蘭王妃①
「……王妃さま?」
何度目かのトーンの声に、レイカはハッと我に返った。
「眠いのなら、冷たい水でもお持ちしましょうか?」
時刻は五更(午前3時~5時)。
まだ日が昇る前で、燭台の火をたよりにせねば手元も見えない。
「ううん。ちょっと思い出してて……今までのこと」
反応できなかったのは、まだ呼ばれ慣れていないせいもある。
鏡越しにのぞく黒翠の背後には、巨大な龍と鳳凰が見えた。
ここはかつての住まい扶桑宮ではなく鳳凰宮。
いまの自分はこの後宮をすべる王妃なのだと、レイカは実感した。
* * *
“王妃になりたい”
その思いがレイカにめばえたのは、第二子を身ごもっているときだ。
第一子の咲羅は、この国で最も身分の高い女に殺された。
その罪さえ、黒翠がいなければ、あやうく見逃されていたかもしれない。
残酷なことに、この世界では 地位や権力が全てなのだ。
そんな場所で生まれてくる我が子を、今度こそ守りぬきたい。
そのためにレイカは、この後宮で最も強い女になると決めたのだ。
しかしレイカにとって、王妃への道は困難を極めた。
『王妃は国の母です。ふさわしい家からお選びください』
これが臣下たちの意見であり、蘭氏の娘などもってのほかである。
そして、その決定権をもつ正憲もまたレイカに反対した。
『レイカには、穏やかな日々をおくってほしい』
そもそも新王妃は、太子の生母である蕭貴妃になるはずであった。
しかし、彼女にも大きな問題がある。
韋王妃の大罪が明らかになって以降、朝廷には韋家を排除する流れがあった。
それは韋王妃の姪である蕭貴妃も例外ではなく、太子を廃嫡せよという声も多かったのだ。
誰を王妃にすべきか、太子を変えるべきか────正憲の苦悩は半年以上も続く。
病弱だった体に無理がたたって、床にふせることも多くなった。
ある日、見舞いに来たレイカに正憲は言う。
「……玉座は孤独だ。レイカとて王妃になってしまえば、もう普通の女には戻れぬ。わたしのせいで多くを失ったお前には、せめて……平和な日々を────っ……」
咳き込む正憲の曲がった背を、レイカは強くさする。
「あたしはもう、普通の幸せはいらないよ」
そして寝台の上に一冊の書物を置いた。
「これは……?」
赤い表紙には細かな花模様が彫られている。レイカが特注で作らせたお気に入りのノートだ。
「この国でやりたいこと」
ページをめくれば、つたない文字でレイカなりの「改革案」がつづられている。
・女性大臣の採用
・纏足の禁止
・商業の自由化
・科挙の充実……
身分差のない社会をつくるため、元の世界を参考にした政策である。
「……覚えてる?『皆が幸せな国をつくる』って約束したの。陛下が動けないなら、あたしと一緒につくろうよ。貴族も平民も、男も女も平等に暮らせる国を」
すっかりおとなびたレイカの顔を、正憲は驚きの目で見つめる。
これまでの正憲は、国王としての志を持ちながらも、思うように手腕をふるえない日々を過ごしていた。
臣下は親から官職を引き継いだだけの貴族ばかり。そして朝廷には大きな影響力をもつ韋宰相がいたからだ。
韋宰相が去り、ようやく親政をおこなえると思ったところで、今度は病に道をふさがれてしまった。
「……陛下」
少し離れたところにいた黒翠が、一歩前へ出る。
「はっきり申し上げて、妃に穏やかな日々など一生おとずれないでしょう。ここはせめて、レイカさまの願いを叶えてさし上げてはどうでしょうか」
「お前たち……」
ふたりの強い意志が、ついに国王の心を動かした。
「子どもだと思っていたが、すっかり成長していたのだな」
3日後の早朝、正憲は勅命を出す。
“蘭令華を新たな王妃とし、その息子青冥を太子に。そして側近の黒翠に国師の座を与える。”
国師とは僧侶の最高位であり、政治的な影響力もあることから、その座が埋まることの方が珍しい。
黒翠の昇格はいわば、身分の低いレイカのための後ろ盾であった。
* * *
紅筆を持つ手が震える。
王妃となったレイカは今日、はじめて朝議にのぞむ。
起き上がれない正憲の代わりに朝堂へおもむき、 政務の審議をおこなうのだ。
みずから選んだ道とはいえ、己にのしかかる重圧を思うと、心身がこわばってしまう。
それは緊張というよりも恐怖に近かった。
鏡台に紅筆を置いてうつむくレイカ。
開朝時間はもうすぐなのに、腰が鉛のように重い。
すると、肩に何かがふわりと乗る感覚があった。
「───?」
顔を上げるとそれは、ヒョウ柄の披帛(ショール)である。
「陛下とて、ご自身で発言する機会はそう多くありませんでした。何かあれば私が助言いたします」
鏡の中で薄くほほ笑む黒翠を見て、レイカは背に羽が生えたような気分になる。
差し伸べられた手をとって立ち上がり、清龍殿までの道を踏みしめた。
朝堂に足を踏み入れたレイカを出迎えたのは、びっしりと並んだ大勢の官僚たち、そして“仮の玉座”であった。
広間の中央、最奥の檀上に置かれた大きな椅子は、下段から姿が見えないよう簾で囲われている。
その目下に鎮座する本物の玉座は空席であった。
「あの……まだ陛下のお姿がありませんが?」
レイカが席につき、開朝の合図を聞いた臣下が、首をかしげてたずねた。
「まだ本調子でないため、本日は王妃さまに名代をつとめていただきます」
国師として壇上にあがる黒翠の答えに、場内は騒然となった。
「王妃さまがいらっしゃるとは聞いておったが、まさか陛下の代わりとは……」
「陛下がおられないのであれば、今日は中止にしたほうが」
「いや。そうやって二月も先延ばしになっておる。やむをえんのだろう」
次々とわき上がる戸惑いの声。
その多くが、レイカが国王の代わりをつとめることに異議を唱えるものであった。
最前列に立っていた白髪の老臣が、皆を代表して黒翠へもの申す。
「太后が国王へ助言する例は多々ありますが、王妃の前例はほとんどございません。ましてや蘭王妃は冊封されたばかり。国王不在のなか女子ひとりで政をおこなうなど、道理に反します」
他の臣下たちも続く。
「君主の愚行は、国に厄災をもたらすと言うぞ」
「陛下の病が悪化したのも、そのせいなのでは?」
この場にいる官僚たちのほとんどは、そもそもレイカが王妃になることにすら反対していた。
目の前にいるのが若い女であるのをいいことに、おのおのが不平不満をもらしはじめる始末で、とても政務をおこなえる雰囲気ではなかった。
「────“為化衆生、現受女身”」
突如、場内にひびいた女の声に、臣下たちの視線は壇上の簾に集まった。
「……は?」
「大雲経の一説よ。人々を導くため、仏は女の姿で現れる」
小さな数珠玉を連ねてできた簾がゆっくりと分かれ、中からレイカが姿を現すと、場内にどよめきが起こる。
女が堂々と姿を晒すことすら異例であるが、皆の度肝を抜いたのはレイカの姿であった。
毒々しい赤い花の刺繍が入った黒い衣装、ヒョウ柄の披帛、そして彼女の代名詞とも言える厚底靴────保守的な男たちの目には、あまりにも強烈なファッションだ。
「────女が政をして、なにが悪いの」
「……」
黒くふち取られた大きな目でにらまれると、威勢のよかった官僚たちは萎縮した。
続いて黒翠が、レイカの正統性をもっともらしく説いてみせる。
「大雲経には『困難におちいった人々を救うため、弥勒は女に生まれ変わる』とあります。韋氏の悪行や陛下の病によって混乱する覇葉国にあらわれたこの蘭王妃こそ、まさに弥勒の下生(生まれ変わり)ではないでしょうか」
これがとどめの一撃となり、それ以降、異を唱える者はいなくなった。
そして、清龍殿からの帰り道────。
「……うまくやれた?」
隣を歩く黒翠に、子どものような顔でたずねるレイカ。
朝堂での姿とはまるで別人である。
「上出来です」
今日、臣下たちからの反発が起こるのは想定の範囲内だった。
経典から使えそうな一説をぬきとり、都合のいいように訳したのは黒翠である。
『大衆の心を動かすには、神話か仏教のどちらかを使います。陛下の祖先は龍神ですから、その血統に対抗できるのは仏しかありません。レイカさまを仏に見立てましょう』
それにしても、ただの一般人が弥勒の生まれ変わりなど、ハッタリもいいところである。
自身の個性的なファッションと、素性に謎が多いところも功を奏したらしい。
「王妃さまの気迫に圧倒された老臣の顔は、実に見ものでした」
黒翠の満足げな横顔を見て、レイカは立ち止まる。
「……あのさ。ふたりのときは、名前で呼んでくれない?」
一歩前で足を止め、こちらをふりかえる黒翠。
その端正な顔を、レイカは不安げな眼差しで見つめた。
「アンタにまでそう呼ばれたら、本当のあたしが……『レイカ』がいなくなっちゃう気がして」
これから自分は「蘭王妃」になる。この後宮で最も気高く、強い女を演じなければならない。
せめて側近の前では、肩の荷を下ろし本当の自分でいたかったのだ。
「……承知しました。レイカさま」
数秒見つめ合ったあと、黒翠はそっと手をさしのべる。
少し熱い手のひらにレイカも手を重ね、そして思った。
この先の人生もきっと、今日のように多くの困難にぶつかるだろう。
けれどそのたびに、黒翠と手を取り合って乗り越えていく。
いつかおとずれる別れの日まで、こうしてふたりで歩んでいくのだと。
【こぼれ話】
黒翠のモデルは武則天の愛人といわれる僧侶の薛懐義 です。
彼は「大雲経」というお経の一説を利用して「武則天は弥勒の生まれ変わりであり、帝位につくべき人だ」と宣言し、彼女を女帝へのし上げました。
彼はもともと商人で、武則天の愛人になるためにわざわざ出家したような男です。
ちなみに宦官ではありません。
むしろ巨根説までありますが、これはたぶん嘘だと思います。女性権力者の側近にはたいてい巨根説がつきまとうので。
のちの日本にも、武則天をまねて大雲経で帝位を確立した女性がいます。
奈良時代の持統天皇です。
彼女もまた道鏡という僧侶を寵愛しましたが、これが中国だったら道鏡にも巨根説があったかもしれませんね(?)