて事実関係を整理し、袁長官は嘆息する。
鬼畜の所業とはいえ、その執念と遂行力は称賛に値するものであった。
日頃から綿密な計算のもと事を成し遂げる、黒翠にしか果たせなかった事だろう。
「しかし分らぬのは目下の件、陛下の薬のことだ。なぜ今になって陛下まで害したのか。陛下にも恨みが?」
「いいえ」
そう言って黒翠は顔をかたむけ、レイカのほうを見た。
「それも復讐の延長ですよ。宰相が去ってもなお朝廷に潜む韋家の同朋、つまり守旧派を撲滅させたかったのです。陛下が病で動けなければ、実権を握るのは蘭王妃。蘭王妃ならば私の自由に操ることができますから」
「────っ、」
とっくに地獄へ落ちたはずが、さらに奈落の底へ突き落されたようで、レイカは息ができない。
「蘭王妃を傀儡にし、朝廷を思いのままにするため、か……」
袁長官の声色には、同情が深くにじみ出ている。
“傀儡”────それは長年、ひとりの男の掌で踊らされ続けていた女を的確に表している。
すべて嘘だったのだ。
かつて、失意の底に沈むレイカを支えたのも
政治の才があると褒めそやし、王妃へとのし上げたのも
全部、復讐の道具として操るためだった。
「ええ。ですからなるべく蘭王妃の実権が続くよう、陛下の病状を操作していたわけです」
今回の事件には、ひとつ大きな疑問があった。
なぜ犯人は正憲を殺すのではなく、遠回りな方法で生かし続けたのか。
それは正憲の存在を煩わしく思いながらも、死なせたくない理由があったからだ。
正憲が死ねば、彼が召喚したレイカはおのずと消えてしまう────その秘密こそが鍵だった。
犯人はレイカを必要とし、なおかつその“秘密”を知る者。
そんな人物はたったひとり────黒翠以外に考えられないのだ。
レイカの手の甲に、ぽたりと生温かい水が落ちる。
自分の涙ではない。
「どう、して……師範……」
瑠璃が泣いていた。
幼い頃から聡明で冷静沈着だった彼女も、慕っていた男の正体を知り、耐えられなくなったのだろう。
それとも、あまりに哀れなレイカへ同情しているのかもしれない。
レイカとて泣き叫びたかった。
何もかも投げ出し、一刻も早くこの地獄から逃げ出してしまいたい。
しかし────
レイカは瑠璃の手を握り、ふらつく足で立ち上がる。
「……黒翠」
その名を口にすることすら今は躊躇う、この世で最も憎むべき男を見下ろした。
「あなたにずっと……聞きたかったことがある。答えを知るのが怖くて、なかなか言い出せなかったけれど」
「……」
黒翠は無言でこちらを見据える。
こんな時でさえ悪鬼の顔は、穢れを知らぬ美しさだった。
脳裏によみがえる甘美な思い出。
東屋で酒を飲み交わした夜の景色、抱き上げられた腕の温もり────
そのすべてが、幻となって消えていく。
「沙羅……昔亡くなった、わたしの親友のことよ」
長年胸の奥にしまい込み、あの夜さえ聞けなかった問いを、とうとう口にする時がきたのだ。