悪女の決心①
「れぇか」
高く舌足らずな声で名を呼ばれふり向くと、小さな子供が立ってレイカを見上げていた。
餅のように丸く白い顔に、金色の髪が頭上で2つのお団子に結われている。
身をつつむ青の衣から、男児であるとわかった。
その2,3才くらいの幼い少年は、レイカにニコリと笑いかけたと思えば、背を向けてトコトコと歩き出す。
あとを追いかけていくと、小さな朱色の門が現れる。
少年に続いてレイカも門をくぐった。
そこは後宮のはずれにある小さな屋敷で、花壇には白と黄色の花がつつましく咲いている。
少年は両腕を広げ、走り出す先にはひとりの女の姿があった。
白の衣に薄いオレンジのショールを重ねた女は、少年を足元で抱きとめた。
「レイカ!」
顔を上げた女の声は、どこか少年と似ていた。
「沙羅……?」
そうだ。あれからもう何年も経ったのだ。
あの小さな赤子が、こんなに大きくなってしまった。
母に甘える翡翠色の瞳は、空の色を吸い込んで青みが増している。
「沙羅、久しぶり!」
レイカは満面の笑みで叫び、すっかり母の顔になった友のもとへ駆け寄った。
* * *
レイカは寝台の上で目を開けた。
「……」
亡き親友はいつもこうやって、夢で幸せそうな顔ばかり見せる。
とうとう彼女の亡骸と対面することはなく、葬儀にも参列できなかったせいだろう。
レイカの中の沙羅は、いつまでも可愛らしい少女のままだ。
沙羅の死からすでに4日が経っていたが、レイカは起き上がる気力もなく、こうして日中の大半を寝床で過ごしていた。
枕元に腕をのばし、何度開いたかわからない水色の表紙をめくる。
『12月2日 この子が無事に産まれてくるのか、生きていけるのか、とても不安。この気持ちはお腹の子にも伝わってしまうのだろうか。だけどすべてがうまくいったら、どんなに幸せだろう。愛する人の子を産むなんて、一生叶わないと思っていたのだから』
その文字は沙羅の手によるものではなく、羊が沙羅の日記を写したものだ。
沙羅がこれと同じ内容を綴っていたのは、ここに記載された日付の2か月前、10月2日頃のはず。
半年も前の出来事だ。
「沙羅……」
それなのに、まるでそこにいるような気がして、名を呼ばずにいられない。
どんな気持ちでこの日記を書いたのか。
おびえて震える肩を、今すぐ抱きしめてやりたい。
離宮になんて行かせなければよかった。
後悔がとめどなくレイカの胸へ押し寄せる。
それでも幸せな未来を信じ、赤子の誕生を待ち望んでいた沙羅。
きっと夢を通して、叶わなかったその未来を見せているのだとレイカは思う。
「レイカさま。体調はいかがですか」
帳の向こうで響いた声に、レイカは慌てて日記を閉じた。
喪服の白をまとう彼の姿にも、ようやく見慣れてきたところだ。
その少女のような顔のせいで、はじめはどこの女官だろうかと勘違いしてしまった。
「沙羅さまは本日、才人から昭儀へ昇格されました。生前の功績をたたえ、寵妃として丁重に弔われています」
昭儀といえば四夫人のひとつ下の位で、その大出世は男児を産んだ妃に相当する。
じっさい沙羅の赤子は、男女すら判別できぬ状態で発見されたのだが、正憲はそんな母子をたいそう不憫に思ったのだろう。
そして沙羅の訃報は、すでに母国の我羅国へも渡っていた。
ただ真相は伏せられ、妊娠中に子宮から大量出血し、そのまま母子ともに死亡したと伝えられた。
どれだけ高貴な身分でも、妊婦の死去は珍しくない。
葬儀には我羅国の使者も大勢参列した。
遺体の損傷は下腹部のみであったため、死因を疑われることはなかったという。
沙羅の表情が、惨殺されたとは思えないほど安らかであったことも、功を奏したようだった。
我羅国の使者たちは、沙羅が懐妊していたことや、死後も破格の待遇を受けているのを目の当たりにして大層感激し
『沙羅さまは覇葉国の妃です。このまま、貴国でお眠りいただきましょう』
と告げ、亡骸を持ち帰ることなく帰還していった。
「これで我羅国との国交がこじれることはないでしょう。すべて順調に進んでいます」
帳の向こうで黒翠の声がする。
レイカは虚ろな目で、寝台にのばした自分の足先を見つめていた。
この現状が、何をもって順調と言うのかわからない。
「……ぜんぶ、あたしのせいだ」
力なくつぶやいた。
「よく考えもしないで、赤ちゃん産もうってあたしが言ったから……。だから沙羅は死んじゃって、羊くんも……」
「レイカさまのせいではありません」
「いいよ、そんなの」
「私はなぐさめを言っているのではありません。すべて客観的な事実です」
帳が開き、寝台の中に日が射し込む。
黒翠はまくしたてるように続けた。
「いいですか。レイカさまはそもそも、極秘出産し赤子を手放すことを提案しました。その通りにしていれば、少なくとも沙羅さまは死なずにすんだでしょう。それを陛下の子として産むよう言ったのは私です。そのせいで計画がこじれたのです。ですからこの件の責任は、すべて私にあります」
「そんなこと、は……」
レイカは首を回し、この日はじめて黒翠を見た。
口調に反し、その表情はどこまでも冷ややかだ。
「この議論が、どれだけ不毛かおわかりいただけましたか」
「……」
苦い気持ちで口を閉じる。
しかし続いて耳にした事柄に、レイカの心は少しなぐさめられた。
羊少年が死にもの狂いで連れ出した赤子は、無事に寺で保護されたというのだ。
「赤子の名は“宝珠”と言うそうです。生前に沙羅さまが名付けられました」
初めて知った真実に、胸がつまった。
『名前は陛下がつけるから……』とレイカが口にした時、すでに赤子には立派な名がついていたのだ。
名を与えられる日が来ないことを、沙羅は知っていたから────。
「羊くんは?無事なの?」
「彼とは連絡の手段がないので、わかりません。ただ宮中で彼が失踪したことは既に気づかれていますから、じきに捜索が始まるでしょう」
今になって思えば、羊による犯行というのは、よくできた嘘である。
生前、沙羅のもとを大勢の妃がおとずれ、そばにいる少年宦官は注目の的であった。
それは瞳の美しさと、彼が当時では珍しい「宝具」を装着した男性であったことに由来する。
目ざとい女たちの中には、沙羅との主従を越えた関係に気づく者がいてもおかしくない。
しかし今回の惨劇によって、それが羊の一方的な横恋慕にすぎなかったと裏付けられた。
母子を惨殺し逃亡中の羊こそが、子の父親だなどと誰が想像するだろうか。
真実をわずかに混ぜた嘘によって、沙羅の名誉と赤子の命は保障されたのだ。
「このまま羊くんは……ひとりで罪をかぶって殺されるの?」
土地勘のない少年が、この王都を逃げ切るのは絶望的である。
黒翠は淡々とこたえた。
「そもそも羊は、死刑に処されるべき罪人です。妃へあらぬ感情を抱き、子まで成してしまったのですから」
「でも……」
彼はまだ子供だ。
それに黒翠自身も、弟のように可愛がっていたではないか。
「レイカさまが心配することではありません。どうぞご自身の回復につとめてください」
突き放すような言葉に、レイカの腹の底で何かが弾けた。
「────いい加減にしてっ!」
薬湯の入っていた椀を掴み、床へ投げつけた。
破裂音とともに、陶器の欠片が四方へ飛んでいく。
黒翠はぴたりと停止し、丸い目でレイカを見た。
「アンタだって気づいてるんでしょう!?沙羅が死んだのは、2人を逃がすためなの!赤ちゃんも羊くんも、両方守りたいに決まってる!」
経験したことのない、激しい感情がわき上がる。
怒りの炎は悲しみを燃料に、レイカの心を赤く燃やしていった。
死んだ沙羅を思うと、あまりにもやりきれない。
命を奪われ、体を辱められ、唯一愛した男すら守れない。
子を身ごもったばかりに、そんな目に合うなんて、許されるはずがない。
しかしそんな気持ちの一方で、怒りの矛先はその沙羅へも向かっていた。
親友に何も言わず、ひとり死んでいった沙羅。
それを止めなかった黒翠。
沙羅を身ごもらせた羊。
自分をひとり蚊帳の外に追いやった彼らに、レイカは憤っていた。
「もうこれ以上……奪わせない。何も……」
沙羅からも、あたしからも────。
肩で息をしながら、レイカは床に脚を下ろして立ち上がる。
怒りと共に、全身に気力がみなぎってくるのを感じた。