喪失
『幸せだよ』
という言葉さえ口にしなければ、この不幸は起こらなかったのではないか。
そんなとりとめのないことを、レイカはこの数日考え続けている。
最愛の娘、咲羅が生後6ヶ月でこの世を去った。
レイカは3日間眠ることなく泣き続け、その後は涙とともに全ての気力が尽きはてた。
今は寝台から起き上がることすらできない。
咲羅が亡くなったのは、正憲が韋王妃とともに扶桑宮をおとずれた日の午後。
ちょうどレイカが寝室で正憲と過ごしていた頃だ。
別室で眠る咲羅のそばを乳母がいっしゅん離れ、戻ったときには息をしていなかったという。
レイカたちが駆け付けたとき、寝台の中の咲羅はなぜか服がはだけ、首には絞められたような赤い痕があった。
乳母の罪は重いが、咲羅を手にかけた容疑者を即座に捕らえたことから、軽い杖刑と宮廷からの追放のみが言い渡された。
容疑者には今も厳しい取り調べが行われているが、そんなことはレイカにとって何の慰めにもならない。
『自分がついていれば』
『一瞬でも、顔を見に行けば』
レイカは悔やみ、何度も何度も自分を責めた。
『産まなければよかった』
この世に生まれて半年たらずの咲羅。
首を絞められたなんて、どれだけ苦しかっただろう。
こんなに辛い思いをさせてしまうのなら、いっそ生まれない方が幸福だったはずだ。
レイカは突然の別れを受け入れられず、喪服にも袖を通せないまま、何日もただ横たわり、呼吸をするだけの抜け殻になっていた。
眠っている間だけは現実を忘れられたが、近ごろは目を閉じると動悸が激しくなり、安眠すら叶わない。
『極度の心労により、心血を消耗されております』と侍医が処方した薬湯すら、心身が受け付けなかった。
沙羅の時とは比べ物にならないほどの絶望、そして喪失感。
暗くねばつく地獄の底で、レイカは考え続けた。
なぜ咲羅が死ななければならなかったのか。
これは自分への天罰なのか。
異世界から来た何の取り柄もない女が、『寂しいから家族が欲しい』などという不埒な願いを抱いたせいか。
いくら考えても答えは出ない。
ただ悟ったのは、人の幸せというものがしょせんは砂の城だということ。
「レイカさま、失礼いたします」
そう言って入室したのは、白い喪服に身を包んだ少女────に見まごうほど儚げな美貌の宦官であった。
「沐浴の準備ができましたのでお連れします。よろしいですか」
座ることすらままならないレイカを、担ぎ上げて浴室へ運ぶのは黒翠の役目だった。
「……黒翠、」
レイカは問いかけには答えず、ただ虚ろな目で天井を見つめる。
「はい」
「……やっとわかった。あのとき沙羅が……なんで自分の命よりも、子どもを守ろうとしたのか」
我が子を失うということは、自身を八つ裂きにされるよりも辛く、そんな人生は生きる価値もない。
愚かだと思っていた友の選択が、正しかったのだとレイカはようやく理解したのだ。
寝台のそばに立つ黒翠は、レイカを静かに見下ろす。
「だからレイカさまも、何も口にしないのですか?」
寝台の脇には粥や薬湯の入った椀が、朝から手つかずのまま放置されている。
寝室は、正憲から贈られた見舞いの品であふれていた。
「……生きる資格ないでしょう。子どもを死なせた母親なんて」
かすれた声は老婆のようだった。
体が食べ物を受け付けないのは、このまま飢えれば咲羅のもとへ行けるかもしれないという期待からだ。
「ですがあなたは、これから何千何万もの人間を救うのですよ」
はじめ、黒翠が何のことを言っているのか分からなかった。
この期に及んでも彼は、レイカが政治をおこない、国民を導くのだと信じているらしい。
「……」
レイカはそっとまぶたを閉じ、心のなかで自嘲する。
我が子ひとり守れない女に何ができる?
何千何万の他人を救って何の意味がある?
もはや反論する気も起きなかった。
しかし────
暗闇のなかで突然、わずかに開いた唇のすき間へ、硬いものがねじ込まれた。
「────っ!?」
口内に広がる薬草の香りと苦み。匙で流し込まれたのは薬湯だ。
レイカは飲み込むことも吐き出すこともせず、ただ口の端から薬を垂れ流し、衣と寝台を濡らした。
本物の屍になった気分だった。
「……本当に死ぬつもりですか」
レイカが目を開くと、黒翠は眉間に皺を刻みながら低い声をもらす。
静かな狂気のような、怒りを感じた。
そして匙を床へ投げ捨てたかと思えば、レイカの顔へ手を伸ばす。
まだ薬湯の残る口を塞ぎ、ぐっと押し付ける。
そのまま指でレイカの鼻をつまみ、呼吸を完全に封じた。
「……ッ!────ゴホッ!……」
レイカは苦しさにむせ返り、さらに薬湯が気管に入り込んだせいで激しく咳き込んだ。
黒翠はようやく手を離す。
「……生きようとしているではありませんか。必死に」
苦しみあえぐレイカを、あざけるような声が降ってくる。
レイカの全身から血の気が引いた。
あの冷たい目と手の力には、ためらいが一切なかった。
「なん────で────っ!」
いったいどうしてこの男は、地獄へ落ちた人間に、そこまで酷い仕打ちができるのか。
発狂しそうなほどの混乱に、体を震わせるレイカ。
しかし心とは裏腹に、体は無限に湧き上がる咳にゴホゴホと翻弄されるしかなく、言葉を発する余裕はなかった。
あふれるのは生理的な涙と、煮えたぎる怒りだけ。
「……苦しむのは、生きる資格がある証拠です」
冷淡な表情をくずさない黒翠は背を向け、扉に向かって歩き出す。
「まっ────っ!」
レイカは必死に後を追った。が、目の前でバタンと勢いよく扉が閉まる。
伸ばした右腕を力なく下ろし、その場でしゃがみ込んだ。
やりきれなくて、深いため息をつく。
そこで初めて、自分の足でここまで走ってきたことに気づいた。
あの日から、自力で立ち上がることすらできなかったのに────。
『苦しむのは、生きる資格がある証拠です』
冷たく、けれど情のこもった声が、頭の中で反響する。
レイカの頬を涙がつたった。
思わず己の肩を抱きしめると、胸の奥が熱かった。どくどくと心臓が送り出す血が全身を巡っていく。
枯れ木が水を吸い込むように、じわじわとみなぎる力────この感覚には覚えがあった。
レイカは顔を上げた。強いまなざしで、黒翠が去っていった方向を見すえる。
これまで何度も絶望のふちに落とされたレイカを、幾度となく立ち上がらせてきたのは“怒り”にほかならない。
蘭令華は、失うほどに強くなる。
この世界でただひとり、レイカをそばで支え続けてきたあの男だけが、それを知っていたのだ。