つかの間の幸せ
「咲羅は目が大きくて、ほんとうに愛らしいな」
久しぶりに扶桑宮をおとずれた正憲は、腕の中で愛娘をあやしながら、顔をほころばせた。
つづいて「お前もそう思うだろう」と、黒翠へ向けて、咲羅のおくるみを少し剥がす。
黒翠はわずらわしそうに咲羅の顔をのぞきこんでから
「……そうですね。レイカさまによく似てきたと思います」
と、適当な調子で返した。
「たしかに母親似だ。父親に似なくてよかったなあ」
正憲は満足そうに笑いながら己の厳めしい顔を自虐するが、黒翠は無表情。
その横で「ふふふ」と笑い声をもらしたのは、彼の正妻の韋王妃である。
ふたりの様子は一見、仲むつまじい夫婦そのものだった。
後宮で子が産まれると、こうして国王と王妃が慰労をかねて訪ねるのがしきたりだ。
赤子に対して深いトラウマをもつ王妃を、レイカは心配していたが、王妃が咲羅へ向けるまなざしは終始おだやかだった。
その理由をレイカは正憲の口から聞く。
「わたしの甥に息子が3人いるのだが、六つになる次男がなかなか賢い子でな。思いきって養子に迎えることにした」
「そう……だったんですね」
王妃の手前、いつもよりかしこまって返事をするレイカ。
そんなに幼い子を親元から離して大丈夫なのかとたずねると、乳母が一緒についてくるので心配ないのだという。
この世界の親子関係は、元の世界とは異なることを再認識する。
「賢いと言ってもまだ6歳よ。きっとやんちゃざかりで騒がしくなるわ」
王妃はほほえみながら、眩しそうに窓の外を見た。
我が子を迎えるのが待ち遠しいという表情で、そこにはかつて誕辰の宴で見せた憂欝さは微塵もない。
女にとって子どもは何にも代えがたい宝物で、人間性を丸ごと変えてしまうほどの存在なのだ。
すでに母となったレイカには、それが痛いほど理解できる。
「おや。眠ってしまったようだ」
いつのまにか、正憲の腕の中で咲羅が目を閉じている。
レイカがおくるみの中を覗くと、ちいさな鼻の穴が寝息に合わせて動いていた。
あまりの可愛らしさに、丸い頬をつついて正憲と笑い合うレイカ。
咲羅は人見知りせず、手のかからない子だった。
乳母が咲羅を受けとって部屋を出ると、主役を失った場は自然とお開きになる。
王妃が「そろそろ失礼するわ」と言って退出し、あとから黒翠も部屋を出た。
居間には正憲とレイカだけが残る。
「……陛下って、赤ちゃんの扱い慣れてるんだね」
こうしてふたりきりになるのは、思えば出産以来初めてであった。
赤子をあやすのがやけに上手いことに言及すると、正憲は冗談めかした調子で
「まあ、子は多いほうだからな」
と笑った。
そこらの男の何倍も妻がいるのだから、子沢山なのは当たり前である。
「じゃあ今度は……あたしを抱っこしてよ?」
レイカが少し甘い声でねだると、正憲は目を丸くした。
「どうした。母になったというのに……」
ふだんのレイカは、こんな露骨に甘えたりはしない。
急に子ども返りした妻に、正憲は困惑の表情を浮かべる。
「いいでしょ?あたしお父さんに抱っこされたことないの。咲羅が羨ましくなっちゃった」
レイカは正憲の前へ歩みより、両腕を伸ばす。
「……仕方ないな」
優しいため息とともに正憲は立ち上がる。
レイカの背を支えて横抱きにすると、そのまま奥の寝室へ移動した。
正憲が寝台へ腰を下ろすと、レイカは目の前の襟に顔をうずめ、白檀の香りを吸い込む。
そして思った。
自分が本当に欲しかったものは、これかもしれない。
どんな時もあたたかく自分を包み込んでくれる存在。
自分とこの男は夫婦として正しい形ではなく、かといって親子でもない。このいびつな関係はいつまで許されるだろうか。
そんなレイカの背を撫でながら正憲は言った。
「近ごろ、そなたには驚かされてばかりだ」
レイカが広めた厚底靴が巷で流行し、その影響で纏足の女は減ったという。
その功績を称えるように、正憲の手つきは優しかったが、表情は険しい。
「─────だがな、これ以上政に関わるのは反対だよ」
「……どうして?」
纏足の件をきっかけに、近ごろレイカが覇葉国の在り方を真剣に考えていることに、正憲は気づいているらしい。
「この国の人間は、おなごが政治を語るだけでいい顔をしない。そなたへの風当たりが、ますます強くなるからだ」
『いかなる時も女は男に従い、表に出てはならない』
儒教をもとにしたこの思想は、古くから覇葉国に根付いている。
女には科挙を受ける資格すらない。
唯一政治に関わるのが許されるのは、国王の母である太后もしくは王妃であるが、それも国王が機能しなくなった場合に限る。
ただの妃嬪、しかも才人であるレイカが国政に口を出すなど、もってのほかであった。
正憲はいつもレイカに、ひとりの女として平和に生きることを望むが、それは、後宮で当たり前の幸せをつかむ難しさを知っているゆえだろう。
しかしレイカとて、全て承知の上である。
自分にも、命を懸けて守りたいものがあるからだ。
「あたしは、いま自分ができることを精いっぱいやりたいだけなの。残された時間が少ないから」
自分が去ったあとも、咲羅たちが幸せに暮らせる国をつくりたい。
今さら自分の外聞など気にしている暇はないのだ。
「レイカ……」
この手の話をしてしまえば、正憲は反論できない。
「それに、あたしは聖人じゃないでしょう?こんな一般人でも何か役に立てるなら、すごく嬉しい」
照れたように笑うレイカの頬に、正憲は手を添え、太い親指で肌をなぞった。
真剣なまなざしでたずねる。
「それでレイカは……幸せなのか?」
レイカは目を細め、一点の曇りもなく宣言した。
「うん。あたし今、人生でいちばん幸せだよ」
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全6話の新作を投稿しました。
タイトルは【胡蝶の葬列~天足女官は後宮を翔る~】
明代中国をモデルにした中華後宮もので、いわゆる「お涙頂戴系」です。
本作の世界線とは異なり、纏足が当たり前となった後宮の女性たちの物語です。
そちらもよければ覗いていってください。