纏足と厚底靴
朝から晩まで咲羅へ乳をあたえ続けるレイカに、侍医は言った。
「母乳は血からできております。お産で消耗した母体にムチ打つようなことはおやめください」
高貴な女が乳母を雇うのは、単に楽をするためではなく、健康を保ち次の子をできやすくするためらしい。
ちょうど二月ほど前、正憲に古くからつかえる女官に孫が生まれ、出産を終えた婦人が宮中へ上がった。
「わたしもよく知っている女子だ。子は3人目で、子育てにも慣れている」
正憲に紹介された婦人は30代半ばくらいで、全体的にふっくらと丸みのある、いかにも肝っ玉母ちゃんといった風貌だった。
慣れた手つきで咲羅を抱き上げ、笑顔であやしはじめる婦人。
咲羅が心地よさそうに目を細めるのを見て、レイカは乳母を雇うとを決めた。
* * *
子育てにおいて心強い仲間であり師を得たレイカは、こんな贅沢な母親はいないと感謝の毎日だった。
「ねえ。纏足って知ってる?」
咲羅が奥の部屋で乳母の乳を飲んでいる頃。
居間にいたレイカが話をふると、そばの執務机で黒翠が顔を上げる。何やら書物を読んでおり、忙しそうだ。
「……小耳に挟んだことはあります。女性の足を縛って小さくするとか」
「そう。正確には子どものうちに縛って、成長を止めるってやつね」
ただ縛ったくらいで成長は止まらない。足の指を折り、肉を腐らせて削っていくのだ。
この残酷な風習が、さいきん貴族の間で流行っているらしい。
「小さい足だと、何かあった時に逃げられないし健康にも悪いでしょう?それに、もし庶民に広まったりしたら働き手が減るから、何とかしてほしいって。陛下にも上奏が届いてるみたい」
レイカがこの奇習に興味をもったのは、他でもない咲羅のためだ。
将来、可愛い娘の足を縛ることはしたくない。
このおかしな流行を何とか食い止める術はないかと、近ごろ頭を悩ませていた。
「男の薄汚い欲のために、かわいそうな女性たちですね。禁令を出すよう陛下に頼んでみてはいかがでしょう」
黒翠は女たちへの同情を口にしながらも、視線は終始手元の書物をなぞっている。
宦官の自分にとっては、女の足がどうなろうと知ったことではない、というのが本音なのだろう。
彼が熱心に読んでいるのは、また別の上奏である。
毎日大量に持ち込まれる上奏文は、あらかじめ臣下たちが吟味しふり分けをおこなう。
黒翠も最近、この役目をになう重役に加わった。
「そういう問題じゃないんだよ。『小さい足は可愛い』って流行らせてるのはむしろ女の人たちなの」
レイカは語気を強めながら、赤い絹布でできた小物を2つ、膝の上に置く。
「それは?」
黒翠はようやく上奏を置いてレイカの方を向いた。
「その小さい足で履く靴。たしかに可愛いよね」
赤地に桃の刺繍がほどこされた靴は、弓鞋と呼ばれる。
纏足によって指を内側に折り込んだ足は、甲が盛り上がり、爪先は細く尖るので、こういった奇妙な形の靴が生まれるのだ。
これを可愛らしく履くのが、高貴な女性たちのトレンドなのだという。
「あたしたちだって、オシャレのために肌を焼いたり入れ墨したり、耳に穴開けたりするでしょう?よく考えたら足を小さくするのも、それの延長なのかもね」
小さな靴を右手の指にひっかけて、裏側をのぞき込むレイカ。
靴底には蓮の花が刺繍されており、歩くたびに花の足跡が刻まれるようだ。
最初は理解できなかった事柄も、こうして視点を変えれば違う景色が見えてくる。
「……ふむ。その美意識はわかりかねますが、そのような背景があるのならば、禁令を出したところで抑えるのは難しいですね」
「そう、禁止するんじゃ意味ないの!だからさ……」
レイカは声を弾ませた。
そしておもむろに立ち上がって、スカートの裾をたくし上げる。
「じゃーん!見て!」
レイカの思わぬ行動に黒翠は目をみはり、思わず席から立ち上がった。
ふたりの目線は今、ほぼ同じ高さになっている。
「そんなもので、歩けるのですか?」
「よゆーよゆー!纏足よりよっぽど楽だよ」
レイカ特注の厚底靴は、白地に青と金で花の刺繍がほどこされ、ビーズもあしらっている。
ちょっと誇らしげに裾をもちあげたまま、レイカは黒翠のもとへ走ってみせる。
木製の靴底が床でコトコトと音を立てた。
「うわっ……っ!」
執務机の横まで来たところで大きくバランスを崩し、前方へ身体が倒れる。
とっさに差し出された腕に抱き止められ、何とか転ばずにすんだ。
「ごめんごめん。久しぶりだし、やっぱり木でできてると重くて」
「まだお身体も回復していないのでしょう。気をつけてください」
黒翠の胸に置いた手のひらに、どくどくと鼓動を感じた。
さすがの彼も、目の前で転ぶ主に肝を冷やしたのだろう。
レイカは黒翠から離れると、同じように早鐘を打つ自分の胸に触れた。
「でも分かったでしょう?厚底靴は、足が丈夫でないと履けないの。小さい足じゃ絶対無理。もしこっちの靴が流行れば、纏足はなくなると思わない?」
レイカは小椅子にかけて片足を上げてみせる。
厚底靴の側面には大きな牡丹が彫られていた。
底が高いほど凝った装飾が可能で、履きこなすにはより頑丈な足と体力を要する。
「なるほど。美を追求する女性の心理を逆手にとったのですね」
その大胆かつ斬新な発想に、黒翠は感嘆の声をもらした。
めずらしく褒められた気分になって、レイカは満足げにうなずく。
「これ、陛下に提案してもいいかな?」
黒翠は眉を寄せた。
「……陛下も女心には疎いでしょう。論じるよりも、まずは実践してみるのが良いかと」
その日から、レイカは厚底靴を履いて宮中を歩きまわった。
なにかと注目を集めがちな蘭才人のファッションは、多くの目をひく。
まずは流行に敏感な若い妃たちが真似しはじめ、その親族を通して城外にも伝わった。
その斬新すぎる靴は、とある場所で爆発的に流行した。
華やかさと個性を重んじる妓楼の女たちだ。
高い靴で堂々と舞う妓女たちの姿絵が出回ると、徐々に貴族や庶民にも親しまれるようになった。
* * *
「レイカさまは、政治に興味ありませんか?」
「……セイジ?」
「この国を豊かにすることです」
こう切り出されたのは、巷で厚底靴が広まりつつあった頃である。
唐突な問いに、レイカは困惑する。
「そりゃあ……皆が幸せになってほしいとは思うけど。でもあたしは聖人でもないし、ふつうにバカだし」
政治とは、まじめで頭が良い者たちが行うものであって、自分のような人間は関わるべきでない。
続くレイカの言葉を待たずに、黒翠は椅子から腰を上げた。
卓をはさんで向かい合うレイカに、端正な顔を近づける。
「では、海を見たことは?」
「う、海?……見たことあるけど。それが何?」
「私はありません。おそらく陛下も見たことがないでしょうし、この先一生目にすることはないでしょう」
河川が近く水の都ともいわれる王都だが、海は遠い。簡単に行けないのは当然である。
なおも話の筋が見えず、戸惑うレイカを置き去りにして黒翠は続けた。
「海水がどんな色なのか。魚はどう泳ぎ海藻はどう生えているのか。海底はどこまで深いのか。私たちは知りません」
改めて考えると不思議なことだ。
レイカにとって何でもない物事が、はるかに賢い彼らにとって未知の分野であるのが。
「こうして話すたびに思い知るのです。我が国の知識人が千人集まっても知りえない、途方もない量の知識と見聞を、あなたがお持ちだということを」
せまる黒い瞳には、好奇心が波立っている。
「でも……ただ知ってるだけで、あたしには何もできないよ」
レイカは自信なくこたえた。
黒翠が自分をかってくれるのは嬉しいが、それを生かすほどの立場も能力も無い。
「難しいことは必要ありません。ただ想像してみてほしいのです。大切な人が幸せになる方法を。咲羅王女には将来、どのような国で生きてほしいのか」
「咲羅に……?」
その言葉にレイカはハッとした。
いずれこの国にひとり残していく愛娘。
彼女を幸せにするためなら、どんな努力も惜しみたくない。
そして同時に頭をよぎったのは、かつて正憲と交わした約束であった。
『あたしはもうワガママ言わないし、もっと大人になる。だから陛下は、身分が高い人も低い人も、皆が幸せな国をつくって』
そう口にしたのは自分であったのに、結局そのあとも正憲に無理を言ってふり回した。
それでも変わらぬ愛情をくれる夫のために、何ができるだろうか。
「咲羅王女に纏足をさせたくないというレイカさまの想いは、結果的に多くの女性たちを救いました。これは立派な政治です」
黒翠は諭し、レイカを導いた。
政治とは、大切な人を想うこと────。
『できるわけない』
『やってみたい』
相反する感情が、よせては返しながら心を侵食していった。