悪夢③
「……悪鬼?」
言葉に反応して袁長官が首をかしげた。
部下からおおかたの話を聞いていた彼も、この先は知らないらしい。
いっぽうその正体を知っている青冥や側近たちは、表情を険しくした。
「ええ、すべてそいつの指示だったのよ。お姉さまへ罪を着せたのも、陛下の薬も……」
貴妃は自分の肩を抱き、怯えるように声を震わせる。
彼女が誰かにあやつられていたという話には、その場の誰もが納得した。
17年前に韋氏へ罪を着せた手口から始まり、直近の薬湯のすり替え────どの犯行も複雑かつ巧妙で、とても貴妃ひとりの発想とは思えないからだ。
「あの頃のわたくしは……咲羅王女が死んだと知って、ようやく呪詛が効いたのだと思ったわ。だけどすぐに御史台の調査が始まって、焦っていた。早く人形を処分しなくてはと思っていたとき、あいつに見つかって……」
その“悪鬼”は 、まるで狙っていたかのようなタイミングで貴妃の前に現れた。
そして貴妃の手に握られた人形を指さして、こう言ったという。
『今ここで廃棄したところで、捜査の目からは逃れられませんよ。それは私が、後宮の外で処分して差し上げましょう。その代わり、もう一式同じものを作ってください。文字は王妃の字をまねて、それを鳳凰宮へ隠すのです』
「────焦るあまり、信じて従ってしまったのが運の尽きだった。だってあいつは……預けた人形を処分なんかしていなかった。それどころか、事あるごとにそれを突きつけて、わたくしを脅すようになったのよ!」
堰を切ったように、貴妃はこれまでの苦境を吐露しはじめた。
「その日からわたくしは言いなり……まるで奴隷よ!この十何年、 あいつの言うとおり息をひそめて生きてきた。息子から太子の座を奪われても、文句一つ言わずね」
そこまで言うと貴妃は、ぼう然と立ち尽くしていたレイカを睨みつけた。
貴妃がこの17年間多くの辛酸を舐めながらも、 何の問題もおこさなかったのは、不満がなかったからではない。
そうするよう指図されていたからだったのだ。
「もしも逆らったら、呪詛の罪が暴かれてしまう。そう思ってずっと耐えてきたわ。陛下の薬湯も、毒ではないからと言われ別の薬を飲ませた。けれど……日に日に弱っていく陛下を前にしたら……もう限界よっ!」
震える手で顔をおおい、幼い娘のように泣き声を上げる貴妃。
長年隠し続けてきた罪をこの期に及んで自白したのは、誰かに自分の犯行を止めてほしかったからだろう。
「それで、いったい誰なのですか?あなたを脅し、犯行をさせていたその“悪鬼”とは────」
袁長官が真相を急かすが、貴妃はおいおいと泣くばかり。
するとレイカの背後にいた青冥が部屋の中央へと出て、壁際に移動した。
壁から飛び出した取っ手に手をかける。
「……その正体をお見せします」
清龍殿の敷地内にあるこの房室は、特殊な構造をしている。
部屋の壁に室内扉があり、隣の部屋と繋がっているのだ。
なかなか口を割らない罪人に対し、ときに仲間と対面させ、拷問される姿を見せつけるなど、活用法は多岐にわたる。
皆が見守るなか、室内扉は重い金属音とともに解錠し、砂埃を巻き上げて押し開かれる。
扉のすき間からは、貴妃と同じ木製の椅子に座る人の姿が見えた。
「……っ、」
レイカがはっと息をのむ音は、瑠璃の声にかき消された。
「し、はん……」
そこにいたのは、真っすぐな黒髪の美しい男だった。
部屋はここと同じ造りだったが、待遇の違いは、男の手首に長い鎖の枷がつけられている点だ。
しかし当人に焦った様子はなく、ふだん通りの涼しい顔をしている。
「ひぃいっ!」
黒翠の姿を視界に入れると、貴妃はとたんに背を向け身を縮める。
「あの……申し訳ありません。何を聞いても黙秘しておられ、念のため拘束を」
青冥の部下がレイカに向かって言う。
その口ぶりは、黒翠と旧知の仲であるレイカに対し恐縮しているようであった。
「黙秘しているのに、なぜこんな仕打ちを?」
レイカは思わず語気を強めた。
犯行を自白した貴妃は、何もされていない。
いっぽう黒翠は罪を認めていないのに、これではまるで罪人ではないか。
「母上、落ち着いてください。こうして捕らえたのは、呪詛人形が見つかったのがこの者の住居だからです」
「まあ、であればやむを得ますまい」
青冥の言い分を聞いて、すぐに同意をしめす袁長官。
「でも……」
なお反論するレイカを、袁長官は嗜めるように言った。
「王妃さまはお忘れですか?かつて我々の前で韋氏を断罪したのは、他でもない国師どのではありませんか。鳳凰宮から呪詛人形を見つけてきたのも、たしか彼の手の者でしたな。最も怪しい人物には違いありません」
「……」
言い返せなくなったレイカは、すがるような目で黒翠の顔を見る。
────どうして……何も言わないの?
普段は相手が舌を巻くほど弁の立つ男が、どうして目の前で糾弾されながら口を閉ざしているのか。
もとから無機質な雰囲気の持ち主であったが、今の彼はまさに魂を失った剥製人形のようで、周囲に底知れぬ恐ろしさを抱かせる。
「それにしたって、黒翠がそんなこと……韋氏を陥れるなんて、する理由がないわ!」
仮に韋氏が無実だったのであれば、かつて黒翠が披露した推理は間違いだったことになる。
けれど、それだけ。ただ間違えただけではないか。
実際あの場では誰ひとりとして、その冤罪に気づく者はいなかった。
むしろ黒翠は、韋氏を陥れようとした別の誰かの術中にはまり、そう推理するよう誘導されていたのではないか。
「あなた、どうやら知らないようね」
かたくなに黒翠をかばい続けるレイカに、しびれを切らしたのは貴妃だった。
「黒翠の父親の盛曜は、かつて韋宰相の告発によって流罪になった。盛家が没落して、あいつが宦官になったのも、言ってしまえば全て韋宰相のせい。つまり韋家は、この男の敵なのよ!」
「……え?」
「ああ、その話は私も耳にしたことがあります」
驚くレイカ。そのいっぽうで袁長官は納得の声を漏らす。
「韋宰相は昔から策略家で、敵の多い方でしたから。朝廷でも恨みを持つ者を数えればきりがない。しかし国師どのが、それほどの遺恨をもっていたとは……」
青天の霹靂だった。
たしかに黒翠の父が、敵対する官僚の陰謀で罪人になったことはレイカも知っている。
けれどその相手が、王妃の父でもあった韋宰相だったとは。
20年ちかく黒翠のそばで苦楽を共にしながら、一度も聞かされたことがなかったのだ。
袁長官が室内扉をまたいで、黒翠の部屋へ移動する。
「国師どの、単刀直入におたずねします。17年前、あなたは貴妃を脅して偽の証拠をでっち上げ、韋氏に罪を着せたのですか?」
かつての審判の場で韋宰相は、黒翠の素性を耳にしたとたん態度を変えた。
それは、過去の因縁を思い出したからなのか。
「ねえ黒翠。どうして黙っているの?」
声をかけてもなお、こちらを振り向きもしない黒翠のもとに、レイカも近づこうと歩く────が、扉の前で青冥に腕をつかまれてしまった。
「お待ちください母上。17年前の事件について、まだ大事なことが明かされていません。その日、姉上を手にかけたのは誰かということです」
青冥は、腕を振り払おうとするレイカを制止し、真剣な眼差しで言った。
「ちょっと。いったい何を言い出すの……」
韋氏は呪詛をしていなかった。だが本当に咲羅を殺していないとは限らない。
侍女の証言ひとつで、なぜ真犯人が別にいるという話で進んでいるのか。
「そうでしたな。あの日、韋氏のほかに部屋へ入れた者は限られるわけですが────」
こんなのおかしい。
王女殺害という重大事件の真相が、17年たった今、こんなにもあっさりと覆るものか。
そう疑問を呈しているのが、もはや自分だけだと分かっていても、懇願せずにいられない。
「やめて……」
“誰が咲羅を殺したのか”
その答えを、レイカは知らなくてはならない。
なのに、浮かぶのは制止の言葉ばかりだった。
どうかお願い。
もう、それ以上言わないで────……
「私です」
薄暗い房室で、少年のように澄んだ声が響いた 。
「……」
その場の誰もが言葉を失い、まるで時が止まったかのような沈黙が流れる。
この日はじめて声を発した男は、皆の視線を一身に受けながら、なおも平然とした様子で、口元には笑みすら浮かべていた。