悪女の決心②
それから3日後、約二百名の禁軍兵が、沙羅妃殺害の容疑者を捕えるため王都に放たれた。
しかし彼らには、すぐに解散の命令が出される。
容疑者が意外なところで発見されたからだ。
場所は後宮。蘭才人の住む扶桑宮の井戸の底であった。
取り調べに対し蘭令華は
「この宦官は、あたしの可愛がっていた猫を井戸に落としたの。だから同じ目に合わせただけ」
と答えた。
調べてみると確かに、扶桑宮の周りをうろついていた、橙色の首輪をつけた猫が最近姿を消していたと判明する。
沙羅の死後、後宮ではさまざまな噂が流れたが、その中心は蘭才人へと変わっていった。
『沙羅妃と蘭妃は友人だったのよね。敵討ちで宦官を殺したのかしら』
『どうせ処刑されるのだから、自分でやる必要ないじゃない。何か後ろめたい事があるに違いないわ』
『沙羅妃殺しも、蘭妃が指示したのでは』
『懐妊した沙羅妃に嫉妬したのかも』
『三角関係だわ。蘭妃はきっとあの若い宦官が好きだったのよ』
妃が宦官を虐げることは珍しくない。
そして妃同士がいさかいで命を落とすことも。
噂話は人々にすりこまれ潜在意識へと変わり、捜査をますます手薄にする。
宦官による妃殺しは大事件だが、その首謀者が妃ならば、おのずと真相は闇に葬られる。
問題を大きくしたくない宮廷にとっては、むしろその方がありがたいのだ。
そういう空気を、渦中にいたレイカは肌で感じていた。
結局、容疑者死亡により沙羅妃殺害事件は迷宮入りとなってしまった。
沙羅の遺体は今も陵墓の下で、猫とともに眠っている。
「あなたが、ここまでなさるとは思いませんでした」
「……ごめんね」
レイカは黒翠の手のひらを掴んで、桶にはった湯に浸した。
長く骨ばった指を持ちあげて、爪の裏の汚れを化粧筆で落としてやる。
井戸で見つかった羊の遺体は偽物である。
身元不明の遺体から背格好の似た少年を選び、宦官服を着せただけだった。
不安要素であった瞳の色は、死後に白濁することが幸いした。
捜査の目をそらすには、死んだことにするのが一番なのだ。
「ここまでなさるとは」という言葉を、レイカは心の中で黒翠に返した。
遺体を運び出し井戸に放り投げるなど、女ひとりにできるはずがない。
指示に従い、時にアドバイスを交えながら粛々とこなしていったのは黒翠自身だ。
レイカにできることといえば、日々汚れていく黒翠の手をこうして洗ってやることくらいしかない。
「どうしたら、アンタみたいに強くなれるの?」
「……おのれに正直になることでしょうか」
意外な回答であったが、後宮でもっとも権勢をふるう蕭貴妃のことをレイカは思い出した。
横暴であるが、最も正憲に愛され、皆から怖れられる存在。
後宮で生き残るにはそういう気性が最も適しているのかもしれない。
「人の生涯は短く、掌はあまりにも狭い。守るべきものを見極め、それ以外を捨てる勇気こそが“強さ”かと」
黒翠は湯の中へ視線を落とし、丁寧にすすがれるおのれの手を見つめた。
「ところで羊の件ですが、どうやら生きていたようです」
「ほんと!?」
沙羅の産んだ赤子『宝珠』を寺院に預けたきり姿を消した羊少年が、つい最近その寺院に現れたという。
「今は移民街でその日暮らしをしているようですが、もし生活のめどがついたら、宝珠をひきとりたいと言っていたそうです」
沙羅を失ってからは生気が抜け、我が子にさえ興味を示さなかった羊少年。
命がけの逃亡劇のなかで、次第に親心が芽生えてきたのかもしれない。
「よかっ……た……」
レイカが声を吐くと同時に、湯に涙が落ちた。
とうとう守り抜いたのだ。
沙羅が命がけで愛し、守ろうとした2人を。
……ごめんね、沙羅。
あたしバカだから、こんなことしかできなくて────。
うつむいて肩を震わせるレイカ。
ふと、耳たぶの下に冷たいものが触れた。
「ここにも、血がついていました」
黒翠は端正な顔を保ったまま、濡れた手を桶に戻す。
中の湯がひどく濁って見えた。
【こぼれ話】
黒翠は去勢しているので、喉仏が少ししか出ておらず、声変わりもほぼしてません。
ただ意識して低く出しているので、ハスキーな女性くらいの声をしています。