思い寝
どんな日も欠かさずレイカのもとを訪れていた黒翠の足が、すっかり遠のいてしまった。
その間、かろうじて食事はとれるようになっていたレイカだったが、深い心の傷が癒えることはなく、変わらず無気力な日々を過ごしていた。
「────ご無沙汰をして、申し訳ありませんでした」
寒さ厳しい夜、一週間ぶりに扶桑宮にあらわれた黒翠は、寝室に入るなり膝をついて叩頭した。
てっきり自分に嫌気がさしたのだと思っていたレイカは面食らい、2人の間を隔てる帳を開ける。
久しぶりに見る従者の姿には、何か引っかかるものがあった。
咲羅の服喪期間はすぎたというのに、黒翠はまだ白い衣装を着ているのだ。
「何か、あったの……?」
「……」
寝台に腰かけ問うレイカの目前で、黒翠は頭を下げたまま、少し沈黙をおく。
「妹が……死にました。昨日まで葬儀などで立て込んでおり、出仕できなかったのです」
黒翠の口から久しぶりに出た“妹”という言葉。たしか彼女は、無実の罪を着せられた父の刑罰にともない、教坊司に送られていたはずだ。
そんな妹の訃報が兄へ届いたのは7日前、ちょうどレイカが黒翠と最後に顔を会わせた日の朝だったという。
「死んだ……っていうのは……」
「自ら命を絶ちました」
まるで鉛でできた剣のような返答に、レイカは絶句する。
黒翠は身内の悲報を耳にしたあと、何事もなかったふりをして後宮へ出仕していたというのか。
あの日の冷たいまなざしや暴力的なふるまいは、すべて事情があったのだ。
「幼い頃から甘やかされ、自尊心の高い娘でした。教坊司での生活は耐えられなかったのでしょう。……その苦しみから逃れられたのは、せめてもの救いでした」
一聞すると、平時と変わらぬ冷静な声。
それでも、あふれだす感情を喉元でせき止めているような、痛々しい印象を受けた。
教坊司の娘たちは歌や踊りを生業とするが、それさえ良家の令嬢にとっては首を括りたくなるような屈辱である。そのうえ、身体を求められることもあるという。
そんな苦境を嘆く妹の声は、以前から手紙で兄へも伝わっていたらしい。
黒翠が必死に働き教坊司へ賄賂を送っていたのは、苦役から妹を遠ざけるためだったはずだ。
『妹を守るために生きています』
そう宣言した兄の努力むなしく、彼女は命を絶ってしまったというのか。
「黒翠……」
レイカは寝台を降り、小さくひれ伏す黒翠の前で膝を折った。
これ以上、話さなくていいのに。
レイカの思いとは裏腹に黒翠はしゃべり続けた。まるで己を傷つけることで罪を償おうとするように。
「私たちが都にとどまったのは、その実、家の再興というわずかな望みにすがっていたからです。しかし今となっては愚かな選択でした。レイカさまがおっしゃったように、最初から家族いっしょに配流されていたら……」
床へ垂直に落ちる黒い髪を、レイカは震える手でかき分け、頬に触れる。
指がひやりと濡れた。
「────ごめん……っ」
髪のすき間からのぞいた退廃的な瞳。
言葉が見つからず、レイカは黒翠の頭を胸に抱き寄せた。
今この瞬間まで、苦しんでいるのは自分だけだと思い込んでいたことを詫びる。
「ごめんね。きづかなくて……」
ガタガタと風の音とともに窓の格子がゆれた。
外では吹雪になっているらしい。
レイカは黒翠の腕をつかんで、炕(床暖房)のきいた寝台の中へ引き入れた。
「妹は私と正反対でした。感情が表に出やすく、強情なのに涙もろいところがあって、いつも後先考えず……」
布団の中で横たわるレイカの胸元から、くぐもった声がする。
思い出すだけでもつらいはずなのに、黒翠は妹についてよく話した。
心の苦杯を吐き出さねば、崩壊してしまうのだろうか。
「なんかそれ、あたしみたいだね」
「……そう、ですね」
申し訳なさそうな声色なのは、レイカに妹の面影を重ねていたからかもしれない。
だからこそ彼は、何があってもこのワガママな主に尽くし続けてきたのだ。
そして今もこうして、幼子のように抱き締め合っている。
「嬉しいな。あたし、ずっと誰にも必要とされてないって思ってたから」
誰かに求められるのならば、レイカは身代わりであってもよかった。
「必要とされていない、というのは……間違って召喚されたからですか?」
「ううん、もっと前から。あの歌の中にもあったでしょ。『居場所がなかった』って」
人は誰しも孤独である。
仲間や家族の存在は、その事実に気づく日を先延ばしするための気晴らしにすぎない。
レイカの場合は“気晴らし”すら、すぐに失う傾向があった。
「だからさ、あたしが女性たちを救ったって言ってもらえたとき、ほんとはめちゃくちゃ嬉しかったんだ」
そう打ち明けた刹那、レイカの腰を締めつける力が強くなる。
みぞおちに埋められた頭部をレイカは撫でた。
黒翠の体からは、しんしんと冷える冬の夜の匂いがした。
「レイカさま……」
「……ん?」
「……わたしを……────してください」
「え、なに……?」
大事なことのような気がしたが、黒翠はすでに寝息をたてている。
無防備な顔を見つめていると、彼が自分より年下であったと思い出す。
そしてレイカも目を閉じた。
自身が身代わりであるように、レイカもこの黒い影の中に、守れなかった小さな温もりを探した。
途切れず朝をむかえられたのは何日ぶりだろうか。
翌朝レイカが目を覚ますと、布団の中は自分ひとりだった。
昨夜の出来事はすべて夢だったと言われても疑わない。
重い身体を起こし、窓からさし込む白い朝日に目を細める。
帳越しに部屋を見まわすと、鏡台の前で、黒装束に身を包んだ男が髪をといていた。
レイカの視線に気づいた黒翠は、手元の櫛を置いて静かに立ち上がる。
「おはようございます。今朝の体調はいかがですか」
折り目正しく胸の前で拱手した、事務的な挨拶。
まるで今しがた部屋に着いたばかりのようなふるまいに、レイカは思わず笑いそうになる。
覇葉国で暮らしはじめて3年が経とうとしていた。
多くを失った先に残った、わずかな温もりにしがみつくようにして、レイカは20歳の冬を越した。
【こぼれ話】
一般的な話ですが、僧侶は去勢してなくても普通に後宮に入れます。もとから戒律によって女性と交われないので。
ただ覇葉国では、後宮で働く僧侶はみな宦官です。