悪夢①
事件について内密調査が行われるなか、レイカは気が気でない日々を過ごしていた。
「下手人が、捕らえられました!」
瑠璃からそう報告を受けるまで、ひどく長い月日が経った気がしたが、実際には調査が始まってわずかひと月のことである。
「御史台の取り調べを受け、あっさりと自白したそうです。自分が陛下の薬湯をすり替えたと」
「それで、いったい誰なの?」
急ぎ核心へ触れようとするレイカに、瑠璃は首をふる。
「申し訳ありません。かん口令が敷かれているせいで、私にもまだ。……清龍殿の房にいるそうなので、直接会いに行ったほうが早いかと」
通常、罪人が入れられるのは掖廷局の監獄である。しかし今回の下手人がいるのは、後宮の中心である清龍殿 。
しかもかん口令が出ているということは、やはり相当な身分の人間に違いない。
「ただの残党ではなさそうね」
顎に傷のある青年の顔が頭をよぎり、レイカの胸に不安がのぼる。
すぐに自白してしまうあたりも、まだ幼い青冥らしい。
しかし捕らえられたのが青冥だったとして、単に利用されただけにすぎない。
どこかに黒幕がいるはずだ。
「すぐに行きましょう」
輿に揺られながら、レイカは清龍殿への道が果てしなく続くような心地悪さを感じていた。
下手人のいる房室は清龍殿の西端にあり、正憲の住む正殿とは距離がある。
薄暗い廊下を渡ると、両脇には鉄でできた房室の扉がいくつも並んでいた。
最奥の扉の前に立っていたのは、かつて咲羅の事件で審判をおこなった御史台の男だった。
「袁長官……?」
御史台の男は名を袁といった。
ずいぶん前に長官へ昇進し、今も御史台に身を置いてはいるが、すでに現場はしりぞいているはずだ。
「お久しぶりです、王妃さま。今回は事情があって駆り出されましてな」
袁長官は相変わらず丸々とした風貌で拱手し、少しきまり悪そうに表情をくずした。
そして手を下ろすと、これまで御史台がつかんだ情報について明かす。
「下手人の話では、1年ほど前から陛下の薬湯を逆効果のものへとすり替えていたそうです」
「そんなに、長い間────……」
想像するだけでぞっとする。
1年もの間、正憲は毒を飲まされ続けていたのだ。
「毎日おこなわれていたわけではありません。陛下の体調をみて、悪化したら薬を元へ戻し、起き上がれるほど回復したらまた補剤を投与する。陛下のお身体を巧みに操作していたわけですな。いやはや巧妙な手口です」
長年あらゆる犯罪を裁いてきた賜物だろうが、どれだけの凶悪事件を前にしても、袁長官はいつもひょうひょうとしている。
「といっても、私も部下からの報告を受けただけで、まだ本人とは直接話していないのです」
そう言いながら太い指が扉を押し、慎重に押し開く。
レイカと瑠璃は、袁長官に続いて房室に入った。
「……あなた。どうして────……」
小部屋には窓がなく、机の上の燭台が唯一の明かりだ。
薄明かりの下に浮かび上がっているのは、椅子にかける人影。
それはレイカが恐れていた我が息子の姿ではない。
白い衣を着た女だった。
「蕭貴妃さま……ですよね?」
瑠璃が自信なさげな声でつぶやくが、レイカにも定かではなかった。
王妃であるレイカと蕭貴妃には日ごろ交流がなく、公の場ですらなるべく顔を合わせないようにしていた。
いっぽうで瑠璃は、レイカの使いで正憲のもとをたずねるさい、何度か顔を合わせているはずだ。
「ええ。貴妃さまです」
袁長官が答えると、うなだれていた蕭貴妃がこちらに気づいて顔を上げる。
瞳にレイカの姿をとらえると、驚いたようにまぶたを大きく開いた。
すでに年齢は50に近く、簡単にまとめた髪には多くの白髪が混じっている。
それでも同年代の女よりはずいぶんと若々しく、体形もすらりとしたままだ。
しかし化粧をしていないせいか、面影からはかつての傲慢さは消えていた。
「蕭貴妃。あなたが本当に……陛下を?」
貴妃はずっと正憲のそばで世話をしていた。
先日レイカがしたように、薬を飲ませてやることも多かっただろう。
犯行は誰よりも簡単だ。
しかし、これまで特段疑いの目を向けられなかったのは、彼女には正憲を害する動機がないからだ。
最も正憲に愛され、大事にされていた貴妃。
誰の目から見てもふたりは相思相愛の夫婦だった。
それでも王妃の座を、自分ではなくレイカに授けたことを恨んでいたのだろうか。
だが貴妃の性格上、それならばまずレイカを害すはず。
「……」
いくつもの疑問が浮かぶレイカをよそに、貴妃は顔をふせ黙秘をつらぬく。
「おやおや。動機については話したくないようです。ではまず、こちらについて聞きましょうか」
そう言って袁長官が手に掲げたのは、小さな白い物体だった。
「何ですか?それは」
首をかしげる瑠璃の隣で、レイカはハッとして表情を凍りつかせた。
「これは、まさか────……」
人の形をした白い布。胴体部に書かれた文字────。
レイカの脳内に、忌まわしい記憶がよみがえる。
人を呪い殺すために作られた呪詛人形に違いない。
「ひいっ!」
人形を目にしたとたん、貴妃は悲鳴を上げてのけぞった。
そして両手で自分の顔を覆い、人形を必死で遠ざけようとする。
袁長官の腕には、同じような人形がいくつも抱えられていた。
「咲羅王女や蘭王妃の名が書かれていますが、韋氏の部屋で見つかったものとは違いますね」
かつて咲羅殺害事件の証拠となった人形は、すでに処分されている。
あまりにも不吉だということで、巫女による呪詛外しを施したあと燃やされたのだ。
だから今ここにあるのは、あの呪詛人形とはまた別のもののはず。
「この人形を作ったのはどなたですか?」
まるで拷問のように、袁長官は咲羅の名が書かれた人形を貴妃の顔へ近づける。
「わ……わたくし、よ」
唇のすき間から、蚊の鳴くような声をもらす貴妃。
「最近のものではありませんね。咲羅王女を呪詛していたということは、王女がお亡くなりになる前のことでしょう?」
貴妃は固く目を閉じたままうなずく。
「昔……まだ咲羅王女も、お姉さまも生きていた頃……」
お姉さまとは、貴妃の叔母である前王妃の韋氏のことだ。
とうとう観念した貴妃は、涙声で自白した。
かつて自分が、後宮に住む王子や王女、その母である妃たちを呪詛していたことを。
袁長官はレイカの方を向きなおって、表情を引き締める。
「王妃さま。私がここに駆り出された理由はこれです。今回の事件は、どうやら17年前の事件と繋がっている」
「そんな、まさか……」
思わぬ展開に、レイカは頭が追いつかない。
その一方で貴妃は、17年前、自身のおかした“罪”について話し始めた。
あの頃の貴妃は権力を固めるため、他の妃や子を呪詛し、特に正憲の寵愛を受けるレイカと咲羅を恨んでいた。
ほどなくして舞い込んだ咲羅の死の知らせには歓喜したが、呪詛の罪が露呈するのを恐れ、韋氏の住む鳳凰宮に呪詛人形を隠したのだと。
「なぜわざわざ人形を作り直したのですか?初めに作ったこの人形を韋氏のもとへ隠せばよかったのでは」
「この人形は……詳しく調べられたら、わたくしのものだと気づかれてしまう。だから布を新しく買い直して、字もお姉さまをまねて作り直したの」
韋氏は当初、呪詛人形を捏造だと反論していた。
しかし人形に書かれた文字に彼女の癖が出ていたことで、捏造ではないと決定づけられたのだ。
あの頃の貴妃はそこまで読んで、あえて人形を作り直したというのか。
「じゃあ本当は、あなたが咲羅を……」
怒りと混乱に震えながら、レイカは声を絞り出す。
貴妃はようやくこちらを向き、強い眼差しでレイカを睨み上げた。
「言っておくけれど、わたくしは呪詛しただけで、殺してなんかいないわ!手にかける気があるのなら、わざわざ呪詛なんかしない」
長年隠し通した罪を自白し、とうとう開き直ったか。
その語り口は、若い頃の威勢を取り戻していた。
「それに、お姉さまも無実だった────」
「────嘘つかないで!」
どうしても看過できない言葉を耳にし、レイカも思わず両手に拳を握り、叫んだ。
「あの日、咲羅に手をかけられるのはあの女しかいなかった。それに……彼女は罪を認めたわ。自分が殺したのだと」
仮に韋氏が、呪詛に関しては無実だったとしても、実際に咲羅を絞め殺したのであれば、罪の重さはほとんど変わらない。
人形の件を否定しなかったのは、無駄だと諦めたからではないか。
袁長官は胸の前で腕を組み、表情をくもらせる。
「王妃さまの言うとおり。あの場にいなかった貴女が犯人でないことは信じますが、今さら韋氏まで無実と言われましても……」
レイカは拳を開く。手のひらが汗でぐっしょりと濡れていた。
手だけではない。嫌な汗が全身に重くまとわりついていた。
自分の運命を大きく変えたあの事件の真相が、根底から覆されようとしているのだ。