欲しいもの
沙羅の事件以降も、レイカをとりまく環境は変わらなかった────というのは、あくまで表面上の話だ。
屋敷の外に出れば、つねに好奇と恐れが入りまじった視線がレイカに向けられた。
耳にとどく噂話は、程度の低さは同じであれ毎回異なる内容。
扶桑宮の女官たちでさえ、表には出さないが、どこか一線を画すようになった。
それでよいのだ、とレイカは自分に言い聞かせた。
こうして自分が注目されているうちは、外で暮らす宝珠や羊に目が向くことはない。
自ら矢面に立つことで、亡き沙羅に報いようとしていたのかもしれない。
態度を変えないのは、共犯者である黒翠と、何も知らない正憲だけだった。
「沙羅妃とそなたが友人であったのは知っている。レイカが優しい子だと、いずれ皆もわかってくれるさ」
久しぶりに扶桑宮をおとずれた正憲は、雄々しい顔に似合わずやわらかな言葉をかける。
宦官が死亡していた件についても「何か事情があるのだろう」と、あえて聞くことはしなかった。
正憲のかたわらには、いったいどこから取り寄せたのか、赤やオレンジのハイビスカスの鉢植えが10鉢と、それに似合う南国の果物が盛られた籠がある。
「ありがとう……ございます」
茶器の並んだ卓の端に両手をついて、頭を下げるレイカ。
慣れない敬語を使うほどに感謝はすれど、その豪華な贈り物のどれも、心を晴らしてはくれなかった。
「レイカ、気晴らしにまた街へ出かけないか。好きなものを買ってやろう」
「……あ、あのね。欲しいものがあるの」
緊張した面持ちのレイカを前に、おだやかな笑みをたたえ、茶をひとくち含む正憲。
「言ってみなさい」
レイカは息を吸い込んだ。
腹の底にたっぷりと空気をためてから、小さな声をもらす。
「……こども。赤ちゃんが欲しい」
「……」
みしり、と空気が奇妙な音をたてる。
正憲の手からこぼれ落ちた菓子が、床で崩れた。
「こども、とは……」
目を見開いたまま、正憲は瞬きすら忘れたように硬直した。
やや間をおいてから真剣な面持ちでたずねる。
「養子をとりたいという……意味では、ないのだな?」
レイカは深くうなずいた。
正憲の立派な眉が、八の字にゆがむ。
「レイカ。言うまでもないことだがな、後宮で子を産むということは、同時に多くの争いやしがらみを生む。生まれるのが男児であったらなおさらだ。わたしは、そなたを危険にさらしたくはない」
めずらしく厳しい物言いの正憲に、レイカは強い眼差しでこたえる。
「あたしはそれでも産みたい。それにもし男の子なら、王妃さまの養子にしたっていい。でも女の子だったら……あたしが育ててもいいでしょう?」
覚悟を示すレイカに、正憲はさらに驚きの表情を見せた。
「そこまで……考えていたのか」
韋王妃は最初の子を亡くして以来、一度も授からないまま36歳になろうとしている。
長年思いつめる王妃のために、そろそろ縁戚から養子をむかえては、という話も出ていた。
しかし王妃の子なれば、やはり国王の血をひく子が望ましい。
仮腹として、女官か位の低い妃に産ませられないかと嘆くのは、王妃の父である韋宰相だ。
「ずっと寂しかったの。だからひとりだけでいい、毎日会えなくてもいいから、血の繋がった家族が欲しい。だから……お願いします」
レイカは椅子から立ち上がると床に膝をつけ、腰をおって深く拝礼する。
「寂しい」という言葉が出てしまえば、罪悪感が正憲の口を塞ぐことは明らかだ。
「……少し、外しなさい」
正憲はレイカを見下ろしたまま、低い声で命じる。
ずっと息を潜め、背後霊のように控えていた黒翠が、戸を開けて退出した。
二人きりになったところで、正憲はレイカへ歩みより、顔前へ腰を下ろす。
「何と愚かなことだ。わたしがレイカをそこまで追いつめていたとは。……わかった。それほどまでに子を望むのなら、わたしも協力しよう」
大きな手のひらが、少女の両肩にそっと触れた。
「それでレイカは────誰か好いた男がいるのか?」
「え?」
思いもしなかった言葉に、レイカは顔を上げた。
この期におよんでも正憲は、年頃の娘を前にした父の顔をしている。
「いないのなら、良家の男を紹介してもいい。まだ若いのだから、それからでも遅くはないだろう」
「ちが……あたしは……」
レイカの反論をさえぎり、首を左右にふる正憲。
「妃だからといって、わたしに操を立てる必要はないのだよ。もしここの生活が嫌なら、いずれ下賜することも考えよう」
「……」
レイカは思い知らされた。
自分の想いは一方通行なのだと。
そしてがく然とした。
「……もういい!」
正憲の手をふり払うと、そのまま背後の寝台へ飛び込むレイカ。
そして自分と外の世界とを遮断するように、帳を閉めた。
「レイカ……?」
「嘘つき!心配するふりして……あたしが嫌いならはっきり言ってよ!」
女心がこれほど移ろいやすいとは、当人でさえ想像しなかったのだから、正憲の困惑は相当なものだろう。
レイカはかつて「おじさん」と呼んでいた頃とはまるで違う感情を、いま帳の前で立ち尽くす男に抱いていた。
この世界の人間の冷たさと、生き抜くことの厳しさを知ったレイカにとって、正憲のもつ底なしのあたたかさは、暗闇を照らす唯一の光であったのだ。
「違う。嫌っているのではない。ただ、幸せになってほしいと────」
女として見られていないのは、覚悟していた。
だが考えたこともなかったのだ。正憲が自分を手放し、他の男に嫁がせるなど。
「沙羅のところには、行ったくせに……」
レイカは怒りにまかせてくしゃくしゃに丸めた紙を、帳の外へ投げ捨てる。
そこには丁寧な文字で
【あなたが好きです。】
と書かれていた。
もしも今日、うまく言い出せなければこの手紙を渡そうと、昨夜したためておいたものだ。
これを見た正憲はさぞ驚くだろう。
卒倒して怪我でもするかもしれない。
そうなってしまえと思った。
レイカは抱えた膝に唇を押し当てて、じっと外の反応を待つ。
しかしどれだけ待っても、正憲の声は聞こえなかった。
とうとう呆れて出ていったか。
そう思いレイカが顔を上げると、帳のすき間から何かが差し込まれている。
皺だらけだが見覚えのある紙が1枚。
先ほどレイカが投げつけたものだった。
折り目をひらくと、無骨な字で日付と時刻が書き加えられている。
「あ……」
急いで帳を開けるが、すでに正憲の姿はない。
変わりに立っていたのは黒翠だ。
射貫くような視線とともに温度のない声が、レイカへ放たれる。
「それがあなたの、本当に欲しいものですか?」
それは『後悔しませんか?』と同義に聞こえた。
「……そうだよ。だって他のみんなには、アンタにだって家族がいる。だけどあたしにはいない。この世界のどこにもいないんだよ」
心の奥に隠していた本音を吐露しながら、レイカは涙をこぼす。
沙羅は死んでしまったのだ。
親友よりも、生まれたばかりの我が子を選んで。
血の繋がりの前では、きっと百年の友情すら敗北する。
レイカの『家族』への強い執着は、複雑な家庭環境に由来していた。
元の世界にいた頃から、心を許した他人を「ねーちゃん」「妹」「アニキ」などと呼び、かりそめの家族を作りたがった。
「寂しいというだけで子を産むのですか」
黒翠はめずらしく驚いた顔を見せる。
その内は哀れんでいるのか、それとも呆れているのかわからない。
「そんなあたしは……自分勝手だと思う?」
少なくともレイカ自身はそう思っている。
だけどそれは「何となく」「可愛いから」で子を産む女たちと何が違うのだろう。
権力のために男児を欲しがる妃たちはどうなのか。
意図せず身ごもってしまった沙羅たちや自分の両親と、どちらが悪い?
他者を欲するという感情は、どんな背景があれど、身勝手でしかないのだ。
「……いえ。ただ、嵐のような方だと思いました」
黒翠はそう言って、形のよい唇で笑みをつくった。
まるで桃色の可憐な花が咲いたような、美しい笑顔だった。
鉄仮面がこんなふうに笑えることを、レイカは初めて知った。