黄色い水仙①
夕餉を終えたレイカは鳳凰宮の庭園に出た。
東屋で酒を飲みながら、今日のことを思い出す。
『俺はしょせん、母上を王妃にするための道具でしかないんだ!』
立場上、誤解や憶測で非難されることは慣れているが、息子の言葉には深く心をえぐられた。
年齢を思えばただの反抗期────で片付けてよいものだろうか。
わかり合える日がくる前に、会えなくなってしまうかもしれないのに。
「青冥……」
“もう一度、咲羅に会えるかもしれない”
第二子の妊娠を知ったとき、その気持ちがなかったと言えば嘘になる。
けれどその思いは、青冥をはじめて腕に抱いた瞬間に消え去ったのだ。
“ ────勝手にすれば?あたし卒業したら家出るから”
親を信じられず傷ついた息子の顔に、かつての自分が重なる。
「青冥、ちがうのよ……」
空になった酒杯を前に、卓に突っ伏してレイカは訴える。
王妃になったのは、あなたを守るためだった。
だけどそれは親のエゴでしかなく、それだけが理由なわけでもない。
これまでの人生をがむしゃらに駆け抜けてきた自分は、母としてあまりにも未熟だ。
「レイカさま」
「……っ?」
その声に、跳ねるようにして顔を上げる。
名前を呼ばれるのはいつぶりだろうか。
「なぜここに?まさか……青冥に何かあった?」
朱塗りの柱の前に立つ黒い人影は、どこか幻想的な雰囲気をともなっている。
「いえ。特に用はありませんが。なんだか呼ばれたような気がしたので」
動揺するレイカに、かつての従者は拍子抜けするほど軽く答えた。
「ひょっとしてエスパーなの?」
「えすぱ?」
「なんでもないわ。座って」
レイカがうながすとすぐに女官があらわれ、卓の上に酒と茶の両方が置かれた。
僧侶は戒律によって酒が禁じられているが、それは形式的なものにすぎない。
レイカの前に転がる酒杯を起こしてから、黒翠は席に着いた。
「太子殿下のことで、ずいぶんお悩みのようですね」
すこし首をかしげる風貌は、自分と同じだけ年をとっているはずなのに若々しい。
化粧けのない肌は白くなめらかで、髪も艶々としている。
変わったことといえば、その美貌を形容するのが「可憐な少女」から「妖艶な美女」になったことくらいか。
レイカは急に自分の容貌が気になった。白髪は残っていないだろうか。
「───ふむ。話を聞くに、殿下とレイカさまは、互いを見ているようで見えていない」
青冥について相談したレイカに、黒翠はそう指摘した。
「どういうこと?」
「レイカさまはいつも殿下に、太子としての自覚を持つようにとおっしゃっています。しかし太子殿下のほうは、レイカさまに母親としての愛情を求めている」
レイカにとって青冥との関係は「王妃と次期国王」であり、臣下たちに規範を示すためそうでなければならない。
いっぽう、青冥は自分たちを「母と息子」と見なしている。
この視点の違いが、両者の間に摩擦を生む原因だというのだ。
「ついでに私のことは『母をたぶらかす妖怪』とでも思っているようですね」
「ああ……情けない」
いつもなら笑ってしまうような発言も、今はただ耳が痛いだけだ。
「おそらく反抗的な態度も、ふつうの母親のように接してほしいという気持ちのあらわれかと」
「そうね……今度は互いの立場には目をつむって、母として話してみるわ」
図体は大きくなったが、青冥の心はまだ甘えたがりの子どもなのだ。
太子としての自覚など、後からついて来てくれるだろう。
「はい。きっと大丈夫ですよ」
めずらしく楽観的な物言いは、レイカへ逆に不安を与えた。
「ほんとうに?」
「ええ。今の太子殿下のふるまいは、昔のあなたに似ていますから」
嬉しさと気恥ずかしさが同時にこみ上げ、顔が熱くなる。
「……黒翠は、昔のことどのくらい覚えてる?わたしと出会った時とか」
「多少は記憶していますが……なぜです?」
レイカは膝の上で拳をにぎる。
「実はね、これまでのことを手記にまとめようと思ってるの。わたしがいなくなったあと、青冥や瑠璃に読ませたくて。だけど記憶が曖昧なところもある。とくに召喚されたばかりの頃なんて、毎日が驚きの連続だったから」
「なるほど。では、私が覚えていることを簡単にお話ししましょう」
こうして黒翠から昔話を聞くことになったのだが───
「うそ……わたし、そんなことを?」
はじまって早々に、レイカの顔は羞恥で真っ赤になる。
信じられなかった。17歳のうら若き乙女が、目の前の男に向かって、性欲だとか排泄だとかについて質問責めしただなんて。
「言ったほうはすぐに忘れてしまう。そんなものですよ」
苦笑する黒翠の顔を、まともに見られずうつむくレイカ。
だがそうしているうちに、当時の記憶が少しずつよみがえってきた。
「ああ思い出したわ。たしかあの時……そう、『あなたの脚など誰も見たくない』って言われたのよ。面と向かってそんなことを言われるだなんて……すごくショックだった!」
レイカは顔を上げ、まるで少女に戻ったように卓をバンと叩く。
自分の発言はいっこうに思い出せないのに、こうして“言われたこと”だけが鮮明によみがえるのだから、やはり黒翠は正しい。
「たしかに言いましたね」
当の本人は悪びれる様子もなく、酒で唇を湿らせた。
「あら、言ったほうなのに覚えてるの?」
「ええ。あのとき本当は────……」
酒杯を置いて、遠い日を懐かしむように目を細めた黒翠。
そして東屋を囲う花園に顔を向ける。
黄色い水仙の花が、月夜の下で咲き乱れていた。
「……『誰にも見せたくない』と思っていましたから」
「……?」
きょとんとした顔でまばたきしていたレイカだったが、そのうち笑いがこみ上げた。
「ふふっ……うまいことを」
胸のあたりがふわふわとして、酒杯をいっそう傾ける。
こんな風に冗談を交わす日がくるなんて、あの頃の自分たちには想像もできなかっただろう。
【こぼれ話】
第五章はすべて、レイカが書いた物語という設定です。
最初の方(『ギャルと宦官』あたり)で少し黒翠の視点が入っているのは、この時に黒翠から聞いた話をもとにしているからです。